命がけの鬼ごっこが、今日も始まる。目の前に広がるのは痩せた大地、半壊した病院と、野ざらしで放置されたベッドに壊れた長椅子。聖心病院と呼ばれた建物は、その機能を完全に喪失している。医師や患者はもとより、治療能力さえ残されていないその場所で、命のせめぎ合いが繰り広げられんとしていた。
(……カウボーイ……納棺師……祭司に……医師、か)
自らが追うべき相手を確認するや、謝必安は眉間にしわを寄せた。とうとう、とうとう出会いたくない人物が現れてしまった。あの日以来、正確にはその翌週末に再度診察を受けて以降、極力接点が出来ないように行動していたのだが……対戦相手を選ぶ自由が無い以上、こういう事態は避けようがない。
(……気にし過ぎだな。彼女はわざわざハンターの前に躍り出て活躍するような人間ではない、むしろ見付からぬよう見付からぬよう行動する筈。一人取り逃しても、私の勝利は変わらない)
会いたくないと思うあまり、戦う前から脱出を許すような事を考える必安に、黒の半身はこれといって反応を示さない。それはつまり、彼もまた……同じことを考えているのだという証左だろう。
(……む)
一歩前へ踏み出した瞬間、きいんと左耳が鳴った。サバイバーが近くにいる……狩るべき獲物が近くにいる。確率は……四分の三。
(……そこの暗号機か)
ふるふると震えて操作中であると示すアンテナに狙いを定め、傘を構える。半ば祈るような心持で、自らをその先へと飛ばす。
「きゃっ!」
突如跳ね上がる己の心音に驚いたか、解読を進めていたサバイバーが悲鳴を上げる。その目の前に現れた黒い長身の男は、相手を確認するや短いため息を吐いた。
(違う)
紫色のフードから伸びる、一対の角。一目散に逃げだす背中を追い、范無咎は意気揚々と歩きだした。
「!?」
角を曲がったところで、祭司の姿が消えた。彼女が立っているはずの場所には……青く輝く忌々しい文様。どうやら、ここで解読を始める前に長距離ワープを用意していたらしい。
「小賢しい……」
そちらがそう来るならこちらもと、ぐるりと辺りを見回して行き先を突き止める。が、程近くに揺れる暗号機を見つけ、ワープを破壊したその足で暗号機へと向かう。自分が狙われていると気付いたのだろう、キーを叩く音がふいに止まる。だが、逃げ延びんとするその背中は視界に捕らえられた。あれは……納棺師。棺を置かれると厄介だが、解読を優先していたらしい。ならば……恐れるべき相手ではない。
笑みを漏らしながら追い回し、傘を振りかぶる。短い悲鳴が上がり、手に確かな衝撃が伝わる……まずは、一撃。
「さあ、逃げろ逃げろ」
手負いとなっただけで諦めるサバイバーは居ない。何とかして逃げ延び、この鬼ごっこから生還せんと足掻き続ける。僅かな希望にすがり、遠くにちらつく光に向けて走っていくその先にあるのは、栄光か、破滅か……無論、無咎がもたらすは後者と決まっている。
色濃く残る足跡を追い、物陰に見え隠れする濃灰の背を注視し続ける。参戦中のサバイバーの中で、この状況下で割って入る可能性があるのは……やはりカウボーイだろう。相手が男というのは不服だろうが、今この段階で頭数を減らすのは上策ではあるまい。ならば、助けに来る可能性は充分にある。もしそこに、祭司の長距離ワープが組み合わされば最悪だ……飛び先で安全に回復され、解読器も回されてしまいかねない。……やはり、先に祭司を追うべきだったか。
「……!」
が、姿を見せたのは全く予想外の人物だった。白いナースキャップが目に飛び込んできた瞬間、無咎は思わず顔をしかめた。よりにもよって、よりにもよって何故、こんな所で、この状況で彼女が現れるのか。
「逃げて、カール君!」
己と納棺師との間に割って入った医師は、無咎の攻撃が納棺師に至らぬよう、先を行くサバイバーの後ろにぴったりとついて走る。ここでこの二人を諦めれば、納棺師はたちどころに治療されてしまうだろう。何とかして、納棺師だけを……否、医師とて一度殴りつけただけでは倒れ伏しはしない、一度くらいならば――
ガコン、という耳障りな音が、暗号機が一つ解読された事を告げる。恐らくはこの場に居ない二人……カウボーイと祭司が、協力して解読を済ませたのだろう。それはそれで厄介だ……あの男は、傍に女が居るとなれば途端にやる気を出す。このまま行動を共にされると地味に厄介だ。暗号機はまだ四台が解読を待っているが、悠長に構えている暇はない。
(……ただの一人のサバイバーだ)
自らに言い聞かせ、無咎は目の前のブルーを切りつける。体勢ががくりと崩れ、悲鳴が上がるや、二人のサバイバーは右、左と真逆の方向へ逃げ延びていく。納棺師の逃げる先には廃墟の病院、医師の逃げる先には……あばら家。
「……納棺師からだ」
今、医師を逃せば、彼女は確実に自らの傷を癒すだろう。だが、納棺師を逃せば……奴は医師を納棺するだろう。医師を追い回し、ダウンを取り、ロケットチェアにくくりつけた上で、離れた場所での復活を許す。その間に、暗号機は幾つ解読されるだろうか。やはりここは、まだ棺を召喚すらしていない彼から送り返すべきだろう。そうと決まれば……彼を、病院に辿り着かせてはならない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
目の前の二階建ての建物が、実に頼もしく見えているのだろう、納官師は迷うことなく建屋へ向かっていく。その背を追うのをやめ、無咎は傘を構え……狙いすましたその先へ、飛ぶ。
「はぁ、はっ、ひっ!」
あと十歩、いや五歩も走れたならば、建物に逃げこめただろう。だが彼を受け入れてくれるはずの入り口から、自らを追う白が悠然と歩み出てくるではないか。方向転換を余儀なくされた納棺師は、少しでも距離を取ろうと来た道を戻り始めるが、人の足で逃げ続けるのは無理な話だ。射程範囲内に捉えた背中に向け、黒傘が高らかに掲げられる。しかし空を切るそれは、文字通り空間を割いただけだった。
「!?」
あるべき手応えを得られず、目を剥く必安の視界端で、何かが動いた。弾かれたように振り向けば、何かを担いで走り去る後ろ姿……カウボーイだ。ご自慢の投げ縄で納棺師を救い出し、逃げおおせてしまおうというのだろうが、そうはさせない。幸い、必安は無咎に比べて足が速い。それにカウボーイが向かう先にはアンテナを揺らす暗号機もある、暗号解読を邪魔しながらサバイバーを複数人追い回せるのは実に都合がいい。その間、暗号解読が出来るサバイバーはたった一人という事になるのだから。
さあ、そこで解読しているのが誰かは分からないが……存分に引っ掻き回させてもらおうではないか。カウボーイが納官師を下ろし、二人仲良く走り始めるのを追いながら、この先の展開に思いを馳せる。
「こっちだ!」
右へと進路を変えようとした納棺師に、カウボーイが叫ぶ。大人しく従うその背を庇いながら、カウボーイはハンターに視線を投げつつも走り続ける。何故、進路を指示したのか一瞬解らなかったが……思い至った瞬間、必安は奥歯を噛み締めた。そうだ、今日の対戦相手には祭司が含まれている、そして彼女が今どこで何をしているかは分からない……そこで解読していたのが祭司なら? 祭司でなかったとしても、特にハンターとの距離を稼げそうな遮蔽物もない方向へ誘導したという事はつまり――
(やはり!)
大きな岩の裏へ回り込んだ二人の男は、白い残像を残すばかりとなっていた。その残像の前には、青く誇らしげに輝くワープゲート。すぐ近くで解読していた祭司が、ここから離れた場所に居る医師に向けて長距離ワープを作り、二人が逃げてくるのを待っていたのだろう。そしてそれに気づいたカウボーイが、ワープゲートの方へ逃げろと声を張り上げた……つまりそういう事だろう。
「ちぃっ」
ここにはもう二人は居ない。だが、まだその姿は目の前にある。すぐに治療されてしまうだろうと知りながらも、必安は残像とワープゲートが消えるまで傘を振り続けた。
(治療するがいい、回復に専念するがいい)
ただ一人佇むばかりとなったハンターは、くるりと踵を返すと傘を構える。ワープ先は確認済み、徒歩で向かうには苦しい距離だが……傘を投げ、一気に距離を詰めてしまえば、全員が全回復する前に散らす事も出来る筈だ。何より、サバイバーが四人固まっている可能性があるのは実に有難い。どんなに健康であろうとも、暗号機の解読が進まなければ……彼らは籠の中の鳥であり続ける事しか出来ないのだから。
目指す先を見据えながら、前へ前へと歩みを進める。まだその場所は目視出来ないが、きっとそこでは二人の女性が二人の男性を甲斐甲斐しく治療している事だろう。万が一を考えて辺りを見回したが、揺れ震える暗号機は見当たらない……間違いない。
(棺桶を召喚していない納棺師と、カウボーイが倒れ伏しているならば……医師も祭司も恐れる必要はない……)
足を止め、傘を構える。早く変われと言わんばかりに震えるそれに笑みを深くし、数秒後には聞こえるであろう悲鳴を思いながら目を伏せた。
「……!?」
寸分違わず目的地へと辿り着いた無咎は、傘を手にするや目を剥いた。居ない……足跡すらも残されていない。かろうじて耳鳴りはするが、どの方向へ逃げたか……情報が無い。そうこうする内に、耳鳴りさえも消えてしまった……何がどうなれば、こんな事態が起きうるだろうか。
(考えている場合ではない)
信じがたい事が起きているようにしか思えないが、だからといって耳鳴りもしない場所で棒立ちをしている場合ではない。まだ向こうも完全に態勢を立て直せてはいない筈、このまま突き崩さなければ……。
(……!)
少し離れた場所にある暗号機が、ふるふると揺れている。可能であれば、カウボーイから片づけたいところだが……今は選り好みしている場合ではない。居場所を自ら表明してくれるサバイバー殿の元へ出向き、椅子へ括り付けてやらねばならない。
「……だろうな」
歩み寄り距離を詰めれば、相手もまた自分が狙われると解っていたのだろう、早々に暗号機の揺れが止まる。ここは壁だの板だの窓だのと、サバイバーが逃げ遂せるのに都合のいい品が集まっている場所だ……こんな追いにくい場所で、逃げに長けた相手と鬼ごっこをするのは得策ではないが、もしも彼女であったならば――
(……ええいっ)
乱暴に舌を打ち、無咎はその場所へ歩み寄りながら次を考える……必安の用意が整い次第、別の場所へ向かうべきか。この追いにくい場所で一人沈めるまでに、幾つの暗号機が解かれてしまうか……それを思えば、今この場所とこの場にいるサバイバーに固執するべきではないのは間違いない。だが、自分達にとって有利な場所にいると思い込んだサバイバーを追い落とすことが出来たならば……。
「!」
不快な音に意識を向ければ、忌々しい棺桶が呼び出されたのだとすぐに理解出来た。恐らくはこの場所にいるサバイバーを納棺し、たとえこちらが相手を捉えようとも簡単には捕まえさせはしない……そういう魂胆だろう。ならば。
(飛ぶぞ、必安!)
まだ耳鳴りは止まない、この場所には最低一人のサバイバーが存在している。そして、諸行無常で何とか辿り着けるであろうギリギリの距離にある暗号機が揺れている……今が好機だ。
きっと納棺師は、この場にいるサバイバーをせっせと納棺しているに違いない。そして一度納棺してしまえば、別のサバイバーを納棺しなおすことは出来ない。今こそ好機とばかりに、無咎は暗号機へと傘を投げた。
さあ次のお相手は誰だろうかと目を見開く必安の前に現れたのは、よりにもよってカウボーイだった。誰かに治療して貰ったのか、軽々と窓枠を越えて逃げていく。回り込むには距離があり過ぎると、自らも窓枠を乗り越える選択をした必安の腕に、痛みが走った。
「しまっ……!」
慌てて痛みの元に目をやれば、茶色い紐が巻き付いている。そして自分のすぐ脇を、黒い影がすり抜けていった。そして走り去る足音は背後に消えていく。
「これだから……!」
彼が窓枠を越えて逃げるのを見せつけたのは、罠だったのだ。こちらが窓を越えるだろうと読み、お得意の縄でハンターを捉え、その向こうへと逃げる。その罠にまんまと嵌ってしまった……このまま彼を追うのであれば、また窓を越えなければならない。今から別のターゲットの元へ向かうのも下策となりかねない……いよいよ余裕が無くなってきた。
相手が縄を手にしていないことを確認してから、再度窓を越える。いくら距離をとられようとも、純粋な足の速さで言えばこちらが有利……既に納棺師を助け、こちらを飛び越えた彼ご自慢の道具は有限、補充も出来ないものだ。こちらも時間の余裕は無いが、向こうも時間をかければかける程追いつめられるのは間違いない。
(残る暗号機は……3、この一人に時間をかけてはいられない……)
無咎よりも早い足とリーチの長さで、この状況をひっくり返して見せる。その強い意志が功を奏したのか、早々にチャンスがやってきた。前を走るカウボーイは、軽い身のこなしで窓を板を越え、少しでも距離を離そうと逃げ回る。が、あまり遠くへ移動しようとはしない……解読に専念する面々の邪魔をしない為だろう。だがそれは……。
「はぁっ!」
「しまっ!」
窓枠を乗り越えんとするその背中に、黒い傘が突き刺さる。これが無咎だったならば届かなかっただろうし、届かないだろうというカウボーイの読みも正しかったに違いない。だが、今彼が対峙しているのは謝必安なのだ。
「ちっくしょぅ……!」
恨めし気な声を漏らしながら崩れ落ちる体を風船で吊り上げ、椅子へ向かう。やっとの事で捕まえた男を椅子へ括り付け、さあこの男を助けに来る気概のあるサバイバーは誰かと耳を澄ませた瞬間、その顔から余裕が消えた。
「……」
苛立ちの一言も出てこない。まさかまさか、この短時間の間に納棺されていたとは。てっきり、あの場所にいたサバイバーを納棺しているだろうと思っていたところにこれだ……非常によろしくない。
黒い泥のようなものに飲まれていく椅子から目を離し、一体何処へ向かうのかと辺りを見回せば……よりにもよって、病院の二階にその姿があった。あの場所へ直接飛んでいく術は無く、歩いていくにも時間がかかる。そうこうする内に解読が終わる暗号機も出るだろう……この展開は非常に、非常によろしくない。
ならば、もう彼に執着するのは愚の骨頂。今なお揺れ続ける暗号機へ向かい、解読を妨害しつつ椅子へ括り付けられれば……。
(勝ち筋は薄くとも、引き分けならばまだ……)
今はまだ開く術のないゲート近くにある暗号機が、かなり強く揺れている。このまま解読を許せば残る暗号機は2台、それもそれなりに解読が進んでいる状況……迷う必要も無い。
幸い、距離は近い。傘を投げ、無咎に任せてもいいが……今はまだ温存すべきと考え、歩きでそちらへ向かう。こちらもやはり早々に揺れが止まり、走り始める姿が見えた……あれは、納棺師。しかも……手負いだ。
(全員の回復よりも解読を優先したか……だが、自らを納棺していない納棺師、それも手負い……今度こそ)
先ほどはカウボーイにしてやられたが、そう何度も活躍させてやる訳にはいかない。逃げ延びんとする先を確認しつつ、辺りに気を巡らせるが……近くにあの厄介者の姿は見当たらない。ならば、駆け付けられる前にこの男を倒さなければ……。
その身を大きく揺らしながら走る納棺師は、可能な限り時間を稼ごうとしているのだろう、板を倒してみたり、窓枠を越えてみたり、視線を切れるように急旋回してみたりと小賢しく走り続ける。しかしどう足掻いても、距離は詰まり……逃げ延びれば逃げ延びる程、別の場所で解読する仲間に近付いていくことになる。追い回すだけで解読妨害まで出来るなら、願ったり叶ったりだ。
(さあ、これで……貴方はおしまい)
解読を進める仲間の邪魔をしたくない……そう考えたのだろう、納棺師が進路をあらぬ方向へと変える。しかしそちらには、彼の身を守ってくれるようなものは何もない……相変わらずカウボーイの姿は見えず、前方の暗号機はまだ揺れている。この黒傘の邪魔をする者は……ここには居ない。
「うわあっ!」
振り下ろした切っ先は、確実に灰色の背中を捉えた。悲鳴と共に倒れ、それでもなお逃げ延びんとする体を拾い上げる直前、もう一度辺りを見回す……縄を振り回す不届き者は、まだ来着しないらしい。
(まだだ、まだ安心出来ない)
すぐ右手側で犠牲者を待つ椅子に納棺師を座らせ、視覚と聴覚を研ぎ澄ます……最初に聞こえてきたのは、暗号機の解読完了を告げる機械音だった。ゲート開放に必要な暗号機は、これで残り二台となった。
(この場を離れるべきではない、ないが……あの暗号機を解かれてはまずい)
納棺師をくくりつけた椅子からほど近い場所にある暗号機は、まだ揺れ続けている。ここでこうしている間にも解読は進み、やがて完了してしまうだろう。まだ耳鳴りは聞こえない、であれば解読妨害に向かい、すぐに戻れば……。
(頼みます、無咎!)
傘を構え、暗号機へと投げる。心地良い呻きは背後に消え、大地より這い出た無咎が目にしたのは、暗号機の向こうへと走り去る医師の姿だった。
(……こんな近場で解読をした己を恨め)
彼女は虚弱とまではいかないものの、板や窓を越えるのを不得手としている。必安に比べればリーチの短い無咎だが、相手の足を短時間とはいえ止める術を持っている。ただでさえ足の速さでは勝てないサバイバーを、更に足止め出来るのだ……相手からすれば恐怖でしかないに違いない。
「きゃあっ!」
無咎の一撃が、早々に彼女を傷つける。瞬間、その身は全力の疾走を見せ、距離を取られるが……ラグビーボール片手に駆けずり回る彼に比べれば可愛いものだ。
(納棺師は……まだだな)
椅子に座らせたサバイバーは、すぐに送り返される訳ではない。決して長くはない制限時間の間に救いの手が届かなければ、脱落となるが……その時間の半分を過ぎても、まだ救出されていない……見捨て、だろうか。
(既に棺桶を使い果たした納棺師を救うより、解読を優先する事にしたか……? それもまた戦略……)
素早く視線を巡らせ、解読中の暗号機の数を確認する……その数、2。サバイバーの数は4人、椅子に座らされているのが一人、ハンターに追われているのが一人。それが意味するところとは……。
(お前もさっさと倒れろ)
つい今しがたの納棺師と同じく、少しでも時間を稼ぎたい……そんな意図が透けて見える動きを続ける医師に向け、無咎は鐘を鳴らす。その音に魂を揺さぶられた彼女はうずくまり、しかしすぐに立ち上がって走り出すが……その身は雷にでも打たれたかのようにびりびりと震える。その胸中には、いかほどの恐怖が、絶望が渦巻いているのだろうか。もうすぐだ、あと少しで、それを暴いて……晒して……。
「馬鹿め!」
板を越え、視線を切って逃げ延びようとするその動きの先を読み、回り込めば真正面から走って来るその姿が視界の中央に現れた。この好機を逃さず、傘を振り下ろす。確かな手ごたえに笑みを漏らし、無咎は揚々と傘を天へ放り投げた。
……が。
「なぁッ!?」
彼女が倒れ伏すのを待っていたかのように、暗号機が同時に二台解読された。耳をつんざくサイレンが通電を伝え、倒れていた医師は死力を振り絞って立ち上がると走り去っていく。まさかと振り向けば、納棺師も救助されているではないか。
「おのれ……おのれェっ!」
紅く光る瞳に怒りを溢れさせ、無咎はゲートを睨むやその身を飛ばす。すぐ近くにある暗号機が解読されたのは確認済み、ならばその近くに必ずサバイバーが居る筈だ……今日の対戦相手に、機械技師は含まれていない。それに医師もそちらへ走って行った、つまり彼女の命を繋ぐものがそちらにあるという証左だ。ならば、医師を再び大地に叩きつけ、更に暗号機を解読したサバイバーも倒す事が出来れば……まだ、引き分けに持ち込めるはずだ。
「ひっ!」
閉ざされたままのゲート前まで走ってきた医師は、目の前に現れた黒い長身に驚き悲鳴を上げる。そして急旋回して距離を取ろうとするが、鐘の音がそれを許さない。振り下ろされる切っ先は確実にその身を捉え、華奢な体躯は哀れなほどに吹き飛んだ。
「次!」
彼女を倒しただけではまだ足りない。この近くに居る筈のサバイバーを探し、辺りを見回すが……耳鳴りがしない。まさかと更に目を凝らせば、忌々しい文様が目に入ったではないか。つまり、この近くの暗号機を解読したのは祭司……もう一つのゲート傍で待機していたであろうカウボーイか納棺師にワープを繋いでもらい、早々にこの場を離れていたようだ。
さあ、どうする。瞬間移動は使ってしまった、必安の足の速さとリーチに望みを託し、三人のサバイバーが居るであろうもう一つのゲートへ向かうか。誰か一人でも、この哀れな医師を助けに来るだろうか。ワープゲートはまだ壊さずそのままにしてある、完全勝利を目指し血気盛んに向かってくるサバイバーが一人でも居てくれれば……まだ引き留める力はこの身に宿ったまま、たった一太刀浴びせる事が出来れば、状況が一気に変わるが……そんな事はあちらも理解しているだろう。さあ、さあどうするか。じっくりと考えている時間は無い。
「……」
医師に風船を括り付け、目の前にあるロケットチェアにその身を縛り付ける。さあまだ諦めはしないと身を起こし、傘を構えたところで……耳鳴りに気付いた。
「ちぃっ!」
ワープゲートへと振り向けば、こちらへと走って来る……あれは、カウボーイ。成程、女性を見捨てる事など出来ないとでも言うのだろう。その愚かしさが、無咎にはあまりにも都合がいい。
「逃げて、私を助けなくていいわ!」
チェアの上で藻掻く医師が叫ぶ。それが本心でない事など、その姿を見れば明らかだ……ひっきりなしに足をばたつかせ、人の力ではどうにもならないのに逃れようと身をよじり続けている。そんな彼女を救わんとやってきた彼は王子様となれるのか、それとも……ただの愚者で終わるのか。
(愚者にしてやる)
助けようと等せず、三人で逃げていれば勝てたのに。その後悔こそ、無咎の求めるものだ。何とかして攻撃を空振りさせようと、右へ左へちょこまかと動き回るカウボーイハットを追いはせず、先に長距離ワープを壊す。これでもう、新たな救いの手は現れないし逃げ遂せる事も出来まい。さあそろそろこの耳鳴りの元を絶つ時だと向き直れば、相手は医師を助けもせずに背を向け走り始めていた。流石に逃げの術がなくては助けられないと思ったか、それとも無理に助けずとも勝てる試合を引き分けに変えてしまう可能性のある選択をいまさら悔いたのか。いずれにせよ、独力では逃げられない医師にこのまま執着する必要はない、この男さえ黙らせられれば負けは消えるのだ。腰に下げた鐘に手をかけ、逃げる背に向けてそれを掲げ――
「んなぁッ!?」
鐘が鳴るその直前、男が振り向いたかと思えばその姿は目の前から消えていた。憎しみすら全身から噴出させながら振り向けば、カウボーイは医師を颯爽と助け出し、走り去っていくではないか。
「おのれぇッ!」
絶対に逃がしはしない、もう既にもう一つのゲートは開いているだろうがそこへ辿り着かせはしない。運のいい事にこの場に居るサバイバーは二人、まだ見ていない地下ハッチが開くことはあり得ない。どうあろうとも一人は必ず捕らえ、、出来れば二人、あちらの動き次第では三人、四人もあると決して希望を捨てず、無咎は男女の後を追う。二人分の足跡は混ざり合い、どちらがどちらのそれなのか判別出来ない。だがまだ……まだ、この身には引き留める力が残っている、これが失われる前に一人を叩き伏せられればそれでいい。そしてそれがカウボーイであったなら、より良い。
板が倒される音が右手側から聞こえ、そこに居るのは誰かと想像する。その姿は壁に遮られて見えないが、苦し気な呼吸やうめき声は聞こえない……つまりそこに居るのは、医師ではなくカウボーイ。恐らくは医師を逃がすためにこちらの気を引こうとしているのだろう。ならば……その誘いに乗ろうではないか。先ほど彼は医師を手で助けていた、ご自慢の縄はもう使い物にならないらしい。であれば……今の彼を恐れる必要はない。
「はっ、かかったな!」
壁の向こうから現れた黒い長身を目にするや、彼はそんな事を口にして板を乗り越え駆けていく。きっと自分の目論見通りになったと喜んでいるのだろう、だが……そうは、させない。
「必安、アレなら遠慮せんだろう!」
男が向かう先へと傘を向け、飛ぶ。白い液体に包まれた体は同じ色に染まり、左手を構え辺りの魂を吸い取る。さあ、魂は……吸えている!
「ちぃ!」
窓枠を乗り越えようとしていた男が舌を打ち、進路を変える。祈る気持ちでその背に向け傘を振るったが、残念ながら捉える事は出来なかった。が、必安の足ならば……すぐに追いつける。何しろ相手は、板を倒す事も板を乗り越える事も、窓枠を乗り越える事も出来ない、ただ走るだけの哀れな逃亡者なのだから。
(さあ、一人目……!)
「危ない!」
傘を振りかぶるのと、その声が聞こえたのは同時だったか、それとも声が少し早かっただろうか。そのまま振り下ろされた獲物が捉えたのは、青と白を纏った体だった。
「あぁっ!」
吹き飛ぶそれを目にした瞬間、狩人の視界がぶるりと震えた。何故だ、何故彼女がここに? 自分が追っていたのは、自分達が追っていたのはあの男だったではないか。動揺に乱されたかのように、引き留める力が霧散して消えていく。
「逃げて、逃げてェ!」
地べたに這いつくばったまま、医師が叫ぶ。その声を背に受けながら、王子になれなかった男は走り去っていった。
「……」
もう、言葉もない。結局、一番出会いたくなかった人間とこうして二人きり、きっともう彼女を救おうという者は現れないだろう。既に耳鳴りも消え、引き分けの条件を満たす術が無くなったと認めざるを得なくなった。しかも、しかもこんな形で、だ。だが投降する気にはなれず、この複雑極まりない胸中に新たな波紋を一つ投げ込んだところで、もう取り立てて気にする事もないだろうと諦観じみたものさえ浮かべながら、うずくまったまま動かない女の体に風船を括り付けた。
椅子へ向けて歩き出しても、もう抵抗すらしない。彼女一人が脱落したところで逃亡者の勝利は変わらない、ならば大人しく飛ばされた方が低コストだ……とでも、言いたいのか。
努めて普段通りに椅子に座らせ、その身を拘束する。耳鳴りは復活せず、傷一つ負っていないサバイバー達が戻って来る気配もない。彼らが脱出するまで、言葉なく項垂れるだけの医師を眺めるのか……と、椅子へ目を向けて……凍り付いた。
黒。黒だ。地面から這い上がる黒が、椅子を、白いナース服を、青いケープを、普段から不安げな色を浮かべている顔を飲み込んでいく。そんな馬鹿なと辺りを見回せば、開いているであろうゲートのすぐ傍に棺桶のシルエットが見えた。いつの間に納棺したのか、第一彼は既にその力を使ってカウボーイを……
(一度、椅子から救われていた……!)
納棺師は、基本的にはたった一人だけを納棺できる。が、己がロケットチェアに拘束され、仲間によって救助された場合、もう一人納棺出来るようになる。それを……自分も無咎も、失念していた。今からゲートに飛んだところで、棺桶から這い出したサバイバーは短時間の間、例え致命傷を負ったとしても走り続けられる。その間に逃げられてしまうのは必至だ。
「……完敗、ですか」
祭司が、カウボーイが、脱出する。医師と納棺師がほぼ同時に脱出し、今日の鬼ごっこは幕を閉じた。
▲
「有難う、カールさん。あそこから脱出できるだなんて思わなかったわ」
自らへの治療を終えたエミリーの言葉に、イソップは軽く顔を背けてから小さく会釈して見せる。その胸中にあるのは恥じらいや持ち前の社交恐怖ではなく……とある疑問と確信だった。
「先生も、そうなんですね」
「え?」
治療に使った道具を片付ける手を止め、エミリーは顔を上げる。円テーブルの反対側に座るイソップは、化粧道具を収めた黒箱をそっと撫でながら口を開く。
「僕らは、何処から何処へ逃げ出したんでしょうね」
何度でも始まる鬼ごっこ。逃げ切れた時もあったし、ロケットチェアに括られて飛ばされた事も、失血死した事もある。それはイソップもエミリーも、この場には居ない他のサバイバー達も同じだ。一度として逃げきれなかった者も居なければ、ロケットチェアで飛んだ経験のないもの、失血死した事のない者も居ない。それは、彼らの会話を聞いていればよく分かる……だが彼らは分からないのだろう。イソップが抱くある事には、気付いていないのだろう。きっと……目の前に居る女性も。
「何処って……無常さんから逃げたのよね?」
狐につままれたような顔で、医師は小首を傾げる。それを一瞥した納棺師は、小さく肩を落とした。
「何度も何度も逃げて、逃げて、逃げて……逃げきれても逃げられなくても、また逃げなければならない。こんな事に、一体何の意味があるのでしょうね?」
イソップの問いに、エミリーは答えない。何を言っているのか分からないという顔で、薄く開いた口を閉じる事も出来ずに瞬きを繰り返していた。
「……質問を変えましょうか。失血死した人間が何故、生きているんでしょうね?」
メイクボックスの上へ視線を置いたまま問い、二呼吸ほど置いてから顔を上げると、相手はゆっくりと視線を彷徨わせていた。この問いは、医師という職にある彼女には特に響くに違いない……そう思って口にしたのだが、やはり効果的だったようだ。
「そもそも、僕のこの力は何がどうなっているんでしょうね。僕の仕事はこの世を去らんとする方を送る事なのに、何故か真逆になっている。死にゆく人を、生き返らせているかのような事が、平気で起きているんですよ。この異様さ、異質さ……医師として命に向き合ってこられたダイアー先生ならば、ご理解いただけるかと思ったのですが」
エミリーは答えない。イソップが語る内容を、必死に理解しようとしている……そんな様子が伺える彼女の視線は彷徨い続け、ひとところに落ち着くことが出来ないで居た。
「先生もおかしいと思いませんか? あんな巨大な刃や斧で切り付けられたり、鈍器を叩きつけられたりして出来た傷が、何故あっという間に、それも完璧に治療出来るのか……どう考えてもおかしいでしょう? でも、誰も疑問に感じていない、異様に思っていない……僕にはそれが気持ち悪くて仕方がない」
「ま、って、お願い……」
妙に苦しげな声が、言葉を遮った。ぎょっとして顔を上げたイソップが目にしたのは、両手で頭を抱えて俯くエミリーの姿だった。まさかこんな反応を示されるとは思ってもみなかったイソップはばちばちと瞬きを繰り返し、思わず彼女へと駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
傍目には分からないが、治療が足りていないのか……彼女に限ってそんな事は無いと思いたいが、顔を上げる事すら出来ず、よく見れば肩を上下させて息をしている……これは只事ではないと、医療の知識が無くても伝わるその様子を前に、イソップに出来る事はただ気遣う事、それだけだった。
「……ごめん、なさい……何故だか……急に、頭が……」
何とか平静を装おうという意思は持っているらしく、顔を上げようとしてはそのまま脱力するその額には脂汗が浮かび、顔色も悪い。明らかな不調、それも異様な崩れ方に、ただの負傷からくるものではない何かを感じ取り、イソップはエミリーの肩に手を添え体を支える。その手に、すぐに確かな重みがかかった。
「先生、横になりましょう、ほら、先生のお部屋までお連れしますから……」
既に自分の体さえも支えられなくなったエミリーを支え、彼女の自室へと移動する。その間、彼女は何度も足を止め、その度にイソップの胸に顔を押し付け、はあはあと荒い呼吸を繰り返した。
普段なら二分とかからない距離を数倍の時間をかけて歩き、何とかエミリーの私室へと辿り着くと、いつ倒れてもおかしくないほどに体調を崩した彼女をベッドへとエスコートする。ほぼほぼ倒れ込むような恰好でベッドへ潜り込むエミリーは、青い顔で荒い呼吸を繰り返すばかりとなっていた。
「……あの、何か出来る事は……ありそうでしょうか」
あのまま椅子に座っているよりはいいだろうと、ベッドまで連れてはきたものの……このままこの場を離れていいのか判断が出来ず、イソップは控えめな声量で問いかける。もしも回答が無ければ、様子を見ていようと考えていたが、問いを投げかけられた医師は眉間にしわを寄せながらも、わななく口を動かし始める。
「だ……大丈夫、よ……頭が、痛くて……でも……さっきより、は、少し……痛みも……引いて、きた、から……このまま……休めば……きっと……」
呼吸の合間合間に紡がれる言葉を耳にしても、安心など出来そうにない。が、他でもない医師である彼女が言うのなら、それを信じるしかない。心配も不安も拭いきれないが、これ以上……出来る事も無さそうだ。
「……また、後で様子を見に来ますね」
心配だ、心配だと思っていても仕方がない。移動時に比べれば、幾分落ち着いたようにも思える呼吸に表情を曇らせたまま、イソップはそう告げて部屋を出た。
(……って、だ、ダイアー先生のお部屋に……入ってしまった……! そ、それだけじゃない、先生に触れて、ここまでお連れして……せ、んせいの、顔が、僕の胸に……何度も……)
扉を閉じ、ほうと息を吐いた所で……彼女の身を案ずるあまり、頭からすっぽ抜けていたことが一気に脳内を駆け巡り、イソップは天を仰いでその場にへたり込んだ。手に感じた彼女の重み、熱、苦し気でありながら、何処か色を感じるあの表情……思い起こせば思い起こすほど心拍数は上がり、こちらまで呼吸が乱れてきた。頭痛は、無いが。
「か、鞄、鞄を……」
このままここに居ては、『年上の女性の部屋の前で息を荒げる男性』という非常によろしくない光景を晒し続けてしまう。誰かに目撃される前に、この場を離れなければ……そう思って右手を動かした瞬間、そこにあるべきものが無い事に思い至り、イソップはわたわたと立ち上がると来た道を戻った。
「やあ」
メイクボックスを置き去りにした窓際には、見慣れた人物の姿があった。右肩に一羽のフクロウを伴った、濃い青のフードの男……占い師、イライ・クラークだ。
「……どうも」
目的の箱は、イライのすぐ傍にある。それさえ回収できれば、もうこの場所には何の用もなくなる。さっさと回収して自室に戻ろうと、持ち手に手を伸ばしたところで、……それを、遮られた。
「え?」
思わず手を引っ込め、イソップは相手を凝視する。何故、自分の手は遮られたのだろう。彼と自分とは決して親しくは無いが、逆に全くの他人という訳でもない。共に死線を潜り抜けた経験もあるが、その中で……何か彼の気分を害するような事をしてしまったのだろうか。彼と最後に『鬼ごっこ』をしたのは……何日前だろうか。
「あまり、考えない方がいい」
諭すように、言い聞かせるように占い師が言葉を紡ぐ。唐突な忠告に、イソップはより深い皴を眉間に刻む。
「……どういう、意味です?」
何を考えるなと言うのか、この占い師は。彼は何を見て、知っていて、こんな事を自分に言うのだろうか。分からない事ばかりの状況にうっすらとした苛立ちさえ感じながら、イソップはもう一度手を伸ばす。
「彼女を苦しめるのが目的ではないだろう?」
手が、止まる。手だけではない、腕も、体も……もう少しで、心臓までも止まる所だ。
彼女。彼女とは……彼女、なのか。
「何を知っているんです、彼女は何故あんな――」
「生きている以上、人は知る事から逃れられはしないけれど……好奇心は猫を殺すとも言うよね」
そう口にすると、イライはぴんと伸ばした人差し指を自らの唇に近付け、イソップの口を封じた。しんと静まり返る室内に、イソップの乱れた呼吸のみが落ちる。
「……今ならまだ間に合う。これ以上は……やめるんだ」
懇願の色さえも見せる声でそう囁き、イライは席を立った。毛足の長い絨毯を踏み締めていく後ろ姿を眺めながら、イソップはただ立ち尽くすのだった。