雨上がりの夕暮れは、小さな水溜まりを散らして弾けさせる靴のぱしゃんと跳ねる水音や、看板のネオンをあちこちへと反響させる水面の照明で、晴れの日のそれよりも数倍やかましい。世界がいつもよりそわそわと、ざわざわと浮き立つようで、潤んで歪む視界に急かされるような誘われるような危うい心地が不埒に疼く。吸った空気に湿度を感じて、その僅かな重みに上顎が濡れた。飲み込むために動いた喉はこくりと音を鳴らし、夜の喧騒にささやかながら参加する。瀬呂、と名前を呼ぼうとして、あまりにも甘ったるい響きになりそうな予感に、躊躇して諦めた。
「今日帰んのめんどくせえな〜……どうせ明日遅出だし、俺どっか泊まってくわ」
 三日かけて用意した誘い文句は、もしかしたら少し震えていたかもしれないし、甘えが滲んだかもしれないけど、街の騒めきが上手い具合に暈してくれた。いつものチャラけた俺の笑顔、唇の角度も頬の引きも完璧にいつも通り。でも気付いて、瀬呂、俺ね今お前のこと誘ってんの。ああでも、俺とソウイウ恋人になる気は無いなら、気付かないで。伝わるはずない我が儘で綯い交ぜの俺の胸中なんか知らないよとでも言いたげに、瀬呂はすっからかんの顔で笑った、「え〜? なら俺も泊まろ」だって。なんだそれ。
 瀬呂範太と恋人として付き合い始めたのは半年も前の話だ。高校時代にめちゃくちゃ仲良くなった瀬呂とは、卒業してからも当たり前みたいにずっと仲良くて、オフの日が被る度に遊んだり、被らなくても飲みに行ったり俺ん家で飲み明かしたり、恙ない友人関係をかれこれ七、八年ほど続けてた。……その筈だったのに半年前、駅ビルに入ってる瀬呂の馴染みの服屋を目掛けて歩くその道中、確かスクランブル交差点のど真ん中で、「そろそろ付き合っとく? 俺たち」と、急に言われた。
当然、周囲の雑音に紛れて聞き間違えたんだと思った俺が「なに?聞こえなかった、もっかい言って」と返したのを、瀬呂は、んんー…としばらく考え込んだのち、するりと俺の手を取り指を絡ませて繋ぎながら、「そろそろ付き合っとく? 俺たち」と、さっきと大して変わらない声量のまま繰り返した。横断歩道はすっかり渡り終え、麦畑の軽快なメロディがぷつんと途切れて黄色い点滅、そして赤。雑踏は依然と煩いけれどそれでも確かに俺の耳には聴こえてて、ぎゅっと力を込められる手からも伝わってて、それでもやっぱりもう一度「……聞き間違えたと思うからもっかい言って?」と怪訝な顔する俺のことを、瀬呂はバァカと笑って、そして手を引いた。
その時まで俺は瀬呂のことを親友だと思っていたけれど、瀬呂があまりにも当たり前みたいな顔して、あまりにも自然に笑ってたから、もしかしたら俺たちは今まで親友以上恋人未満だったのかなとすんなり、思えてしまった。馬鹿だと思う。日頃、俺は個性の性質柄よくアホになるけど馬鹿ではなかった筈で、でもあの半年前のあの時に、たぶん馬鹿になったんだと思う。女の子が大好きで男と付き合うなんて夢にも考えたことなかったのに、なんでだろうあの時の瀬呂と繋いだ手は他の誰よりもしっくりと馴染んで、違和感なんて欠片も無かった。「俺って瀬呂のこと好きだったの?」と、手を握り返しながら瀬呂に聞いたら、「」  そっかぁじゃあそろそろ付き合っとこっかなんて簡単に、思えてしまった。
それは例えば、今まで普通に食べてた食材がある日突然、「あれ? これすげえ美味い、すげえ好きかも」なんて特別になっちゃうみたいな、例えば昔から好きだった曲の歌詞を改めて読み直したら、気付かずにいた解釈に開眼したような、日常に埋没した小さな一驚で、そしてひとたび気が付いたらもう元には戻れない強さの、革命だった。そうか、俺は瀬呂が好きだったんだなあ。途端に世界は色味を変えて、握った手の温もりに「嬉しい」や「愛しい」の名前が付く。そうして俺たちは友達ではなくなって、恋になった。
自分で言うのは虚しいけれど俺はとても単純だ。恋をすれば、欲が出る。てのひらサイズの温もりだけじゃすぐに足りなくなって、あの交差点の日から一週間も経てば、身体とかおでことか、ほっぺたとか、唇とかの熱を共有したくなる。瀬呂の整然とした歯並びを、ただの整然とした歯並びとしか見てこなかったのに、今や(なぞってみてえ)だの(噛まれたらどうなるんだろ)だの、剥き出しの欲で眺めるようになった。まさか瀬呂の歯に欲情する日が来るなんて思いもしなかったよ、世界は簡単に一変する。
瀬呂にそれを伝えることは特に難しくなかった。なにせ長年の付き合いだから、恋愛特有のほのかな羞恥心もさしたる邪魔立てにはならない。今まで俺は瀬呂に言葉を遠慮したことはほぼ無いし、瀬呂もそうだと思ってた。だからなんの気構えもなく言った、「なあ、ちゅーしよ」と。一応、する前に先に伝えたのは気遣いのつもりで、瀬呂のことだから「ムード無いねお前」とか笑ってくれるもんだと思ってた。が、予想はまるで外れた。
「まだ、ダメ」
 お預けですよ、ステイ、などと俺のおでこに片手を当てて言葉と行動で拒否し、それからぺちんと小さくデコピン。なんだそれ。わざとらしいほどの犬扱いされたことに脊髄反射で怒ってしまい、キスを拒否された理由を聞き損ねた俺はやっぱり馬鹿で、そうして一度失した機会は二度目を許してくれなかった。どうしてダメなのか、なんでまだなのか、直球で聞いてもはぐらかされるし遠回りに探れる器用さは持ち合わせてない。いっそのこと無断でやっちまえと狙った瞬間、瀬呂の目が真っ向から俺を見据えて「ステイ」とひと言の牽制を刺す。なんで分かんの。なんでステイなの。付き合ってんでしょ、俺たち。我ながら喧しく問い詰めても瀬呂は「うるせ~」と笑うばかりで、それでも片手分の恋人要素はちゃっかり絡ませてくるもんだから、アホであり馬鹿な俺は容易く言い包められてしまうのだ。
 結論。きっと瀬呂は、俺と、粘膜での接触を求めてない。
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原稿にしたいと思っているもの
初公開日: 2020年05月13日
最終更新日: 2020年05月13日
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コメント
あれ?配信されてる?止まってない?ってくらいに遅筆