仲が良かった覚えはないけど、特別苦手だったわけでもない。久しぶりに会ってどうにか名前が思い出せるくらいには会話も交わしてるし、友達には屈託ない癖私にはどこか遠慮したようだったその笑みも、見ればそうそうと頷ける程度に記憶していた。
 ただ、何と呼んでいたかが思い出せなかったから、当たり障りなく名字で済ませた。
「あ、真山さん……」
「えっと、……前田さん、だよね。飲み帰り?」
 愉快なあだ名だったような気がするけど、肝心の音の並びが喉の辺りに引っ掛かっている。クラスでそう呼ばれていたのを何となくなぞっただけの呼び名。酔った頭を回すと先に胃の中身が出てきそうで、私は溜め息と一緒に頷いた。
「会社のね、……やー疲れるよ」
「はは、大変だね……」
「そういう真山さんは、これから?」
「……ん、そんな感じだけど」
 駅前の大通りを少し外れて、並ぶのは飲み屋の看板ばかり。酔った様子のない彼女に尋ねると、歯切れの悪い返事をしながら、真山さんはスマホを取り出した。
「気乗りしなくて、このまま帰りたい」
「あ~……」
 その気持ちはとてもわかる。でも詳細を知らない分気軽に口を挟めないから曖昧な同意だけを垂れ流した。あ、気持ち悪い。
 飲み放題のうっすいハイボールがぐるぐるしている。それをどうにかやり過ごしてると、ふと真山さんが呟いた。スマホを操作したまま。
「前田さん次ある? 電車とか、急いでたりする?」
「えっと、……早く帰って寝たいくらい?」
「ああ、それは大事な用事」
 まさか呼ばれたりする? 勘弁してほしいなぁと思ってると、彼女はスマホをしまって、それから目を合わせてきた。
「あのさ、……良かったらだけど、二人で飲まない?」
「あれ、」
「断った、今」
「うっそ、……いいの?」
 てか操作してたの、私が答える前だと思うんですけど。行動力あるなぁ、と感心とも呆れとも付かない思いで、いいのいいのと笑う彼女を見る。少し砕けた調子のそれは、あの頃は私でなく、彼女の友人に向けられていたものだったような気がする。
「で、どうかな? あ、断ったのは気にしないでね、元々行きたくなかったし」
「ん~……」
 それでもやっぱり、少し面倒には感じていたけど。良くも悪くもない彼女との、あるかもわからない今後の仲を思って。でも恐らくはそれ以上に、彼女が見せてくれた笑顔に気をよくして、私は頷いていた。
「はー……そっか、まえり」
 真山永莉、が彼女のフルネームで。たまたま一年のときに同じクラスにエリが三人いたとかで、それぞれ名字のお尻から取って、ちえり、まえりと、あと一人は忘れてしまったけど、そうあだ名が付いたらしい。クラスが上がってもそれは定着していて、私はその由来も知らずにただ呼んでいた。改めて、ただのクラスメイトな距離感を自覚して気恥ずかしく、氷だけになったグラスをいじる。次はノンアルじゃなくてもいいかも、と胃の調子と相談しながら考える。
「前田さんはずっと祐希のままだったよね、……私なんて呼んでたっけ?」
「はは、……それも覚えてない」
「ふふ……あんまり仲良くなかったし、しょうがないね」
「そうそう、しょうがない」
 体はトイレに行きたがってるのに喉が潤いを欲して、グラスを傾ける。ノンアルの甘いばっかの味が舌に数滴と、氷の痛いくらいの冷たさが染みる。
「頼む?」
「……それ、なんだっけ」
 尋ねられたから、ちょっと間を空けてグラスを置いて、彼女のそれを指してみた。
「えっと、……これ。モスコミュール」
「じゃあ同じので……頼んでてもらっていい?」
「うん」
 示してくれたメニューもちらっと眺めるだけで、早々に席を立つ。何となく気恥ずかしかった。
 心の奥でぼんやり期待していたよりずっと、彼女との席は楽しいものだった。社会人になって、友達らしい友達も作れず、壁の作ったばかりの日々か、本音ばっかのSNSか。そんなしがらみのないいつかを今日に持ち合わせて、くだらないやり取りをそれなりの距離で交わし合える二人の時間が、心から楽しかったのだ。後が面倒だとわかってて、終電を言わずに見逃すくらいには。
 舌に残る柑橘類のねばっこい甘さを感じながら、アルコールでやや早い鼓動を自覚する。言ってみたいけど、多分言えずに終わる、でもそう思い悩むほどでもないはずのことが、浮かんでいる。本当に大したことじゃない。名前で呼んでもいいと言って、名前で呼んでもいいか訊きたい。でもあの頃のうっすいあだ名じゃなくて、ただの名前で呼んでみたくて、そう言い出すのは何か変な気もして。
「そういえば、終電平気?」
 だから。戻ったときに、そう尋ねてみた。私が感じている楽しさを、もう少しを重ねたい気持ちを、あるいはまた後日を社交辞令にしたくないこの感じを、彼女も抱いてくれてるなら。
「あ、……そろそろやばいかも。そっちは?」
「……私もそろそろ?」
 最初に残念に思う自分に呆れる。当然の返事だと思うし、やっぱり逃したとは言い出せない。誤魔化して笑うと、彼女はスマホを見たまま、うーんと唸った。
「てか、間に合うか微妙かも。前田さんもう来る?」
「……ん、まだ少しあるけど」
 どくり、と鼓動が跳ねる。もしかしたらと思ったら、彼女は私と目を合わせた。
「もう一杯飲んで、ぎりぎり間に合うかってくらいなんだけど」
「あ~……」
 逸らしてしまった。自分が何と言いたいのかわからなくてそう濁す。言っていい気がしたけど、私はこういうところで臆病だった。言えない間にグラスが取り替えられて、彼女の視線がそれに落ちる。
「……じゃ、これ飲んだら帰ろっか」
「…………うん」
 ずき、とはっきり胸が痛む。わかりきってた後悔が浮かぶけど、わかりきっていただけ、頷くしかできなかった。
「あのさ」
 馬鹿みたいな嘘をついたと思う。入ってた飲み屋前にそびえてたカプセルホテルを素通りして、駅までの大通りを彼女と歩いていた。引き返してあそこに泊まるか、駅でタクシーを捕まえるか。どちらにしても、一人になった途端に馬鹿らしく後悔するだろうと。
「前田さん、美術部入ってたでしょ?」
「うん」
 中学から興味で入ってみて、大学までは引き摺らず、でも趣味くらいには育った私の一部。今日初めて出る話題に頷くと、彼女は足を止めて、私を見た。
「ピアノ描いた絵、あったじゃん」
「ああ……」
 言われて少し、頬が熱くなる。色々描いたし、熱を込めたのも相対的にそうでもないのもあったり、して。でもその中でも少し、鮮明な一枚だった。
 というか。なんで、とやや鈍った頭が混乱する。
「あれ、私好きだった」
「…………」
 ありがとうとすぐに言えなくて、私は息を呑み込んだ。期待とも昂揚とも、あるいは酔いともつかない心地でくらくらしながら、うるさい心臓を感じてる。なんでそんなのを覚えてるのか。なんでこんなタイミングで、なんで見透かした風なのか。
「……私さ」
 だから、まぁいいか、と思った。まぁ、酔ってるし、多分今日限りだろうし、そんなに大した話じゃないし、同窓会で前よりすこしだけ親しげに話せるくらいだろうし。そんな思いで零そうとした言葉に、少しの勇気を混ぜようとして、うまくいかなかった。
「……真山さんのピアノ、好きだった」
 えり、は同窓会に取っておくしかないだろうと、思ってると。
「うん、知ってる」
「……」
「前田さん、ちゃんと聴いててくれたし」
「……ばれてた?」
「気付いた? って感じかな。表情がうっとりしてた」
 音楽の度、友達に促されて渋々ピアノに座っていた彼女が、それでも楽しそうに弾いていたのが好きだった。彼女の笑みというなら多分、一番はそのときの屈託無い表情が、私は好きだった。
「……今も弾いてる?」
「最近は全然。あくまで趣味だし、結構忙しくて」
「そっか」
「絵は?」
「……時々?」
 時々というか、それくらいが気晴らし。でも現実逃避が二次創作に昇華したような現状だったから、深い話は気恥ずかしい。それを誤魔化す逃げ足を一歩勇気の踏み込みに変えて、私は小さく言ってみた。
「……また聴きたいって言ったら?」
「また描いてくれるなら」
「……いいけど」
「……いいよ」
 ああ。何にせよ翌日後悔する気もする。いいって言ってくれたのにやたらと頬が赤い。何と返せばいいかわからなくなってそっか、なんて零したら、彼女は呆れたように笑った。それからスマホを取り出して、何でもないように言う。
「終電、逃しちゃった」
「え」
 いや。そういえばぎりぎりだったし、立ち止まってのんきに話してる場合じゃなかった、のだと思うけど。でも。いいのともどうするのとも言えずにいると、彼女は悪戯っぽい表情で私を見る。
「前田さんは?」
「……私もなくなったかも」
「ほんとは?」
「…………」
「どの辺住んでるかさっき訊いたでしょ。お節介で調べてたの」
「あ~……」
 マジか。ばればれだったんだ。うわ。今度こそ頬がどうしようもない。ていうか彼女も人が悪い。
「ええ……」
「ふふ」
 耳の熱さも含めてどうしようもなく、深く息を吐き出すと、彼女は楽しそうに笑った。それがピアノを弾いてる時に似ていて、そんなところが少しずるいと思った。
「私、前田さんがよければ、もう少し話したいんだけど」
「いいよ、……いいけど」
 いいけど。もうここまでばれているなら、今更遠慮するのも変だと思った。一緒に飲もうと誘ってくれたのも彼女だし、絵の話を今更したり、ピアノや終電なんかを見抜いて、私の勇気を後押ししたのも彼女なのだし。最後くらい、私から言ってみてもいいんじゃないかと、そう思ったのだ。
「あのさ、…………名前で呼び合ってた、ことにしない? どっちも覚えてないしさ」
 私はずっと、あのとき心の中で彼女を、名前で呼んでいたのだから。かなりの勇気を振り絞ってそう言うと、彼女は今度こそ屈託無く笑いながら、いいよと頷いてくれた。
おわ
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