夢を見た。なんてことのないただの夢だったと思う。
 僕は狭い箱の中に入っているようだった。息が詰まるような狭い箱は、それなりに高さがあるくせに幅は膝を腹にぴったりとくっつけてやっと身体が収まる程度の狭さだった。横幅は縦幅よりはまだあっただろうか。それでも足を延ばすほどの十分な広さはない。
 僕のすぐ左側には、何か金具があるようだった。一本の線が細く細く、暗い箱の中で光っている。天井から僕の足元まで、まっすぐと伸びるそれは隙間のようだった。夢の中の僕は、その隙間に指を何度か掛けていた。ただ、外側から閉ざされているらしく、隙間から箱をこじ開けることは出来ないようだった。
 夢の中の僕は、ただ膝を抱え胎児のように丸まっている。外からの音は何も聞こえてはこなかった。一本の白い光も、ずっと昼間であるかのように光を失わずにただ同じようにわずかにこの箱の中を照らしているようだった。それ以上のことはない。僕は、ただその箱の中で、息を殺すように目を閉じ、時折は耳を塞ぎ、声も上げずにじっとしていた。
 まるで、誰かから逃げているようにも見えなくはない。そんな夢を見た。
 あの後、いったい自分がどうやって部屋に戻ったかが思い出せない。
 気が付いたら部屋で眠っていて、気が付いたら朝になっていた。秀悟君とはどんな会話をしていたかまるで覚えていないし、なんならさっき食べた朝ごはんの記憶さえ朧気だ。
 それでも僕は気が付いたらこうしていつも通り教室に入っていて、教材を自分の机に並べることは出来ている。動ける元気はあるらしい。でも、正直に言ってどうして自分が動けているのかがよく分からなかった。
  
 「…坂根さん、大丈夫ですか?」
 「何が?」
 「…いえ、何も」
 後ろにいたせっちゃんに声をかけられる。大丈夫って、何がだろう。僕よりもっと大丈夫じゃないのは今遊楽先輩にいじめられているせっちゃんだろうに。何か自分の胸がじくじくと痛むのを感じながら、「僕は大丈夫だよ。ありがとう」となんてことないようにふるまってみせる。そのまま後ろにいるせっちゃんに話しかけることで、僕は教室の真ん中の席がからっぽなのを見ないふりをした。
 何もかもがなんでだろう、ずっとふわふわとしている。
 ただ時間だけはなんでもないようにしていればいつも通りに過ぎていくような気がした。「委員長は休みか」「瑞崎さんは休みなのね」そんな先生たちの声を聞くたびに、空っぽの席を見てしまうたびに、なんでかすごく息が苦しくなったけど。
 (…"なんで"?)
 ひょうたんを磨く子供の話に段落を区切る線がいやに太く曲がる。ぱきり、と小さく折れたシャーペンの芯の音が、僕にだけいやに鮮明に聞こえた気がした。息が、ずっとし辛くてしょうがない。まただ。こんなこと今までなかったはずなのに。開いた教科書の上に僕はは、は、と短い息を漏らしながら胸を抑える。坂根?と教壇から担任の先生の声が聞こえた。やばい。取り繕わなきゃ。大丈夫だって、僕は大丈夫だってことにしないと。そうじゃなきゃ、きっと僕は壊れてしまう。
 「大丈夫か?倉坂、すまんが保健室に」
 「あー、一人じゃアレだし、オレも連れてくっすよ」
 
 保健委員の女の子の、大丈夫?という声が聞こえる。クラスではあまり喋ってこなかった人の声だ。だいじょうぶ、となんとか声に出したつもりだ。ちゃんと、言葉になったかは分からないけど。僕は下を向きながら大地と保健委員の倉坂さんに支えられて追い出されるように教室を出ていく。背中を摩られながら歩いている間に、大地が倉坂さんに何かを言ったらしい。保健室についてすぐに、「お大事にね」と倉坂さんは僕に手を振って出て行った。どんな話をしているのか、いつもだったらちゃんと聞けるのに今日はどうしてか聞きたくなかった。
 「なんだ、先公居ねぇのかよ」
 どうしてか残った大地が僕の後ろでぼそりと呟く。引き戸を開けた先の保健室は誰も使っていないせいか薄暗い。手頃だった丸椅子に座ってテーブルに置かれている走り書きに目をやると、『検温後ベッド使用可。十時に戻る』というここへ来た患者への言伝が綴られているようだった。寒い。冷房なんてついていないはずだった。心臓あたりを抑えながら僕は横のテーブルを肘置き代わりに体重をかける。帰っていいよ。大丈夫だから。大地には、視線だけでもそう伝えたつもりだ。なのに、後ろにいる男は何故か引こうとしなかった。
 「…熱、測るから、もういい、よ」
 「なんだ、今更女気取りかよ。興味ねぇよ、別に」
 「……」
 「って言ったらお前本当に気にせずに測り始めるからヤベェ奴だよな」
 
 制服の襟を乱しはじめたところで大地が僕の手を止めた。半ば苦笑いなあたり僕が本当にそうするとは思っていなかったんだろう。「だって」と抗議すると、「それでも普通は出ていくまでそうはしないだろ」と半ば怒り気味に大地は僕の横にあるベッドに腰を掛けた。帰る気は、ないらしい。静かな部屋なだけになんでだろう、二人きりになる回数なんて何度もあったっていうのになぜか、すごく気まずい。でも今の会話のおかげでなんか知らないけど気分が少しマシになるから妙な気分だ。ここに居ることを思うだけで、今はずっと楽に息ができる気がして。
 「…お前、あの親戚とやらに何言われた?」
 そうもいかなかった。楽になったはずの肺が、急にずっしりと石を詰め込まれたようにまた重たくなる。見ていた。見られていた。そりゃあ、そうだ。平日朝の食堂だ。誰が居たっておかしくなかった。
 「…何のこと?」
 何をどうしてしらを切ろうとしたのかは僕にもよく分からなかった。とぼけるなよ、と横から鋭い声が僕の肺を突く。そう言われるのも当然だ。僕だって大地と同じ立場なら同じようにヘラヘラとぼけられたら、多分自分はより真剣になるし場合によってはキレるかもしれない。
 「話せよ。別に誰に漏らすわけじゃねぇんだ。オレくらいは、今更だろ」
 
 多分、それは緑疾大地からの信頼の言葉だったんだと思う。
 重たい肺が圧し潰されて、より息が出来なくなっていく。顔全体が鉛のように重たくて、僕は口を開けそうになかった。どうして、こんな感情になるんだろう。多分口に出すのは簡単だったはずだった。弱くなったっていい。どんな言葉でも聞けたらいい。そう誰かに言ったのは、確かに僕だったはずなのに。人に、弱さを吐き出すのは、どうしてこんなにも難しいんだろう。
 「…坂根?」
 だって、認められるわけがないじゃないか。考えたくなんてないじゃないか。誰だって自分が死ぬことなんて、世界が終わることなんて、本当は怖くて。だから、目を逸らして生きること自体は、間違いじゃないはずじゃないか。
 「…坂根」
 頭が締め付けられるように冷えていく。大地がじっと僕を見下ろしている。僕を、見ている。何か言うべきだった。友達が僕を心配してくれているんだ。何か、せめて「大丈夫」って、そのくらいは言えたらよかった。なのに身体が石のように重たい。喉は潰されたように痛い。頭は意識を手放したくなるほどに痛い。僕は座ったまま、それ以上は動くことが出来なかった。
 そのあとのことは、あまりよく覚えていない。
 4月1日に生まれたオレは、あいつらの幼馴染みであり兄貴でなければならなかった。
 瑞崎咲良と瑞崎散音とは、両親がたまたま高校時代からの腐れ縁だったことがきっかけで知り合った。はじめて会ったときのことなんてものはもう覚えていない。気が付けば当たり前のように、オレのそばにはこの二人の青と桃色がいた。花屋の娘なだけあって、二人とも花のような笑顔をもっていた。ずっと三人で、兄妹のように過ごしてこのまま大人になっていくのだと信じてやまなかった。
 崩れたのは小学校に入ってからだ。あの二人はそこらの女子の中でもとびきり可愛い容姿だった。勿論それだけがあいつらのすべてというわけではなかったが、正直いって一緒にいてそういう二人の華やかさを自慢げに思っていたところもある。オレはそこらの男子とは違い、こいつらと常に一緒にいる権利があるんだって思っていた。オレだけがこの二人の特別な存在として許されているのだと思っていた。それがクラスメイトの男どもの嫉妬を買った。その嫉妬がオレに直接向けば、まだ三人の関係はおかしくならなかっただろう。だが、クラスメイトの嫉妬は、男であるオレではなく弱い二人に向かった。誰かが言った心無い一言は、あっという間に伝播し、やがて二人の耳にも入った。
 咲良と散音は実の姉妹ではない。
 二人はものの分別や自分を守ることがうまくできない子供であるうちに、その事実を知ってしまった。特に傷ついたのは、瑞崎家の実の娘でなかった散音である。真実を知ったその日から、散音は自分を咲良より下におくようになった。
 …いつか、咲良がよくぼやいていたことがある。散音が優しいことが嫌いだ、と。私がいなければよかった、と。
 散音が自分の家族ではなくなってしまったことを泣いていた日さえあった。今思えば、すべてが狂う前の予兆だったのかもしれない。オレは前から散音が咲良を優先するようになったことも、自分の意見をやたらと口にしなくなったことも本当は分かっていた。オレは、二人の兄貴分だから。妹のことを見るのは当たり前だった。散音のことだって、咲良のことだって、オレがなんとか出来たらよかった。
 だってオレは分かっていたんだ。いつかこんな日が来る。三人でいられる時間は終わる。瑞崎咲良と瑞崎散音が実の姉妹にはなれないと知った以上は、こんな日々は続かない。
 だから散音から「咲良がいなくなった」と電話が来たとき、思った以上にオレは冷静だった。
 数年越しに見た咲良の置手紙の字はやたらといびつで、五年前に見ていたノートの字とはまるで別人のそれだった。一生懸命リハビリをして、何日間にも分けて書いたような字体で、最後のほうは少しだけ綺麗に書けているくせに涙の痕やらとでやっぱりぐちゃぐちゃになっていた。散音宛の手紙は「ありがとう」で終わっていたくせに、オレへの手紙の締めくくりは「ごめんなさい」だったあたりが最悪だった。謝るくらいなら後始末をオレにさせずにはじめから本人に言えばよかったんだ。そうしなかったのは、多分五年前、いやそれ以上から続く経験則のせいに違いない。
 瑞崎家ではなんとなく、その手の話はすでにしていたんだろう。散音とオレに反して親共はわりと冷静だったし、娘の居場所も分かっているようだった。父親がその場に居なかったあたり、もしかしたら生活の手助けでもしに行っているのかもしれない。ただ、オレたちに咲良の居場所云々を話すつもりはないようだった。
 「むしろそうさせるべきだったのよ。事故が起こるもっと前から」
 
 病院からの帰り道で、後部座席でうつろな目をする散音を少し見遣って咲良と散音の母さんが眉を下げた。散音と瑞崎のおばさんは決して不仲ではなかったし、むしろおばさんはかなり散音と咲良に対して分け隔てなく接していたと思う。この人たちはいつもそうだった。何が起きてもオレたちを責めない。けど、多分今はそれがかなり痛いような気がした。
 「…居なくなるならあたしがよかった」
 無理を言って実家ではなく寮までの道で下ろしてもらった帰りにやっと散音から出た言葉がそれだった。夏なのに肩は震えていて、思えばオレは二人の時にこの幼馴染が笑っている姿をここ何年も見ていないことを不意に思い出した。笑っているとしてもいつもこうだ。いつも、自分が消えればいいと言いながら、自嘲するように口だけ歪めるんだ。いつまで、それを見ないといけないんだろうか。それがたとえ自分のやらかしたことに対する罰としても。
 「…オレは咲良もお前も正直もう嫌いだよ」
 吐き出してしまった言葉は嘘も偽りもなかった。散音がはっと表情をこわばらせてオレのほうを見返してくる。とうとう見捨てられてしまった。とうとう、見捨てた。そんな感じの針を刺すような赤い視線をオレも哂った。そうだ。三人ともやることがずっと子供なんだ。多分。
 「なんで誰もオレを責めないで矛先を自分に向けるんだよ。誰か言えばいいんだ。そもそもおかしくなったのはオレが庇わなかったからだって。お前のせいだって、オレのせいにしてくれたらちょっとはマシになるだろ。オレだって、お前ら以上に自分のことなんて嫌いだ。やめれるもんなら全部やめてぇよ」
 
 
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