この前、故郷の町に帰った時の話だ。
実家で親に挨拶して、友達に会って、馴染みの酒場に行って思い出話なんかしていると、ひとりの女性が店に入ってきた。
前髪が長くて妙にぺったりとして、見えている部分の顔は美人に見えるが唇が切れてかさついている。やたらと細く色白な、なにやら陰気そうな女性だ。俺たちの横を通り過ぎると慣れたようにカウンターの端っこに座り、彼女はメニューも見ずにじっと店主が注文を取りに来るのを待っていた。
なんだか不気味だと思いながらも視線を戻すと、友人たちがひそひそ声で教えてくれた。なんでも随分遠くから嫁いできたというのに旦那が浮気をして逃げてしまったらしく、それ以来頼るものもないこの町で過ごすうちに様子がおかしくなり、旦那に似た男を見つけては恨みつらみをびっしりと書いた手紙を押し付けるという。酒場に来るのは、旦那が酒浸りだったからだ、とも。
いくらなんでも下世話で失礼な作り話だ――と思ったが、彼女は確かに財布と一緒に手紙らしきものを握りしめていた。骨と皮だけのような手がのろのろとそれをカウンターに置いて、両手でグラスを受け取って恨みがましく睨んでいる。
「おまえ、ちょっと元旦那に似てるよ」
「やめてくれよ……」
危ないかもな、などと笑われて少しばかり背筋が寒くなる。そのあとも友人たちは、手紙を受け取ると不幸になる、事故に遭う、化け物に襲われる、などとあからさまに作り話じみた蛇足で怖がらせてくる。いくらなんでも当事者が同じ空間にいるのに失礼だ、と少しうんざりしてきた頃だった。
「おー、賑わってんじゃねえか」
上機嫌のような、少しバカにしたような声と共にひとりの男が店内に入ってきて、笑っていた友人たちがぎくりと肩を強張らせて口をつぐんだ。話は止まったものの、あまり喜ばしいことではない。
「おまえ……なんだ、久しぶりだな。戻ってきたのか」
「たまたま寄ったからな。相変わらずシケた町だぜ」
けらけらと笑う灰色の髪の男は、俺たちの世代なら誰もが知っている伝説だった。伝説といってもけしていい意味ではない。暴れ者のユーゴといえば厄介者として有名で、喧嘩っ早いのはもちろん、借りた金は返さないわ人のものを強引に奪うわ脅して飯を奢らせるわ、とにかく迷惑行為はなんでもした。そして悪びれずに笑っているものだから、彼よりいくらか年下の俺たちにとっては化け物より恐ろしい存在だった。
記憶にある限り、彼もよその町へと出ていった筈だった。親と揉めたとか、手を出してはいけない女に手を出したとか、憶測はさまざまに飛び交っていたが本当のところは分からない。しかしこの様子だと、元気にやっていたらしい。
「ちゃんと金払うんだろうな。あと昔のツケも払ってくれよ」
「今日の分くらいあるっつーの。昔のなんか知らねえよ」
カウンターにどんと座ったユーゴに、店主が呆れた顔をしながら酒を出してやる。どうせ金なんか払わないというのに、ユーゴは昔からなんというか――なんだかんだ仕方ないと許されてしまうところがあった。だからこそ俺たちにとっては理不尽なのだ。どんな目に遭わされても、通り雨に降られたと思って我慢しろ、と言われてしまうからだ。
「……絡まれる前に切り上げるか」
「そ、そうだな。今ある分を飲んだら帰ろう」
俺たちは言葉少なに残りの酒をちびちびと飲んで、店を出ることにしたのだった。
――ふと帰り際に視線を向けると、あの女性はじっとユーゴの方に視線を注いでいる。まさかな、と思いながら友人たちと帰り道を歩いていると、ふと一人が思い出したように言った。
「そういえばさ、ユーゴってあの元旦那によく似てるよな」
「ああ、確かに。酒浸りなのも同じだし……髪の色も、あとついでに腹が出てるとこもな」
「じゃあ今日はユーゴに渡すのか?」
顔を見合わせた俺たちは、興味と恐怖の入り混じった顔で黙りこくった。
――どちらが勝つのか。不謹慎ながら、そう考えてしまった。
◆
次の朝は、妙に薄暗かった。そろそろ雨でも降るのだろうか、空には雲がかかっている。
まだ朝食もできていないというので、俺はなんとなく軽く散歩をすることにした。雨が降るなら昼間は家に篭もることになるかもしれないので、外の空気を吸うなら今のうちだ。
「ふあ~……」
大あくびをしながら外に出ると、じっとり重たく冷たい空気が肺に流れ込んでくる。遠くまでは行かない方がいいだろうと思いながら懐かしい通りを歩いていると、ふと視界の端に灰色が映った。
昨日の格好のままだらだらと歩いているのは――ユーゴだった。
今まで飲んでいたのだろうか。にしてはなんだか気の重たそうな顔で、野良猫のように路地に消えていく。――手紙はもらったのだろうか? なんとなく気になって、その路地の前まで歩を進めた。
思えば、そう、興味以外に少しの下心があった。あのユーゴが不幸な目に遭うのなら、その姿を見てやりたいと。
ちらと端から横目で覗く。ユーゴの姿は見えない。どうやら角を曲がってその先へ行ったらしい。そろそろと歩いていくうち、冷たいものが手足に当たり始めた。
降ってきたか――と地面を見たとき、一枚の紙が折れ曲がって落ちていることに気づいた。
屈み込んでそれをつまみあげたとき、曲がり角の先がぼんやりと光った気がした。紙を持ったままゆっくりと近づいてその先を見る。
誰もいない。
そこはどうやら行き止まりで、扉もなく、木材となにかの道具がいくらか積まれているだけだった。後ろを振り返るが、そっちには道がない。
なら、ユーゴはどこへ行ったんだ。
俺は拾った紙を恐る恐る開いた。びっしりと黒く炭のようなもので文字が書き付けられている。文字そのものがやたらと整っているせいで、中身をはっきり読み取れてしまうのが恐ろしかった。
その手紙の、内容は、
「……あなた……?」
――か細い声とともに肩に置かれた手に、ぎくりと全身が強張る。
勝てなかったのだ。あのユーゴでさえも、……どういうわけか、跡形もなく消されてしまったのだ。
引きつった唇から、ひい、と声にならない声がこぼれ出た。
◆
「朝からごめん! ちょっと人手が足りなくて――」
「ったく、しゃーねーな。まあ丁度よかったぜ」
「……まさかまた金貸しに追われて……」
「違ぇよ! いやー、なんかヤベエ手紙貰っちまってよ。いつのまにか鞄に入ってたから道に捨ててきたけどな」
「そのへんに捨てるなよ! ……何が書いてあったんだ?」
「憎いとか殺すとかなんとかな」
「……身に覚えは?」
「ありすぎて分かんねえ」