任務を終えた煉獄が、ふと足を止めた理由は、見慣れた色が視界に入ったからだ。
 彼の人の瞳よりはいくぶん紫がかった青い花。アヤメだ。緑深い草原に凛と咲くアヤメを見つめる杏寿郎の目は、柔らかくたわみ、口元に薄い微笑みが浮かんだ。
 今ごろ彼はどこでなにをしているだろう。
 脳裏に浮かんだ不愛想な顔に、想いを馳せる。
 彼――水柱、冨岡義勇とは、想いを交わしあったばかりだ。それなりに長い片恋が成就してから、まださほど経ってはいない。思いを告げ、受け入れられたその日は、桜が咲いていた。
 それからもう、ひと月。されど、まだひと月。
 逢えた日はさほど多くない。恋の進展は、亀の歩みよりも遅かった。
 急かすつもりは毛頭ないが、そろそろ接吻ぐらいはさせてもらえるといいのだが。鮮やかに咲き誇るアヤメを見つめながら、煉獄は小さく苦笑した。
 冨岡の担当地区と煉獄が今日受け持った任務の場所は離れている。今日もまた逢えぬままかもしれない。接吻以前に、逢瀬の時間を持つこともままならないのだから、難儀なものだ。
 思えばいっそう逢いたくて、それでも煉獄の足は止まったまま、見るともなく風にかすかに揺れるアヤメを見つめつづけた。
 
 炎柱と水柱はどの時代にも必ずいる。火と水。それは人の営みにおいて欠かせぬものだけに、いつの世もともにあるものだと煉獄は思っている。対称的な二つの呼吸の使い手たちが、一対と思われているのも、その証左だろう。
 だが、煉獄が冨岡に惹かれた理由は、彼が水柱だからというだけではない。
 初対面時からしばらくは、冨岡の印象は薄かった。誰よりも静謐な気配の冨岡は、みなの輪に加わるわけでもなく、誰ともかかわりを持たぬようにしている風情すらあった。
 当初、一対と呼ばれるからには親しくできるだろうと煉獄は楽観していたが、冨岡は、煉獄が話しかけても相槌ひとつ打つでもない。無愛想もここに極まれりといった具合で、いつでも取りつく島もなかった。
 短気な風柱などは、そんな彼の態度に怒りを隠さないが、煉獄が気を悪くしたことはない。表情に乏しい人というのはいるものだ。お館様の奥方であるあまねもそうだし、煉獄自身の母も、常に冷静さを失わぬ人だった。
 はたから見ればそういう人らは冷淡に見られがちだ。だが、母はもちろん、あまねの心根だってやさしく思い遣り深いことを、煉獄は知っている。冨岡にしても、愛想はないが、不死川が言うような周囲を見下すような言動をするところなど、煉獄は見たことがない。
 それどころか、注意深く見ていれば、彼が心やさしい青年であることは容易に知れた。
 困っている者がいれば、そっと手を差し伸べる。しかも、誰よりも気づくのが早い。周囲の者をよく見ている証拠だ。きっと人が好きなのだろう。けれども、不愛想な上に冨岡はどうにも口下手なようだ。だから大概の場合、冨岡の気遣いは空回りして、今ひとつ伝わっていないのが常だった。
 冨岡の不器用さは煉獄にとってはなんだか微笑ましく、年長者であるにもかかわらず、つい愛らしいと微笑んでしまうことは多々あった。
 そしてまた、冨岡はかなりの努力家でもあった。ほとんどの隊士は努力精進を怠らず、煉獄自身だってそれは変わらない。だが冨岡の奮励は一線を画していた。でなければ、あそこまで呼吸を極め、新たな型を生み出すなど不可能だ。
 無駄なものを極限までそぎ落とし、磨いて、磨いて、磨き抜いた先にある境地に冨岡はいる。そこにたどり着くまでの努力は、並々ならぬものであっただろう。彼の戦いを一度でも目にすればわかる。
 煉獄が恋心を自覚したのも、冨岡の剣技を間近に見た日のことだった。
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 隊士が二十人ほど向かったが壊滅状態。どうか柱の派遣を。
 その報を受け、お館様から煉獄と冨岡が指名されたのは、そろそろ雪が降りだしそうな初冬のことだった。
 煉獄がほかの柱と共闘するのは初めてで、それが水柱である冨岡だったのは、一対の柱に対するお館様の信頼ゆえだろう。目を輝かせた煉獄だったが、冨岡は冷静そのもので、煉獄と組むことになんの感慨もないように見えた。
 ともあれおもむいた任地で相対した鬼は、下弦に近い力は持ち合わせているようだった。獣を操る術を持つ鬼である。
 鬼自体よりも、襲ってくる獣たちを相手にするのに時間を割かれ、決着がついたのは夜明け近くだ。
 冬眠中であるはずの熊が襲ってくるのにさえ、操られているだけだと思えば、仕留めるのに多少の躊躇は生まれる。猛禽類や野犬でも同じことだ。本来ならば人に危害を与えることなどない、穏やかな気性の生き物ならば、なおさらだった。切り捨てることは造作ないが、だからこそためらわれる。
 とはいえ攻撃性はすこぶる高い。とにかく数がめっぽう多いのだ。夜目が利かぬ小鳥たちまでが、ガトリング砲さながらに、一斉に襲いかかってくる。何百もいようかという鳥の群れに囲まれては視界もおぼつかない。操られ、逃げる気配のない生き物たちには、警戒心や怯えはなかった。
 力のない小鳥たちでも、無数に飛びかかってこられれば、無傷で済ませてやれるものではない。無辜の命を奪わなければならない戦いは、体よりも精神が疲弊した。
 朝焼けに染まりだした草原に、数多の生き物の亡骸が転がっている。踏み荒らされた枯れた葉は、血で赤く濡れていた。
 峰打ちで済ませられた生き物は少ない。いや、たとえ切り払わずとも、小さく力ない生き物たちは、峰で打ち据えただけで絶命してもいる。見渡した痛ましい光景に、胸の奥がザリザリと削られるようだった。
 だからだろうか、言わずともよい言葉が無意識に煉獄の口をついた。
「君の編み出した型はすごいな! その才能が羨ましい」
 言ったそばから煉獄は臍を噛んだ。自分に才がないのなら補うために努力すればよい。努力など無駄だと父は吐き捨てるが、それしか自分にはできないのだ。こんな言葉は、兄上のようになりたいと一心に鍛錬している千寿郎の努力をも、切り捨てるものでしかない。
 声音に混じった、わずかな嫉みに似た負の感情に、冨岡は気づいただろうか。己の言葉にシンと冷えた脳裏の片隅で、煉獄は危惧した。
 もしも冨岡に軽蔑の視線を向けられたら、きっとつらい。心の臓辺りがズキリと痛んだ。
 けれども振り向いた冨岡の顔には、不快さなど微塵も見つけられなかった。
 人形のように玲瓏な顔には、なんの感情も見いだせない。その表情に安堵を覚えるよりも早く、いっそうの痛みを感じた理由には、そのときはまだ、煉獄は気づいていなかった。
「才能なんてない……俺に才能があれば守れた」
 返された声にも抑揚はなく、淡々としていた。言いながら冨岡は、地べたに転がる死体の山へと眼差しを馳せている。横顔は白く、凍りついたように表情は動かなかった。
 不死川や伊黒あたりならば、嫌味な謙遜ととらえたかもしれない。けれど煉獄は気づいた。冨岡の眉根がほんのわずか寄せられて、悔恨と悲しみの色が瞳に宿っていることに。動物たちを悼んでの言葉かとも思ったが、それにしては冨岡の瞳の昏さは深い。
「誰か、守れなかった人がいるのか?」
 隊士の大半は、鬼に家族や親しい人を奪われた者だ。聞いたことはないが冨岡も同様だろう。亡くした人を思い出したかと思い、問うてみたが、答えはない。だが、引き下がる気にはなれなかった。
 なぜそんなにも知りたがったのか。そのときもまだ、煉獄には自分の行動の意味がわからずにいた。それでも苛立ちと周章は、幾ばくかの痛みを伴っていたように思う。
 話はおしまいとばかりに歩き出そうとした冨岡の手を取り、煉獄はつめ寄った。
「冨岡、言ってくれなければわからない。俺は君をもっと知りたいんだ。君を不快にさせたのなら、その理由をきちんと知って謝罪したい」
 冨岡の整った顔が、今度ははっきりと怪訝な表情を浮かべた。
「……怒ってない」
「そうか、それはよかった! だが、謝罪の理由がなくとも、君のことを知りたいのは変わらん! 俺は、君のことをなんにも知らない……なにがあって鬼殺隊に入ったのか、君がどんな子供時代を送ったのかも、俺は知りたい。君はなにが好きなのか、なにに悲しむのかすら、俺はまだなにひとつ知らないのだからな。だから、君ともっと話がしたい。冨岡、君のことをもっと知りたいんだ」
 言って煉獄は、内心わずかに愕然とした。なぜこんなにも自分は必死になっているのだろう。
 仲間の好物や過去に深く関心を寄せたことなど一度もない。悪鬼滅殺の願い。それだけ胸に強くいだいているのなら、ほかの事どもなど知らずともよかった。
 けれど足りないのだ。自分まで十把ひとからげに、かまうなと切り捨てられるのはごめんだ。もっと知りたかった。冨岡だけは、どれだけ知ってもまだ足りない。すべて知りたい。
 いや、それどころではない。
 不意に心に湧きあがった熱情に、煉獄は、刹那息を飲んだ。
 暴きたい。――欲しい。
 身を焼くような執着は、信じがたい劣情を伴っていた。自分の好意が欲を孕んでいたことに、煉獄が気づいたのはそのときだ。
 思わずまじまじと冨岡を見つめた煉獄に、当の冨岡はなぜだかカチンと固まっている。丸く見開かれた目は、いたずらされ驚く子猫のようだ。なんならふるふると小さく震えてもいる。
 なんと愛らしい。そんな言葉が即座に浮かんでしまえば、もうこれは誤魔化しようがない。
 どうやら知らぬ間に、俺は冨岡を恋い慕っていたようだな。
 迷いなく導き出された結論に、煉獄は、わずかな驚きとそれを上回る納得に、知らず破顔した。
 気づいてしまえばなんのことはない。惚れていたから誰よりも彼を見ていたのだし、彼を知るたび、ますます心惹かれ、もっと知りたいと思うようになっていたのだ。冨岡からの軽蔑が身を切るようにつらいと感じるのも、そのためだ。
 恋した切っ掛けなどは覚えていない。けれども自覚してしまえば、冨岡への恋心はしっくりと煉獄の胸に馴染んだ。
 麗しく、強く、どこか寂しげでありながらも凛と立つ人。冨岡に惚れるのは至極自然なことのように思う。
 彼は、どことなし母に似ている。
 面差しではなく、静かな佇まいと清廉な眼差しが、ありしの母を思い起こさせるのだ。目が吸い寄せられたのはそのせいかもしれない。
 けれど、恋が生まれたのはそれだけではないだろう。思い出の母の姿に、子猫のような愛らしさはない。少なくとも煉獄にとっては、母はいつでも気高く温かく、どれだけ痩せ細ろうと大きく見えた。
 冨岡に目が向かったのは、母の印象と重なる部分ゆえだろうが、恋したのはそれが理由ではない。 
 冷淡とすら見える面差しのなかに気づいた寂寥、孤独、けれども消えない情の深さ。思いがけぬ子供っぽさ。そんな彼の諸々すべてが、煉獄のなかで恋を育てたのだ。
 恋はするものではなく落ちるものとの言説もあるそうだが、煉獄の冨岡への恋は、知らぬ間にゆっくりと育っていった恋だった。風に運ばれ道端に落ちた種が、いつしか芽吹き花を咲かせ、ようやくその存在を人に知らせるように、煉獄の心に植え付けられた恋の種は、煉獄自身も気づかぬうちにひっそりと育ち、今、花開いた。
 片恋で終わらせるつもりは毛頭ない。気づいたからには冨岡にも自分に想いを寄せてほしかった。
 だが……。
 恋心を彼に告げるのは、きっと時機尚早だろう。恋を自覚した舞い上がるような心持のなかで、煉獄は冷静に考える。
 冨岡は人慣れていない。自ら人との交流を避けるようなそぶりをする。いきなり君が好きだと告げたところで、驚いて逃げてしまうかもしれない。そう、それこそ人に慣れていない子猫のようにだ。
 尊敬する柱であり先輩でもある冨岡に、こんなことを思うのは不遜だろうか。けれどもひとたび恋する者の視線で見てしまえば、冨岡の言動が、みな愛らしく思えてしまうのだからしょうがない。
「……姉さん子で、その、泣き虫だった……かもしれない」
 唐突な冨岡の発言に、煉獄は、ん? とまばたきした。
 冨岡はいったいなにを突然言い出したのだろう。答えはすぐに出た。
「そうか! 君は子供のころは泣き虫だったのか!」
 変化に乏しい冨岡の顔が、煉獄の笑みに恥らう色を浮かべた。目じりがうっすらと赤く染まり、視線がわずかにそらされている。それはほんのささいな変化で、よくよく見ていなければ気づけなかったかもしれない。
 もっとずっと注意深く見ていれば、こんなちょっとした冨岡の表情の違いを早くから堪能できただろうに、もったいないことをしていたものだ。
「……泣いてばかりいたわけじゃない」
「おぉ、すまん! だが、馬鹿にしたわけじゃない。冨岡に嫌われるのはかなわないからなっ、誤解はしないでくれ!」
 真面目に言えば、冨岡はひとつまばたきし、不思議そうに首をわずかにかたむけた。
「嫌わない」
 声もいつもと同じく淡々としているが、かすかに驚いているような気配がある。冨岡は心にもないことを言う質ではないと思うけれども、この言葉の真意はどこからくるのだろう。せめてもう一言くらいほしいところだが。煉獄が無言で見つめていれば、願いが通じたか、めずらしく冨岡がまた口を開いた。
「煉獄を嫌うわけがない」
 それ以上は聞けなかった。飛んできた二羽の鴉が伝令と叫び、それぞれに新たな任務を告げたので。
「やれやれ、息つく暇もないな。途中まで一緒にと言いたいところだが、任地も真逆の方向ときている。鬼どもは本当に人の事情など与しないな」
 ぼやく言葉を口にしながらも、煉獄の声には気迫がこもる。冨岡はもう走り出していた。
 ひるがえる独特な羽織の背に向かい、煉獄は声を張り上げた。
「冨岡っ! また今度話を聞かせてくれ、俺はもっと君を知りたい!」
 聞えぬわけもないだろうが、冨岡は振り返りもしない。煉獄は落胆しなかった。次の瞬間には煉獄も走り出している。柱としての責任と矜持を投げ出すような真似などするわけもない。
 次はいつ冨岡に逢えるだろう。食事をともにするぐらいは了承してくれるだろうか。
 恋心を自覚した煉獄の胸は熱く高鳴り、朝日のなかを駆ける足には力がみなぎっていた。
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 それからの日々はと言えば、特別なことなどなにもない。残念ながら同じ任務に就いたのは、あの日以降、たったの一度きりだ。それすら、結果として共闘することにはなったが、そもそもは冨岡の単独任務で、煉獄は後方支援を任されたにすぎない。
 けれどもその任務は、ひどく印象的だった。
 男娼のフリをした冨岡を、買い求めようとする客から助け出す。そんな任務だ。
 せっせと話しかけ食事に誘っては断られをつづけていた煉獄に、冨岡が応えてくれるようになってきたのは、その日以降のことである。とはいえ、食事の誘いは、三度に一度でもうなずいてくれれば御の字というところではあったが。
 それでも少しずつ縮まる距離のなかで、口が重い冨岡も、いくらか話をしてくれるようになった。
 姉とふたりきりで暮らしてきたこと。ともに隊士を目指して鍛錬した親友がいたこと。それぞれの思い出話や好物のことなど、話す内容は彼の孤独に寄り添うものから、他愛ないものまで、さまざまだ。
 枝先からポツリポツリと落ちてくる雫のように、冨岡の言葉は多くはなかった。けれども小さな雫のごとき言葉はゆっくりと、けれど確実に、煉獄の心に染みわたっていった。
 冨岡の話し方は独特というか、どこか幼児めいていて、核心に至るまでやけに遠回りだったり、かと思えばはしょりすぎて結論だけ口にしたりする。冨岡は、誠実に答えねばとの気負いゆえに、頭にあるものをすべて伝えようとして、幼子めくのかもしれない。それは人馴れしていない証左にも思われる。姉さん子だったというし、親友以外には友人の思い出話は出てこないから、人見知りする子供だったのだろうか。
 話し方は幼子のそれでも、語彙は成人らしいものだから、人によっては小馬鹿にされているように感じられるようだ。不死川や伊黒などは、冨岡の言葉にいつも怒りだすが、煉獄からすれば冨岡らしい可愛い癖にしか思えない。もっと幼いころの千寿郎もこんな感じだったなと思えば、つたない話し方にさえ頬も緩む。
「今日も不死川を怒らせてしまったようだな。君の口下手も大概だが、不死川も短気が過ぎる。だが君も、任務や報告のときは問題なく説明できているだろう? 不思議なものだな」
 語りかけても冨岡の返事はない。もう慣れっこだ。煉獄は気を悪くすることもなく、箸を進めた。
 目についた蕎麦屋にふらりと入り、ともに食事をとりながらの会話だった。たぬきそばとかいう物めずらしい名称の蕎麦が有名だそうで、店内はそれなりに盛況だ。人の多い場所は嫌だろうかと思いきや、冨岡に気にした様子はなかった。話の種に食べてみようと注文した揚げ玉入りのたぬきそばを、ズルズルとすする様にも、人目を厭う空気はない。
 こんなふうに、柱合会議のあとでどことも決めずに連れ立ち、ともに食事するのも何度目だろう。
 初めて冨岡が食事の誘いにうなずいてくれたときには、舞い上がっていつも以上に話しかけたものだ。しかし、当の冨岡は相槌すら返してくれず、本当は迷惑だったのだろうかと落ち込みかけたが、わかってしまえばなんのことはない。冨岡は食べながら話すことができないだけだった。
 手先は器用なほうなのに、本当に不思議なものだ。不器用なのは食べ方もで、気がつくと頬やら唇に、飯粒がついている。今日もこじんまりとした形の良い唇には、天かすがついていた。本当に幼子のようだと、煉獄の顔には至極上機嫌な笑みだけがあった。
 いろいろと不器用が過ぎる冨岡の習性は、冨岡を冷淡だとか高飛車だとか判ずる者では、気づきもしないだろう。同じ柱であっても自分だけがこんな冨岡を知っていると思えば、煉獄は、黙々と蕎麦をすすっている冨岡を見つめながら、優越感すら覚えもした。それぐらいは自慢に思ってもいいだろう。煉獄は優越の笑みを隠さない。
 残念ながら、煉獄が冨岡の笑顔を見たことはない。渾身の冗談は心配されて終わってしまった。胡蝶は、以前に好物を前にした冨岡の笑顔を見たことがあるそうだが、煉獄はまだその機会に恵まれずにいる。冨岡について知らないことはまだまだ多いのだ。笑顔ひとつですら見せてもらえていない。ささやかな優越感を積み重ねていくのだけが、冨岡との心の距離を測る術だ。
「不死川は悪くない」
 食べ終えた冨岡が、ようやく口を開いたかと思えば、そんなことを言う。いつも通りの無表情に見えるが、声は少し勢い込んでいるように感じられた。
「ふむ。たしかに俺はちょうど席を外していたから、きっかけがなんなのか知らん。なのに不死川の短気のせいにしてはいかんな。冨岡、なにがあったんだ?」
 いつものように冨岡にはなんの悪気もなく、ゆえに、いつものごとく理由もわからないまま怒られたと冨岡も思っているものだと、煉獄は考えていた。だというのに、これだけはっきりと不死川をかばうとは。少々妬けるなと、胸のなか独り言ち、煉獄はじっと冨岡の目を見据えた。
 煉獄の視線を真っ向から受けても、冨岡は目をそらさない。
「余計な世話を焼いた」
「君が?」
 思わず食い気味に言った煉獄に、責められたとでも思ったのだろう。冨岡の肩がわずかに落ちた。そんな冨岡の様子にこそ、煉獄は少しばかり慌ててしまう。
「責めたように聞こえたのならすまない! 君が不死川の世話を焼くとは、めずらしいこともあるものだなと、思っただけだ」
 冨岡が優しい男だということは承知している。けれどもそれは、自ら積極的に関わっていくたぐいのものではない。ましてや、相手は冨岡を避けがちな不死川だ。本音を言えば、少々だった悋気が、かなりに変わるぐらいには、不死川が羨ましい。
 だが、それを冨岡に伝えたところで、煉獄の好意の意味合いを、冨岡が理解してくれるとはとうてい思えなかった。
 冨岡はどうにも色恋にはうといようなのだ。ありていに言ってしまえば鈍感だ。隊士のなかには、冨岡への憧れを隠さぬ者だっているというのに、自分に向かう秋波に冨岡はちっとも気づきやしない。
 よくもまあ、男娼役など引き受けたものだ。堂に入ったあの夜の冨岡を思い出すと、普段との落差に思わず苦笑しそうになる。
 とはいえど、煉獄とて物心ついたころから悪鬼滅殺の道を邁進するばかりで、男女の仲など意識したことはない。実際のところ、冨岡が初恋でもある。恋人になりたいなどと願うほど、特別に誰かを想うのは、冨岡が初めてだった。
 恋愛の駆け引きなど、得手ではない。というよりも、よくわからない。けれど、自分以上に初心に見える冨岡を、怯えさせるのも避けられるのもまっぴらならば、多少は戦術も要さねばならないだろう。恋敵になりそうな御仁がいないわけでもないのだ。
 あちらは冨岡を苦手としているようだが、不死川や伊黒のことを、冨岡が気にしているように見受けられることは、ときおりあった。同じ年齢だからだろうか。それが冨岡が二人を意識する理由なら、たった一つの年の差が恨めしくもある。
 冨岡にはさとられぬよう笑みを浮かべたまま、内心では『鳥刺しは端を狙えと言うそうだからな。危険な芽は早めにどうにかしなければ』などと、少々剣呑なことを煉獄は考える。
 もちろん、不死川たちに敵意を向けるなんてことがあるわけもなく。二人が万が一にも冨岡に懸想などせぬよう、そろそろ自分の恋心を二人にも打ち明けてみようかと、思ってみただけのことだ。
 宇髄にはなぜだか筒抜けだったようだが、ほかの柱たちには、己の恋心はまだバレてはいないらしい。身なりは派手だが宇髄は口が堅い。知られたのが宇髄でよかったと煉獄は安堵していた。
 冨岡に想いを告げる前に人に知られるのは、少々気恥ずかしい。なにせ、恋をしてからというもの、冨岡と親しくなろうとしてきた努力は、我ながら涙ぐましい気がするのだ。さして興味もなかったのに、冨岡が好んでいると知ったその日に将棋盤を買い込み、有名な対局だの将棋指しの言葉などまで頭に叩き込むぐらいだ。ときおり、さすがに的はずれな努力だろうかと、首をひねることさえある。自身でさえそんなことを思うぐらいだ。人に知られればそれなりに恥ずかしさだって覚える。
 人を通じて冨岡に自分の想いが伝わってしまうのも、いささか困る。告白は己の口でしたい。冨岡の瞳を見つめて、想いの丈を余さず己の言葉で伝えたいものだ。
 だが、恥ずかしいのなんのと言ってもいられない。冨岡の心がほかの誰かに向かってしまってからでは遅いのだ。
 胸中で、さて不死川たちにどのように話をもっていくかと、つらつらと考えていた煉獄は、唐突な冨岡の言葉に思わずポカンと目を見開いた。
「煉獄のようにできたら……こうして一緒にいても、煉獄に恥ずかしい思いをさせずにすむかと思ったんだが……」
 今、冨岡はなんと言ったのだろう。すぐには意味が飲み込めず、めずらしく自失した煉獄に、冨岡は誤解を深めてしまったらしい。
「すまない。せめてもう少しマシになれれば、煉獄に迷惑をかけることもなくなるだろうと、がんばってみたんだが……俺には無理だったらしい」
「迷惑とはなんのことだ? 俺は一度だって君を迷惑がったことなどない! 恥ずかしいなど思ったことは一度もない!」
 あまりにも思いがけず、煉獄にしてみれば素っ頓狂とさえ言える発言に、泡を食って言えば、冨岡の眉尻がいかにも悲しげに下がった。常にはない表情を目にしても、喜ぶどころではない。誤解されるのは勘弁願いたいし、悲しい顔では喜べやしないではないか。
「迷惑だろう? 煉獄はやさしいから、俺にも話しかけてくれるし、こうして飯に誘ってもくれる。だが、ただでさえ忙しい身だ。俺と過ごして時間を無駄にするなど」
「無駄なわけがないだろうっ!」
 店内のざわめきが、ピタリと止まった。
 煉獄は元来声が大きい。怒鳴り声ともなれば、店内の壁がビリッと震えたかと思うほどだ。客の視線が一斉に驚きや不安をあらわに注がれるのも、致し方ないことかもしれなかった。
 二人とも食事は済んでいる。人目を気にする質ではないが、込み入った話をするのに衆目は邪魔だ。
 そういえば、ここは蕎麦屋だった。蕎麦屋と言えば……。
 チラリと煉獄は店内に視線を走らせた。目の端に留まった階段に、立ち上がり冨岡の腕を取る。
「行こう。話がしたい。主人! 二階の部屋を借りる!」
「煉獄?」
 ピュウッと口笛を吹いたのは誰だろう。なんだ男同士で痴話喧嘩かと呟く声が聞こえた。残念ながら外れだと、煉獄は内心で苦く笑う。
 痴話喧嘩など、まだまだ先の話だ。冨岡との仲には、少なくとも冨岡には、まだ色恋の気配などない。悲しいことに。
 いっそ痴話喧嘩ならいいのにと、思ってしまうほどには、まだなにもないのだ。
 大股に店内を横切り、ごゆっくりとの店主の声を背に階段を上る。戸惑う気配をにじませながらも、拒みもせずついてくる冨岡に、少しだけ苛立ちが胸に湧いた。
 諦める気などない。冨岡には、やさしくゆっくりと自分の想いを染み込ませるように伝えていきたいとも、思っている。ともにいるのが当たり前になったら、そのときこそ言うのだ。君が好きだと。そう心に誓ってもいた。
 興味などなかった将棋を覚え、棋譜を買い求めもした。冨岡が好きそうな店を探す癖もついた。姿を見つければ駆け寄り声をかけ、誘いにうなずいてもらえればその日は一日中うれしくて。
 冨岡と親しくなるために使った時間も金も、それなりだ。だがそんなものなんだというのか。迷惑なんかであるものか。無駄だと? 君がそれを言うのか。無駄な努力だと。いや、違う。冨岡の言葉はきっとそんな意味じゃない。わかっている。
 無言のまま、煉獄は胸の奥に浮かぶ冨岡の一言を、懸命に打ち消した。けれど、苛立ちは消えなかった。
 無駄なんて言葉で、済ませてほしくないのだ。冨岡と過ごす時間は、煉獄にとって、幸せなひとときだ。殺伐とした、血にまみれた任務の日々。怠惰になり酒に溺れ、ろくに声もかけてくれなくなった父。千寿郎の努力が実らぬ悲嘆。苦しく切ない想いが、胸を締め付けることだってある。けれどそれでも、冨岡といるときだけは、幼い子供のころのように温かな思いだけで幸せだと笑えるのだ。恋とはこんなにも素晴らしいのかと、胸が熱くなる。
 廊下を見回し、襖の開けられた部屋へと迷わず進む。締め切られた部屋から、あえかなすすり泣きに似た声がした。声を荒らげぬようにしよう。考えるともなしに煉獄は思う。
 冨岡を怯えさせたくないからなのか、逢い引き中の恋人たちの邪魔にならぬようなのか。自分でもどちらとも判断がつかない。
 部屋はさほど広くはなかった。料亭のように装飾が施された欄間など望むべくもない、質素な部屋だ。窓枠にはうっすらと埃が積もっていた。ガラスも磨かれていないのだろう。曇っている。けれども、差し込む日差しは十二分に眩しかった。
「座ってくれ。話をしよう」
 努めて静かに声をかけ腕を離せば、冨岡は、寄る辺ない子供のようにどこか悄然として、部屋に据えられた卓の前に座した。
 卓を挟んで向かいに腰を下ろし、煉獄はつくづくと冨岡を見つめた。
 冨岡はわずかにうつむいている。目も伏せられ、煉獄を見つめ返すことはない。叱られるのを覚悟した子供のような風情だ。
 フゥッと息を吐けば、ピクリと冨岡の肩が揺れた。
「怒っているわけではない。冨岡、頼む。顔を上げてくれ」
 おずおずという言葉がふさわしい様で、冨岡の顔が上げられる。
「一つだけ、確認してもいいだろうか」
 かすかに首をかしげ、それでも小さくうなずいた冨岡を、煉獄はじっと見る。なにひとつ見逃したくはなかった。
「君は、無駄なことはやめろと言ったわけではない……そう思っていいか?」
 パッと冨岡の表情が変わった。目が大きく見開かれ、奇想天外な出来事に出くわしでもしたような顔をしている。
「なんで?」
「それは、どういう意味の『なんで』だろう。なぜ無駄なことを続けようとすると」
「違う!」
 煉獄の言葉を遮り言った冨岡に、煉獄はパチリとまばたきし、ついで満面の笑みを浮かべた。
「君が大きな声を出すのを初めて聞けたな」
「……すまない」
 冨岡はまたうつむいてしまった。こんな冨岡は初めて見る。感情がわかりやすく表面に出る冨岡など、きっと鬼殺隊で知る者は、自分ひとりだ。
「謝る必要などないなっ! 俺は喜んでいるのだから」
「……なんで?」
「ふむ、その『なんで』はわかりやすい! もっと君のことが知りたいと言っただろう? 君とはあれからいろいろと話しもしたが、まだ足りない。全然足りないんだ。俺はもっともっと君を知りたい。だから、教えてくれ冨岡。君がなぜ、無駄などと言ったのかも」
 パチリとまばたいたのは、今度は冨岡のほうだった。その顔はどこかあどけなく見えた。
 わずかに目元が赤らんでいる。視線がさまよう。ふとその眼差しが卓に落ちた。意を決したように口を開いた冨岡は、少し首をすくめていた。緊張が伝わってくるようだ。
「あれは……尋常小学校のころだ。級友に、俺と遊ぶのはつまらないと言われた」
 今回は尋常小学校ときたか。ずいぶんと遠回りになりそうだ。思い、煉獄の唇に浮かんだのは面白がるものでもあり、慈しみでもある微笑みだった。
「小学校にあがる前に、両親が死んで……違う。すまない。これは、前に話したんだった」
「覚えているとも。君の言葉を俺が忘れるわけがない。だが、かまわない。全部聞く。話してくれ。冨岡、君の話なら、俺は全部聞くし、聞きたい」
 どれだけ遠回りだろうと、冨岡の声を、言葉を、聞くことは、煉獄にとって幸せ以外のなにものでもない。小さいけれども耳馴染みの良い声で語られる当時の冨岡を想像すると、微笑ましくて、恋しさが募る。布団で母や父が話してくれるおとぎ話を聞いた子供のころのように、もっと聞かせてほしいとねだりたくなる。心地がよくて、ワクワクとするのだ。煉獄と出逢う前の冨岡の人生を、ともに歩んででもいるような気にもなれた。
 わずかな逡巡をたたえた目でちろりと上目遣いに煉獄を見やり、冨岡は、また言葉を紡ぎ出した。
「その、両親が亡くなってから、俺は姉に育てられた。父が生きていたのなら、もしかしたら違ったのかもしれないが、いつも人に乱暴してはいけないとか、生き物をいじめてはいけないと、姉に教えられてきたんだ」
「うん、当然のことだな! 君の父上がご存命でも、きっと同じようにおっしゃられていただろう!」
「だが……つまらないと言われた。夕方に、コウモリが飛びまわるだろう?」
「うん? そうだな。よく見かけるな」
「級友たちは、棒で叩き落として遊ぶんだ。かわいそうだった。戦争ごっこも嫌いだった。おもちゃでも、人に鉄砲を向けるのが嫌で、サーベル代わりの木の枝で、友だちに斬りかかるのも嫌いだ」
「……うん。冨岡らしいな。意味のない暴力や殺生は、俺も好かん。それにコウモリは稲を駄目にする虫を食べてくれる! 殺してしまうなど滅相もないことだ!」
 煉獄自身は、物心ついたころから竹刀を握っている。炎柱の名を背負うことを託され続けてきた家系に生まれたのだ。なんの疑問も差し挟む余地はなかった。父が鍛錬する姿や、鬼狩りに向かう頼もしい背を誇らしく見上げ、自分も父上のように強くなるのだと誓いこそすれ、刀をとることを躊躇したことなどない。
 けれど、冨岡は違うのだ。心やさしく、おとなしい子供だったのだろう。姉の言いつけをよく守る、真面目な子でもあっただろう。棒切れを振り回すことすら嫌うぐらいだ。刀など、本来であれば一生握ることはなかっただろうに。
 だが、天の定めとやらがあるとしたら、それは冨岡に鬼殺の道を命じたのだ。人に嫌われがちな生き物でさえ、殺すのを嫌がる冨岡に、鬼を滅せよと命じられた。そして冨岡は、自分の意志で、刀を手にとったのだ。
 なんとも痛ましいことだと煉獄は思う。けれども同時に、無駄な殺生を嫌う冨岡の性質を、なお好ましく思いもしたし、自分と同様だとうれしくもなった。苦しくつらい思いをしても、それでも鍛錬を怠らずに、柱にまで上り詰めただけにとどまらず、新たな型を生み出したほどの冨岡の努力を、深く尊敬もした。
「嫌じゃ、ないのか?」
「なにがだ?」
 そろっとあげられた冨岡の顔が、ようやくまっこうから煉獄に向けられた。うつむかれているよりも、ずっといい。深まる笑みはそのままに、煉獄が少しだけキョトンとして首をかしげると、冨岡もわずかに首をかたむけた。まるで鏡写しのように。
「コウモリ。嫌いな人のほうが多いと思っていた」
「あぁ、なるほど! いや、嫌いだとか嫌だとか思ったことはないな。言っただろう? コウモリは農家の方にとってはありがたい生き物だ。人を襲うわけでもない。可愛がろうと思ったことはないが、嫌がる筋合いはないな!」
「そうか……」
 冨岡がどことなしホッとしたように見えるのは気のせいだろうか。それきり黙ってしまったものだから、煉獄は思わず苦笑した。
「つまり、君はやさしいがゆえに級友たちから嫌われたと、そこまではわかった。だが、それがどうして俺との時間が無駄だなどという話に繋がるんだ?」
「ち、違うっ。煉獄と過ごせるのは、うれしい。だが、迷惑だろう?」
 慌てているのか子供のように首を振ってみせる冨岡も、初めて見る。今日はいったいどういう日なんだろう。初めての大盤振る舞いだ。
 うれしいことでもあるが、それでも迷惑という言葉はいただけない。思わず眉根を寄せた煉獄に、また冨岡の顔がうつむきかけた。
「それだ、冨岡。俺にはなぜ君が、迷惑だなどと言い出したのかがさっぱりわからん。無駄と言われるのも勘弁願いたい! ……話してくれ。全部聞くと言っただろう?」
 少し曇った窓から差し込む日差しが、常になく頼りなげに見える冨岡を照らしている。窓の外に広がる春の空は穏やかに青い。
 恋を自覚したあの日は、冬だった。積み重なる動物たちの亡骸を見つめた冨岡は、悲しげで、どことなし寒そうにも見えた。頑健に鍛え上げられた肉体ではなく、心が凍えていたのだろうと、今は思う。
 だから煉獄は、静かに冨岡をうながした。
 自分の声もまた、穏やかなあの空のように冨岡を温め癒せるものであればいい。炎柱の名に恥じぬ熱き想いでもって、冨岡を温められたらいい。凍え震える愛しい人を、温められる火となれたなら、どんなに喜ばしいことだろう。
 そうしていつか、この肌身でも。
 さすがにそれは気が早すぎるなと、煉獄は胸中で苦笑した。まだ想いを告げることさえかなわずにいるのだ。同衾できる日などいつになるやら。焦る気はないが、少々溜息をつきたいような気にもなる。
 だから、まさか。
「つまらないと……煉獄に思われるのは、苦しい」
 
 そんな言葉が冨岡の口から出るなど、煉獄は思ってもみなかった。
「冨岡……それは」
 呆然としたせいか、いつになくかすれた声になった。それをどうとらえたものか、冨岡は、ギュッと自分の隊服の胸元を握りしめ、叱られた子供のように目を閉じてしまっている。
 いけない。これではまた冨岡は黙り込んでしまう。煉獄は焦ったのだが、あにはからんや。冨岡はまたもやめずらしいことに、ふたたび呼びかけようとした煉獄の言葉をさえぎり、少し早口で言った。
「俺と一緒にいれば、煉獄の鍛錬や休息の時間が減らされることは、わかっている。煉獄はやさしくて責任感が強いから、村長の息子みたいに俺をかまってくれたんだということも」
「いや、ちょっと待て冨岡っ」
 せっかく会話を続けてくれたのだから、煉獄とてさえぎりたくはない。ないが……。
「誰なんだ? 村長の息子?」
 いきなり出てきた男に、先よりもさらに慌てたのもしかたないと、煉獄としては思いたいところだ。鬼殺隊に入ってなお、つきあいが続いているとは思えないが、とにかく口が重く自分のことをまったく話してくれずにいた冨岡のことだ。煉獄が知らぬだけで故郷の知り合いや友人と、今も親密な交流がある可能性は否めない。
 それ自体はいいことなのだろう。だが、恋敵が増えたのだろうかと思うと、気が気でなかった。
「コウモリを殺すのはやめてほしいと訴えたら、意気地なし、つまらない奴だと言われたんだ」
「それが村長の息子か?」
 聞けば冨岡は子供のようにふるりと首を振る。
「みんな遊んでくれなくなったが、村長のところの息子だけは、遊んでくれた」
「そっ、それでっ? それで冨岡はそいつのことが好きだったのか? 今も好きなのか!?」
 またふるりと首を振り、嫌いではないが好きだとは思ってないかもしれないと、冨岡にしてはやけに煮え切らない言葉で言う。
「そのころは唯一の友だちだと思い、好きだった。だが、級友たちと話しているのを聞いてしまって……。俺の父は医師で、村医者ではなかったんだが休暇の折にはよく、相談に来る村の者たちを診てやっていた。だから、村長に冨岡の坊っちゃんの面倒を見てやれと言われて迷惑していると」
「……そういうことか」
 煉獄の肩から思わず力が抜けた。
 遠回りな冨岡の物言いは微笑ましいが、こういうときには、ずいぶんとやきもきさせられるものだ。
「俺のことが好きで遊んでくれていたわけではなかった。悪い子じゃない。責任感もあるし、やさしい奴だったと思う。そういう子を嫌うのは良くないだろうが、あんまり悲しかったから、好きだとは言えない。煉獄も、柱としての責任感から俺に話しかけてくれて、こんなふうに誘ってもくれるんだと理解している。だから、迷惑だとかつまらないと思われないよう、少しでもおまえみたいになれたら、一緒にいることが許されるかと思った」
 目を閉じたまま冨岡は、いかにも一所懸命に言葉を紡いでいた。日ごろからは考えられない言葉数の多さは、冨岡の焦燥ゆえだろうか。だとしたら、その所以はどこにあるのだろう。
 ともあれ、聞き捨てならない文言については否定しなければと、煉獄は迷わず手を伸ばした。
「冨岡」
 初めて、冨岡の白い頬に触れた。ピクリと首をすくめるから、なんだか少し悲しい。できることなら、初めて冨岡の顔に触れるときは、お互いに甘やかな気持ちでありたかった。そうあるようがんばってもきた。
 だが、触れた手を引く気にはなれなかった。せめて終わりよければすべてよしと言えるようにせねばと、煉獄は努めて穏やかにもう一度、名を呼んだ。
「冨岡。俺は迷惑だなどと思ったことはない。そんなふうに君に思われていたことすら心外だ。君は覚えていないかもしれないが、以前、君に『その才能が羨ましい』と言ったことがあった。あのとき、俺は言葉を間違えた。言い直させてくれ」
「……初めて、煉獄と行った任務の」
 ようやく開かれた目が、煉獄を映す。澄んだ瑠璃色の瞳に映った恋する男の顔は、笑んでいた。
 あぁ。俺はいつも、こんな顔をして君を見つめていたのか。
 少し気恥ずかしく、どこか誇らしい。そして、たとえようもない愛おしさをたたえた男が、冨岡に瞳のなかにいる。
 凪いだ海のようでもあり、晴れた空のようでもある、冨岡の瞳。ときに凛と咲く竜胆の花のようだと思いもしたその瞳も、煉獄をまっすぐに見つめてくれていた。
「覚えてくれていたのか。それはうれしい。あのときは、すまなかった。俺はこう言うべきだったのだ」
 一度深く息を吸い込み、煉獄は、冨岡の目をまっすぐに見つめ、言った。
「冨岡、俺は、君の努力を尊敬する。炎柱、煉獄杏寿郎として。そして……俺、煉獄杏寿郎は、冨岡義勇を、心の底から好いている」
 告白は、もっと先になるだろうと思っていた。こんな逢い引き中の客の喘ぎがかすかに聞こえてくるような、薄汚れた蕎麦屋の二階などではなく、巷で聞く浪漫のある場所でだ。そう、たとえば、秋の穏やかな日が降り注ぎ、爽やかな風の吹く、竜胆の咲く草原で。君が好きだと、手折った竜胆を一輪手渡して言うのだ。そんな日を、夢見ていた。
 だが現実はこれだ。理想ほどうまくはいかないものだと、煉獄の眉がわずかに下がる。
 理想からはほど遠い。それでも、言わずにはいられなかった。冨岡がたまらなく恋しくて、心は抑えられぬほどに燃えていた。
 冨岡は、なにも言わない。うっすらと開かれた唇の端に、まだ天かすがついていた。本当に、子供みたいだ。親指をすべらせ口に触れれば、また冨岡の肩が小さく揺れた。
 幼子のようだとか、子猫のようだとか。思えば微笑ましくなるけれど、煉獄の胸にある恋の炎は、愛らしくいとけないものを慈しむ想いだけではない。
 柱としての雄々しく凛々しい冨岡も、共闘した浅草での婀娜めいた姿の冨岡も、全部、冨岡義勇という男の一面である。幼子のように不器用な冨岡を愛おしく思うのは、尊敬すべき一人の男としての冨岡が見せる、素の一面だからこそだ。
「好き……?」
「あぁ。だから迷惑だなどと思ったことはない。無駄な時間なんて思うわけがない。君と過ごす時間は、俺にとっては至福の時だ」
 どうか、受け入れてくれ。願う心が煉獄の眼差しを強くする。もっと近づきたいのに、卓が邪魔だ。いや、卓があってよかったのかもしれない。膝を突き合わせていれば、冨岡の意思を顧みず、抱きしめてしまっていただろうから。
 じわりと冨岡の目元が花の色に染まっていく。友人としての好意ではないと過たず理解してくれたのならなによりだが、さて、冨岡のことだから油断はできないなと、煉獄は目を苦笑にたわませた。
「君は、俺につまらない奴だと思われるのは苦しいと言ってくれたが、それはなぜだか聞いてもいいか?」
 声は、煉獄自身にもやけにやさしく聞こえた。冨岡にもそう聞こえればよいのだけれど。思っていれば、冨岡は、また隊服の胸元をギュッと握りしめた。
「村長の息子が、俺と遊んでくれていたのは親に言われたからだと知ったときは、悲しかった」
「うん?」
「不死川に怒られたり、伊黒に悪口を言われたときもだ。とても悲しいと思った」
「……そうか」
 これはまた遠回りになるだろうか。少しばかり焦らなくはないが、急かす気もない。手のないときは端歩をつけだ。相手に委ねることも大事だろう。うながすように相槌を打ち、煉獄は、冨岡を見つめつづけた。踏み込む好機をなにひとつ見落とさぬように。
「錆兎に、嫌われたかもしれないと思ったときも……悲しかったし、苦しかった」
「君の親友だな。友に嫌われるのがつらいのは当然だ」
 おそらくは、最も手強い恋敵になり得た人物の名に、ムクリと頭をもたげかけた悋気を、煉獄はしいて抑えつける。以前、冨岡は、煉獄と錆兎はいい友達になれたと思うと言っていた。信頼されているということだろう。腹を立てれば狭量がすぎる。
「だが……」
 ふと言いよどみ、冨岡は、グッと眉根を寄せた。胸元を握りしめる手にも、いっそうの力が込められて見える。
「煉獄に嫌われたり、迷惑だと思われるのは……ここが、痛い。痛くて、苦しくて、息ができなくなる」
 今、煉獄を襲った暴力的なまでの歓喜を、なんと言い表せばよいのだろう。きっと百万語言葉を連ねても、身震いするほどに内からこみ上げる喜びには、とうてい足りないに違いない。
「冨岡……それは」
「わからない。なんで……煉獄にだけ、こんなにも嫌われたくないと思うのか、自分でもわからないんだ。自分の心すら理解できないなど、呆れるだろう? だが、本当にわからないんだ。……未熟ですまない」
 冨岡の瞳のなかの煉獄の顔が、揺らめいていた。きらめく星を散りばめた夜空のように深い瑠璃の瞳が、涙の膜をまとっている。初めて見る冨岡が、また一つ増えそうだ。
「俺が、その答えを言ってしまってもいいのか?」
 冨岡の答えはなかった。けれど、瞳が訴えかけている。教えてと。
「冨岡、俺は今、幸せで胸がはちきれそうになっている。どうやら俺と君は、同じ想いを抱いているようだ」
「同じ……」
「言っただろう? 君が好きだ。冨岡」
 緩慢なまばたきとともに、きれいな涙がひとしずく、冨岡の目尻から静かにこぼれて落ちた。初めて見る冨岡の涙。流れ星。そんな言葉がふと煉獄の脳裏に浮かぶ。
 流れ星に願いをかけることを教えてくれたのは、誰だったか。神仏に手を合わせはしても、煉獄は一度たりと、神頼みなどしたことはない。けれど、このしずくには願いたくなった。
 どうか、この美しく凛々しく、けれど誰より愛らしい人が、いつか幸せだと微笑んでくれますように、と。
「好き……え、あ……」
 冨岡の目元を染めていた朱が、じわじわと広がっていく。以前に、二人の足元を染めていた鮮血よりも清々しく、温かな、花のように鮮やかな赤。あの日には白く凍りついていた頬が、恋の色に染まっていく。
 瑠璃の瞳が揺れていた。見開かれた目のなかで、煉獄を映して揺れる、深い瑠璃。紅葉に赤く染まる草原に、一輪咲いた竜胆のように、その瞳は手折られ愛でられるのを待っているように感じた。
「冨岡、先ほどのたぬきそばのカスがついてるぞ」
「え? あ、あぁ。ありがとう」
 あえて軽口めかして親指で冨岡の唇についた食べかすを拭ってやれば、羞恥にだろう、冨岡の顔がいっそう赤らんだ。
「答えを聞かせてはくれないのか?」
「答え……え? 答え?」
 潤んだ目をパチパチとしばたたかせるたび、冨岡の長いまつげが涙の粒をまとっていく。
「俺は君に告白しただろう? 君は俺をどう思っているのか、聞かせてほしい」
「……俺、は」
 煉獄の指が触れたまま、冨岡の唇が震えながら言葉を紡ごうとしたそのとき。
「だめっ、死んじゃうっ!」
 サッと冨岡のまとう空気が一変した。腰の日輪刀に手をやり、早くも腰を浮かせる冨岡に、煉獄の手のひらは置き去りになった。
 呆然。絶句。人の事情を与しないのは、鬼だけではなかったか。
「待てっ、冨岡! あれはそういうのではない!」
「殺されかけている」
 なにをボサッとしていると言わんばかりに、冷静さをすっかり取り戻した眼差しを向けてくる冨岡は、これっぽっちも状況を理解していないようだ。うといとは思っていたが、まさかこれほどとは。
 本当に、よく男娼役など引き受けたものだ。呆れもするが、それよりもなお、煉獄は笑いたくなった。心の動きに逆らわず、煉獄は破顔する。怪訝に眉を寄せる冨岡に首を振ったところで、鴉の鳴き声がした。
「伝令! 伝令! 煉獄杏寿郎、新宿へ迎え! 悪鬼滅殺せよ!」
「冨岡義勇! 高尾に鬼の出現の噂あり! すぐに向かえ!」
 窓の外で羽ばたく鴉たちに向けた視線は、二組とも険しい。鬼殺隊の柱の顔がそこにはあった。
「まったく、鬼というのは無粋がすぎる。人の恋路を邪魔するからには、馬に蹴られても文句は言わせん」
 言いながら立ち上がり、煉獄は取り出した紙幣を確かめもせず卓に置くと、窓に向かって足を踏み出した。冨岡はちらりと紙幣に目をやり眉間を寄せたが、なにも言わなかった。なぜ階段に向かわないのかと問いかけてくることもない。
 ガラリと窓を開けた煉獄は、窓枠に足をかけると、やはり無言のまま外へと飛び出した。地面につくと同時に声を張り上げる。
「主人、急ぎの用ができた! お代は部屋に置いてある、釣りはとっておいてくれ!」
 言い終えるより前に、冨岡も音もなく地面に降り立っている。早くも走り出そうとしている冨岡に一拍遅れ、音高く蕎麦屋の戸が開かれた。
「く、食い逃げかっ」
「部屋を確かめてくれ! 足りないということはないはずだ!」
 店主の怒鳴り声はもう遠かった。人並みを避けながら駆ける煉獄の傍らを、同じように走る冨岡が、視線を向けてくる。その眼差しはどこか咎める色があった。
「冨岡?」
「……品書きには、六銭と書いてあった」
 なるほど。煉獄が置いてきた金が気になっていたようだ。速度を緩めることなく、煉獄は大きな声で笑う。
「部屋代込みだからな! 足りないということはあるまい!」
「五円もする部屋などあるわけがない。追加で注文したわけでもないのに」
 それはそうだが、煉獄としては十円払ったところで惜しくはない。
「なに、おかげで君の気持ちがわかったのだからな! 礼には足りなかったかもしれん!」
 言って、煉獄は思わず、ん? と、黙り込んだ。傍らを駆ける冨岡の、少し赤く染まってうつむき気味な顔をまじまじと見る。
「いや……まだ、答えを聞いたわけではなかったな」
「隣の部屋の人だがっ!」
 聞かせてくれと続けるより早く、いきなり冨岡がいつもより大きな声でさえぎってきた。
「隣?」
「殺されかけていたようだが、本当に大丈夫なのか?」
「あぁ……気にすることはない。あの部屋でなら、まぁ、ああいう言葉を口走ることもあるんだろう」
「あの部屋……蕎麦屋でいったいなにを……」
 駆ける足はちっとも遅れることがないが、冨岡は、すっかり思案に沈んでしまったらしい。煉獄はもはや苦笑するよりない。経験のない煉獄でも、閨で女性が感極まってあげた声だということぐらいはわかる。だが冨岡にはまるっきり想像もつかないようだ。おそらくは、巷の人々が蕎麦屋の二階をどのように使用しているのかなど、一度として耳にしたこともないのだろう。
 十字路が前方に見えてきた。行き先が分かれる。一瞬だけ煉獄に視線を向け、そのまま走り去ろうとする冨岡に、足を止めた煉獄は声をかけた。
「冨岡! 一つだけ、約束してほしい。誰に誘われようと、一緒に蕎麦屋の二階には行かないでくれ」
「……わかった」
 やはり寸時足を止めた冨岡の顔は、もうすっかり元通りだ。いつもの鉄仮面の如き無表情。けれどもどことなし、その顔にはわけがわからないと書いてある気がする。
 なにを言われているのか理解できないまでも、煉獄がそう言うならと、了承してくれたのだろう。うれしいような、なんとはなし切ないような。少しばかり複雑な気分になりながらも、煉獄は、小さく苦笑するにとどめた。
「杏寿郎様! お早く!」
「あぁ、わかっている、要」
 浮かんだ苦笑をそのまま急かす鎹鴉に向け、煉獄は、気持ちを切り替えるように深く息を吐いた。
「では、行くか! 冨岡、終わったらまた一緒に飯を食おう!」
 冨岡の答えを聞くのはそれまでおあずけだ。残念至極ではあるが、あの反応ならば色好いとまでは言わぬまでも、煉獄のことを色恋の対象になりえるのだと理解してくれただろう。意識してくれたのなら儲けものと思わねば。
 駆け出そうとした煉獄の背から聞こえた声は、小さかった。
「俺も、同じだ……」
「え?」
 即座に振り返ったが、もう冨岡は走り出していた。揺れる黒髪からわずかに覗いた耳が、赤い。
 煉獄が呆けたのは一瞬だ。すぐに走り出し、ぐんぐんと速度を上げていく。己でも信じられないほど力がみなぎっていた。
「本当に……鬼という奴は度し難いな。人々の幸せを壊すだけでなく、冨岡の告白さえまともに聞かせてくれんとは」
 苦々しい言葉とは裏腹、煉獄の顔には、抑えきれぬ笑みがある。
 想いが通じた。それどころか、自分の心も煉獄と同じだと、冨岡は言うのだ。好き。好きなのだ。自分が冨岡のことを好いているだけでなく、冨岡もまた、自分を好いてくれている。
 走り出したからにはもう任務は始まっている。浮かれてはならない。そう心にいい聞かせても、勝手に鼓動は跳ね回ろうとする。笑みが抑えられない。
 恋の甘やかな喜びに浮き立つ煉獄の足は、常になく軽い。今ならば、百万の敵にだって負ける気がしない。
 往来の人々が呆気にとられるほど、疾風の速さで駆ける煉獄の頭上には、桜の花びらが舞う青空が広がっていた。
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 見るともなしに見つめていたアヤメに、彼の人への恋しさが募る。
 冨岡と逢う日は大概が、お館様の屋敷で行き合ったときだ。いつだって約束はしていない。鬼殺隊士となって以来、人と待ち合わせて会う約束というのはしなくなった。いつ何時、任務の報が入るかもわからず、約束しても果たされぬことのほうが多いのだ。だから冨岡とも、日にちを決めて逢うというのは難しい。
 柱同士で任に向かうこともなくはないが、そう多くはない上に、冨岡とはなかなか一緒になれずにいる。だから煉獄は、冨岡に一秒でも多く逢おうと、任務のあとで冨岡の担当地区近辺へと足を向けることが多くなった。逢える確率は高くはない。お館様の采配に異を唱える気は毛頭ないが、そろそろ共闘できればいいのだがと思わずにはいられなかった。
 出逢えたときにはともに食事をし、人気がなければ、ときどき手を繋ぐ。冨岡との逢瀬はそんな具合だ。抱きしめたことはまだ一度もない。
 告白が受け入れられたあの日以来、冨岡の笑顔が向けられるようになったかといえば、そんなこともなく。相変わらず無表情がすぎ、寡黙にすぎるありさまだ。けれど、好きだという文言を友情ととらえたわけではないのは明白なのだから、今のところはそれだけでよしとするしかない。恋人になれたのだと思っていいかとの問には、どこかオロオロと視線をさまよわせたあと、小さくうなずいてくれたのだから、変化は冨岡のなかでもそれなりにあるのだろう。
 具体的には、距離が一歩離れた。物理的に。
 あれ以来、冨岡は煉獄の隣を歩いていると、気がつけばスススッと一歩分離れることが増えたのだ。冨岡としては一歩どころか、もっと離れたいところなのかもしれないが、できうるかぎり近くにいたい煉獄にすれば、そんなことが許せるわけもない。初めて離れようとする冨岡に気づいたときに、とっさに手を握り問いただしたのは、当然のことだ。
 恋人などいたことがない。どんな顔をしたらいいのかわからない。そう遠回りに言った冨岡を、自分でもよく抱きしめてしまわなかったものだと思う。
 一緒にいるだけでも恥ずかしいのに、離れれば手を繋がれる。それを学習した冨岡が、煉獄から距離を取ろうとするのは、今のところ半半の確率になっている。
 煉獄は思わずクスリと笑った。
 と、そのときだ。思い描いていた彼の人の声が不意に聞こえた。
「煉獄」
 呼びかけに煉獄は即座に振り返ったが、最初は幻聴かと思った。瞳が映し出した冨岡の姿も、会いたい気持ちが募りすぎたゆえに、己の願望が見せた幻覚かと錯覚しそうになったぐらいだ。
 だが現状認識が素早くなければ柱など務まらない。現実の冨岡だと認識したのと破顔したのは、どちらが早かっただろう。いずれにせよ、思いがけなく出逢えた喜びの前ではどうでもいいことだった。
「冨岡! どうしたんだ? 君のほうから俺に逢いに来てくれるとはめずらしいな!」
「……任務の場所が、近かった」
「おぉ、それは僥倖! 鬼もたまには役に立つことがあるものだな!」
 煉獄が駆け寄るより早く、冨岡が足を踏み出すほうがわずかに早かった。本当にめずらしい。
 アヤメをさやかに揺らす風は爽やかで、日は明るく照っている。一歩分離れた距離に立ち止まった冨岡は、いつもと変わらず感情の読めぬ顔をしていた。
 さて、近づくか手を取るか。煉獄が選んだのはどちらでもなかった。
「煉獄?」
「貰ってくれ」
 鬼を狩るための刀でアヤメを刈り取るなど、刀鍛冶が聞いたら怒るだろうか。頭の片隅でチラリと思うが、軽んじているわけではないのだからかまわないだろうと決定づける。一閃した日輪刀で、すっぱりと切り落としたアヤメを手に、刀を鞘に収めつつ煉獄は静かに冨岡を見つめた。
 差し出したアヤメは、ほかのものより青みが深い。冨岡の瞳によく似た色合いだ。
 反射的にだろう、受け取ってくれたものの、冨岡は心持ち戸惑って見える。喜んでくれるとは思っていなかったが、なんだか落ち込んでさえいるように見えるのはどういうわけだろうか。
「すまん。花など渡されても迷惑だったか」
「違う」
 即答だった。安堵よりも歓喜に満たされた胸を弾ませて、煉獄の目が微笑みにたわむ。
「それは良かった! この花を見ていたら君を思い出してな。いずれアヤメかカキツバタと言うが……うん! やっぱりアヤメやカキツバタよりも、君の瞳のほうが美しいな!」
 花を、贈ってみたかった。
 日輪刀を握るその手に、花をたずさえた冨岡が、見てみたかった。きっと幼いころにはそうしていたように、きれいな花を手に笑う冨岡が。
 なのに、冨岡の顔にはやはり笑みはない。それどころか、パチリとまばたいたそのあとは、なぜだか瞳に焦りが見える。照れていつも以上にぶっきらぼうになるかとは思ったが、この反応は予想外だ。
 どことなし周章をにじませて、冨岡はなにかを思案しているように見える。眼球がせわしなく動いて彼が目まぐるしく考え事をしていることを伝えていた。冨岡という男は即断即決、状況判断の素早さは類を見ないと、初めて同じ任にあたった折に感心したものだが……。
 こんなにも迷っているように見えるのはめずらしい。花など渡したのは失敗だったかと、煉獄がちょっとばかり切なく謝罪を口にしようとしたその瞬間に、冨岡の顔がキッと煉獄を真っ向から見据えてきた。
「飯に行こう」
「は?」
「もう、食べてしまったか?」
「いや、まだだが」
 なら行こうと冨岡の左手が伸びて、自分の手を取るのを、煉獄はわずかに呆然として見つめた。
 冨岡は煉獄の答えを聞く前にさっさと歩きだしている。煉獄の手を握ったままでだ。
 手を繋ぐのはいつだって煉獄からで、冨岡が自ら煉獄に触れてきたことはない。食事の誘いも、いつも煉獄が誘い、冨岡がうなずく、それが二人の常だ。恋を自覚する前から、片恋を経て恋仲に至った今日まで、一度として冨岡の方からなにかに誘ってくれたことなどなかった。
 それなのに、これはどうしたことだろう。
 うれしげに見えるのならば、やっと冨岡も触れ合うことに慣れてくれたのだと、喜びもしよう。だが冨岡は、まるで任務に向かうかのような無表情のままだ。いや、それどころか、任務よりもなお、どこか鬼気迫るものを感じる。
 問う言葉をかけても、冨岡は短く急かすだけで、答えをくれない。声音にもなんとはなし焦りが感じられた。
 なにがなにやらわからないが、それでも、冨岡の右手にはアヤメが一輪握られたままだ。いらぬものなら打ち捨ててくれてもかまわないのだがと、悲しさを押し殺して煉獄が言えば、「嫌だ!」とそのときばかりは振り返り、キッパリ言い切りもした。
 しまいには煉獄ももう、口をつぐむよりなかった。ほんの一、二分ではあるけれど。
 なんともなれば、煉獄はもちろんのこと、冨岡も歩みは早い。足早にともなれば、市井の人が走るよりも、よっぽど早いぐらいだ。人気のない草原から人通りのある往来までの道行きは、そう長くはかからなかった。
 そうして着いたのは一軒の蕎麦屋だ。
「なんだ、そばが食いたかったのか?」
 この店を特別目指したわけではないだろう。往来を行く間、冨岡の目はせわしなく周辺の店構えを確認していた。
 いきなりだったのは驚いたが、飯に行こうとの誘いは空腹だったからだと考えれば、一応の筋は通る。不興を買ったわけではないなら安堵もしよう。けれども視線をやった冨岡の横顔は、なんだか悲壮なまでの覚悟が見える気がした。
 覚悟? そばを食うのに? なんともちぐはぐで、煉獄の疑問は募るばかりだ。
 うん、と一つうなずいた冨岡の顔は、やはりどこか険しい。まさか任務なのだろうか。鬼の気配はまるでないし、今は昼も近づいた時刻だが、油断はならない。思い気を引き締めたとたんに、煉獄の冷静さにヒビを入れる一言が聞こえた。
「破ってない」
「ん?」
 煉獄の手握る冨岡の左手に、痛いほどの力が込められた。彼の緊張が伝わってくるようだ。だが、緊張するようなことなのか? だってそば屋だ。やはりこれは任務なのだろうか。けれども、破ってないの一言が解せない。いったいどういう意味だろう。
 答えはいらっしゃいませとかけられた声と同時に、消え入るような声で返ってきた。
「これは、俺が誘った。だから約束は破っていない」
 約束の一言で、即座に煉獄の脳裏に蘇ったのは、冨岡と恋仲となれたあの日、己が口にした言葉だ。
「店主、二階にたぬきそば二つ」
「へい、毎度」
 店に客はいなかった。昼時も近いのに、あまり繁盛していないのだろう。人目がなくて幸いだと思う端から、冨岡はそば屋の二階へ行く意味などわかっていないのだとの思いもわく。
「冨岡」
「……やっぱり、約束を破ったことになるか?」
 先に階段を登る冨岡の手が、離れる素振りを見せた。させじと煉獄はその手を握り返す。冨岡が振り返った。白く秀麗なその顔は、先までの固さはそのままに、どこか頑是ない子供のようでもある。
「いや、大丈夫だ! 君からの誘いだ。うれしいに決まっている!」
 笑いかけてやると、冨岡の肩からわずかに力が抜けたようだ。
 きっと冨岡は、贈り物をされたのだからお返しをとでも考えたのだろう。他人行儀なと思わなくもないが、冨岡の生真面目さは微笑ましくも好ましい。
 それに、他意などないのだ、冨岡には。そば屋の二階へいざなう意味など、きっとわかっていない。
 並んで歩くだけで恥ずかしがり、手を繋げば少しうつむく冨岡が、自分から手を繋いでくれた。それだけでも滅多にない僥倖だ。
 目の前の背中を見つめ、煉獄は自身に言い聞かせる。場所が場所だけに、鼓動は勝手に騒ぎ出すが、勘違いしてはならない。欲はまだきっと己の身のうちだけのものだ。それが証拠に、冨岡はふたり分の注文もしている。飯を食おうという言に他意はなく、そのままの意味に違いない。
 冨岡とてれっきとした成人男性ではあるが、色恋については尋常小学校に通う子供よりも純情に見えた。男同士の交合についてなど、一度として考えたこともないに違いない。
 なんだか切なくなってくるが、これ幸いと強引に事を進める気にはなれなかった。無理強いしたいわけではないのだ。冨岡自身にも望んでほしい。冨岡にも以前そう伝えた。
 逢えないと思っていたのに、冨岡の方から逢いにきてくれた。ようやく花を贈れた。冨岡から手を繋いでくれてもいる。充分じゃないか。亀の歩みより遅い恋の進展が、また一歩前へ進んだのだから。
 思っていれば、二階へ上がった冨岡は、ためらいなく部屋へと入っていく。手を引かれている煉獄もあとに続いた。部屋は以前行った店よりも狭かった。窓の汚れは大差ない。二階にも客は入っていないようだ。
 部屋には大きくもない卓が一つ。六畳もない狭い部屋だが半間の押し入れがあった。おそらくは、布団がしまわれているのだろう。ここがどういう場所なのか、改めて思い知らされるようで、知らず煉獄の喉がゴクリと鳴った。
 繋がれていた手が離れた。自由になった手は、なんだか妙に心もとない。煉獄はぐっと拳を握りしめた。まだ、手のひらには冨岡の温もりが残っている。
 卓の向こう側に座した冨岡が、刀を傍らに置いた。片手にはまだアヤメが一輪、握られたままだ。煉獄も冨岡に倣い腰を下ろすと、刀を外す。腰を落ち着けたものの、心は落ち着かぬままだった。
 冨岡は口を開かない。積極性はここまでのようだ。煉獄は思わず苦笑した。このまま黙りこくってそばをすすりおしまいでは、あまりにも味気ない。
 ともあれ、逢いにきてくれたことに礼を言い、自分がどれほどうれしかったを伝えておこうか。だが、開きかけた煉獄の口は、襖の向こうで聞こえた声で閉ざされた。
「ご注文の品をお持ちしました。置いておきますんで、ごゆっくり」
 どうにもうまくいかないなと、また煉獄の顔には苦笑が浮かぶ。
 店主の声は陽気さからほど遠かった。客の入りが少ないのは、立地があまり良くないせいばかりではないのかもしれない。
 期待薄ではあるが、ともかく食事を先に済ませるしかないか。立ち上がった煉獄に、冨岡はやはり黙りこくったままだ。
 なんだかいつもと違う展開が続いて、我知らず期待がふくらみすぎていたのは否めない。けれども普段と異なる状況もここまでだろう。冨岡の意外性は今に始まったことではないが、今日のはちょっと面食らったと笑ってやれば、きっといつもと変わりない空気が戻ってくる。それを煉獄は疑わなかった。
 襖の影に置かれていた丼を手に、卓へと戻れば、冨岡の視線がちらりと煉獄に向けられた。
 最近流行りのたぬきそばは、以前冨岡と行った店と同じく揚げ玉が浮いている。だが、やけにつゆの色が濃い。おまけに、天かすの油切れが悪かったのだろうか、ずいぶんと油も浮いている。具は先の店より少ないくらいなのに、なんともはや。胃もたれしそうにさえ見える。
 思いがけない幸運続きではあったけれど、そばはどうやら外れのようだ。煉獄の苦笑が深まった。
「のびる前に食べてしまおう!」
「……煉獄」
 箸を手にしていった煉獄に、冨岡が呼びかけた。まだアヤメを手にしたままだ。静かな声は、どことなし緊張しているように聞こえた。
「うん? どうしたんだ、冨岡」
「その……誕生日、おめでとう」
 パチリと煉獄の目がまばたく。
「誕生日? あぁ、そういえば、今日は俺の誕生日か」
 暦などあまり意識したことがないから、すっかり忘れていたが、たしかに今日は煉獄が生まれた日だ。十年ほど前に年齢計算に関する法が発布施行されてから、満年齢で自分の歳を認識するようにはなったが、生まれた日というのは意識したことがない。市井の人々も、いまだ数え年を口にする。鬼殺隊では、育手のもとにいる子供たちなど、数え年では体格に差が出るということで以前から満年齢が使用されてはいる。だがそれも、隊士自身にはあまり意識されることのない習慣だ。
 自分が世に生まれた日というのは、それなりに大事ではあるのだろうけれども、七つの節句をすぎればさして祝うほどのことでもない。煉獄だって誕生日などとくに祝うことはなかった。
 いや、ずっと幼いころ、それこそまだ襁褓を着けていたころならば、祝ってもらいもしたのだろう。千寿郎だって五歳の節句までは、赤飯を炊いた。
「そうか! 誕生日を祝うために君はきてくれたのか!」
 それならば、アヤメを手渡されたときの周章も、なんとなく理解できる。祝いにきたはずが、逆に贈り物などもらってしまったのだ。動かない表情のなかでは、ずいぶんと泡を食っていたことだろう。思えばなんとも楽しくなって、冨岡の気持ちもうれしく、煉獄は満面の笑みを浮かべた。
「……誕生日を祝うなど、お大尽か子供のようだと言われそうだが……俺の家では、毎年、誕生日を祝っていたから」
「そうなのか! そういえば、異国では誕生日を祝うと聞いたことがある。君のご家族は先進的だったのだな!」
 冨岡のご尊父は、ドイツに留学経験がある医師だったと聞いたことがある。洋風な習慣に幼い冨岡は馴染んでいたのだろう。また一つ知った冨岡のことに、煉獄の笑みは深まるばかりだ。だが、疑問がないわけではない。
「なぜ、俺の誕生日のことを知っていたんだ?」
 自分でも意識したことがないのだ。冨岡にそんなことを伝えた覚えはない。答えはいつもながら思いがけない言葉で返ってきた。
「昨日は、風が強かったから」
「うん?」
 さて。今回はどう話がつながるのだろう。思っていれば、手にしたアヤメに眼差しを落とした冨岡は、不意にグッと顔つきを引き締め腰を浮かせた。
 どうしたと問うより早く、怒ってでもいるのかと聞きたいほどに真剣な顔が近づいて。
 チュッと、なんだかやけに可愛らしい音とともに、煉獄の頬に触れて離れていったそれは。
 温かかった。いや、冷えていたか? なんだかよくわからない。状況判断どころか、自分の感覚すらおぼつかないなんて、こんなことは初めてだ。混乱している。柱としてあってはならぬことだというのに。
 柔らかかった。それだけが、ハッキリと自分の頬に感触として残っている。熱い。なにかが触れた頬が、ただやたらと熱くて。熱はまたたく間に広がって、顔は火のつくように真っ赤に染まっているだろう。
 呆然と目を見開き見つめる先で、冨岡の顔は対照的に白い。けれど、目元が。涼やかな目元だけが、やけに赤くて。小ぶりな形の良い唇は、キュッと閉じられていた。いつもよりも、少し赤みが強く感じられる、その唇。冨岡の。
「すまない」
 赤い唇がそんな言葉をつづったのが、熱い頬よりも信じられなかった。
 なぜ詫びる。先までとは違う意味合いで、煉獄の脳がカッと燃えた。
「謝罪される意味がわからない、冨岡」
「勝手にカルテを見てしまった」
 うん?
 冨岡は、なにを言い出したのだろう。寸時言葉が見つけられず、煉獄は黙り込んだ。沈黙を責めと受け取ったのだろう。冨岡は悄然と肩を落としている。
「……カルテ?」
 唐突なその一言がどこからくるのかがわからず、ポツリと繰り返せば、冨岡の首がわずかにすくめられた。
「傷薬を補充しに、超屋敷へ行った。そうしたら、風が強かったから胡蝶が整理していたカルテが部屋中に舞って……おまえのカルテが、目に入ってしまった」
 風。頭のなかで煉獄は繰り返す。そうか、これは先の言葉の続きだったのか。煉獄の誕生日をなぜ知っているのかという話だ。なんで途中にあんな愛らしい接吻が挟まれたのかは、さっぱりわからないけれど。
「誕生日だと知ったから、その、俺に祝われても迷惑かもしれないが、どうしてもありがとうと伝えたくて」
「迷惑などであるものか!」
 冨岡の言葉をさえぎり怒鳴った煉獄に、冨岡の肩が跳ねた。丸く見開かれた目はどこか幼くて愛らしいが、迷惑という言葉は二度と聞きたくはない。
 小さな卓を押しやり、煉獄は冨岡へと膝を進めた。パシャリと水音がして、汁がこぼれたのには気づいたが、そんなことはどうでもいい。
 アヤメを握ったままの冨岡の手を、強く包み込む。まっすぐに見つめる眼差しを、冨岡も見つめ返してくれた。瑠璃の瞳に映る自分の顔は、少し怒っているように見えて、煉獄は穏やかな声でと念じながら口を開いた。
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07:10
オバ
誤字脱字等があれば、そちらも教えてくださるとありがたいです💦
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流れ星
初公開日: 2021年10月12日
最終更新日: 2021年10月17日
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コメント
以前書いた『竜胆』という話の続編で、原作軸の煉義です。
告白からお初までのお話になる予定。お初部分はログインしないと閲覧できませんので、とりあえずその前段階辺りまで、こちらで執筆してみますです。
タイトル決まらないので、どなたか案をください……。
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オバ
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