欠点が長所
朝の光は上等の音楽みたいに優雅だった。まばゆく白い波は部屋中に漂って空気を揺るがす。漂って、流れて、揺れて、震わす。穏やかなのに五感を刺激するから、眠ってなんかいられなくなる。目を覚まして、手足を伸ばす。身体中に穏やかなエネルギーがある。リラックスしているけれど、なんとなく心の居住まいを正したくなる感じ。クロエは起き上がり、布団の上でもう一度身体を伸ばしてから、すがすがしい気持ちでベッドを下りた。
毎朝の身支度をする。歯を磨きながら鏡の前に立ち、自分の四方八方に飛び跳ねている紅色の髪を見つめた。別に気に入らないわけじゃない。これはこれで自分の持ち味だ、と今のクロエは思えている。それとは別にして、クロエの髪は支度に若干の手間がかかるものであるし、ただその手間をクロエが特別負担に感じているわけでもない。ファッションに関することは、クロエにとっては難解でありつつも素晴らしい迷宮であり、クロエにとってクロエ自身のことは、ようやく靄の晴れつつある秘境のようなものであった。その二つがかち合うと、なんだかまどろっこしいことになる。
鏡と相対する時間を終えて、クロエが真っ先に向かったのはラスティカの部屋だった。廊下に出ると、魔法舎の中にはすでに活発な空気の片鱗があって、朝の早い者たちが既に働き終え、規則正しい者たちが動き出している気配がする。食堂の準備はもう済んでいるだろう。クロエは部屋のドアをノックして、放っておくといつまでも布団の中でまどろんでしまうだろう者の名を呼びかけた。少しの間をおいて、昼間よりずっとゆったりとした声が返ってくる。クロエは部屋のドアを開けた。
「ラスティカ! 朝だよ」
部屋の主はようやくベッドの上で身を起こしたばかりだった。目は閉じたまま、今にも眠り込みそうである。ラスティカ、と再度呼びかけながら、クロエはベッドへと歩み寄った。いつも朝寝坊ぎみだけど、今日はいつにも増してそうだ。昨日のラスティカを思い出す。そういや誰かとバーに出かけていたようだった。クロエは酒の席を断って、いつも通り規則正しく寝付いたけれど、あの後ラスティカが夜遅くまで酒を飲んだのなら、今朝のこの様子にも納得できる。
「ラスティカ、起きて。もう朝だよ」
布団からラスティカを引っ張り出す。少し過保護が過ぎるかな、なんてことを考えるときもある。ラスティカはようやく目を開けて、クロエを視界に入れた。優しく笑ってクロエを見上げる。
「クロエ、おはよう」
「おはよう。さっさと着替えて、支度して、ご飯食べに行こう」
呪文を唱えて、ラスティカの服を手元へと持ってくる。脱がすものを脱がせて、着せるものを着せて、うつらうつらとしているラスティカを洗面台まで運び、ラスティカが寝ぼけ眼で蛇口を捻ったところまで確認してから、クロエは自身の道具を鏡台に並べることに専念する。ここからは楽しい時間だ。
最低限支度を済ませたラスティカが戻ってきたので、鏡台前の椅子に座らせる。ラスティカは眠気を覚ましたようで、表情や言葉選びはいつものラスティカらしいものへと戻っていたが、大胆な寝癖はそのままだった。今日の朝ごはんのメニュー、今日すること、昨日会った人、今日遭遇するかもしれない出来事、昨日から続く習慣、わくわくする楽しい話をするラスティカと、数種類の道具と香油を使い分けて念入りに今日のラスティカを作り上げていくクロエとが、鏡の中、一緒になって朝の光に照らされている。
ラスティカは即興の人だけれど、たまに楽譜に音符を書きつけることもあって、クロエが何度か見せてもらったそれにはいつも波のように音符が配置されていた。飛び跳ねるような急な上下はなく、ラスティカの刻んだ印はいつもなだらかに昇り降りしている。炎ともランタンとも違う、優雅でゆったりとした柔らかな光。ラスティカの輪郭を白く縁どる。クロエの手元で、ラスティカの頭がゆっくり動いた。数秒もしないうちにあくびの音が聞こえてくる。ラスティカは椅子の背もたれに背中を預けきって、クロエの方へと傾いた。合わせて寝癖もゆったり震えて、きらきらと光を放ってゆく。乱された白が散って輝く。
クロエの唇は自然と弧を描いた。ラスティカの髪をとかしながら、弾むような声を出す。仕方ないなあと言ってみせながら、いよいよ呆れる素振りをしながら、たまには注意なんてしてしまいながら、クロエはラスティカの身支度をする時間をとても愛しく思っていた。幸せな朝の日課だ。
美しく扱いやすい髪の毛は、毎度のこと、魔法なんて使わずとも素直にクロエの意思に従った。かんたんな身支度で充分の美しい人。それなのにこうしてクロエに世話をやかせてくれる。
清冽な朝の光。整えられていく美しい人。ささやかな活気の気配。これからネロの作った食事を食べて、そのままルチルやヒースあたりとお喋りができるかも。シャイロックの授業を受けて、きっとムルは今日も予想外の事態を起こす。クロエとラスティカの魔法舎での生活は、今のところ至極平和で楽しいものだった。そしてこういった穏やかな楽しさは、二人で旅をしていたときとなんら変わりがない。
清潔な部屋に差し込む朝の光は優雅な音楽のようである。しかしクロエにとっては、古ぼけたモーテルの粗末なろうそくや、埃っぽい路地で見る露店の灯、野宿の夜の焚火に、長い移動中箒に乗って迫った星も、朝の光と同じように心をときめかすものだった。それらすべてが美しく見える理由は、ラスティカと共に過ごしているからに他ならない。