閉ざされたふすまの向こうから聞こえた、どうぞとの幼い声に、不死川はほのかに頬をゆるめた。
 声はずいぶんと明るい。自分の背後にはべる双子たちも、出迎えてくれたときからずっと、ニコニコとうれしげに笑っていた。それが不死川には途方もなくうれしい。市井の子供と変わらぬ声や表情は、不死川の胸に安堵をもたらすものだった。
 誰よりも深く敬愛していた方のご子息、ご息女であるだけではなく、不死川は輝利哉たちを敬い慕っている。同時に、愛おしく慈しむべき、幼子でもある。彼らは身寄りをすべて失った不死川にとって、特別な存在だった。
 あの過酷で凄惨な夜を、堂々と隊士たちを総てみせ、ともに乗り越えた子供たちだ。年齢や小さな体など、なにも問題はなかった。お館様と呼ぶにふさわしい、昂然たる戦いぶりだったと不死川だけでなく、誰もが認めている。
 だから不死川の胸に生まれた尊敬と思慕は、先代へのものとくらべなんの遜色もない。どれだけ年が離れた幼子だろうと、輝利哉たちへとこうべを垂れることに、いささかの躊躇もなかった。
 しかしながら、同時に幾ばくかの哀愁と憂慮もまた、不死川の胸からは消えない。
「失礼いたします」
 傍らに座した男がふすまを開いた。穏やかな秋の日差しが差す座敷には、輝利哉と、不死川が毛嫌いしていた男が座っていた。
 過去形だ。今ではもう、厭う気持ちはない。けれども素直に交友を深めるには、少しばかりバツが悪かった。
 決戦の夜からもうじき二年。やわらかく笑う男――義勇の顔に、不死川は、もはや慣れ親しんだささやかな居心地の悪さを感じる。以前にははた目にも露骨にわかるほど、義勇に喧嘩腰で接してきたのだ。為人ひととなりを知った今でも、それなら仲良くしましょうと手のひらを返すなど、不死川にしてみれば、少々気が進まない。
 それでも、義勇が炭治郎を伴侶に迎えともに暮らす前までは、顔を合わせることはままあった。食事をともにしたり、ときに一緒に墓参りへ行ったりと、それなりに交流を深めてきたのだ。だがそれも、とんとご無沙汰である。男同士とはいえ、新婚家庭には違いない。おじゃま虫になるなどごめんだと、水屋敷へ足を向けることは稀になっていた。
 前回、義勇の顔を見たのは、炭治郎の懐妊という突拍子もない報告の際だった。あの日もあんぐりと開けた口がふさがらなかったが、今日もまた、不死川はそれに気づいたとたんにポカンと口を開けた。
「ちょうどいいときにきたね。実弥。槇寿郎。知らせをやろうとしていたところだったんだよ」
 朗らかな輝利哉の声には、わずかながらにいたずらっ子のような稚気がにじんでいる。どこか弾んだ声に、ではこの事態を輝利哉は理解し納得済みということかと、不死川は瞬時に判断した。とはいえ、己が飲み込めるかといえば、そのかぎりではない。当惑は槇寿郎も同様のようだ。
「お館様……いや、その、冨岡。その腹はどうした」
 不死川の疑問は、槇寿郎が口にしてくれた。もう見慣れて久しい書生姿の義勇の腹は、ふっくらとふくらんでいる。まるで炭治郎と腹の中身をそっくり入れ替えたかのように。
 炭治郎の腹が、逢うたび大きく丸くなっていると、宇髄や輝利哉からも聞き及んでいる。男性の妊娠などというとんでもない出来事も、実際に腹がふくらみ赤子の鼓動がしていると医師である栗花落も太鼓判を押しているのだ。疑う余地はない。だが義勇ははらませた側であって、義勇の腹に子がいるなど誰も言ってはいなかったはずだ。
 背後からクスクスと忍び笑う声がした。ちらりと振り返り見れば、双子がいかにも楽しげに肩を震わせている。視線を戻せば、輝利哉もまた、晴れやかさに心なしかの茶目っ気をこめた笑みを浮かべていた。
「義勇と炭治郎の子が産まれたよ」
「えっ!?」
 仰天したのは、声を発した槇寿郎だけではない。不死川だって驚愕に目を丸くした。
 絶句したふたりにクスリと笑った輝利哉は、ハタとまばたき、義勇に向かって小首をかしげている。
「でも、これは誕生と言っていいのかな。孵ったときが誕生日になるのかい?」
「そうですね。まだ顔も見られぬ状況ですから」
 交わす言葉の意味は、理解の範疇を超えている。いったいなにがどうなっているのかと、思わず槇寿郎と顔を見合わせると、輝利哉がみなを手招きした。
「そんなところに座っていないで、こちらにきておくれ。くいな、かなた、義勇と炭治郎の卵、なでたいんだろう?」
 卵? と思う間もなく、双子が喜び勇んで立ち上がり、小走りに義勇の元へと寄っていく。
「本当によろしいんですか?」
「どうぞ。輝利哉さまにもなでていただきました」
「……やわらかい。え、卵なんですよねっ? 少し光ってる……? きれいですねっ」
「しっとりと吸い付くようです。それにほんのり温かくって、気持ちいいですっ」
 単をはだけた義勇の腹に見える、あれはなんだ。くいなとかなたが、おそるおそる触れている、あれは。
「卵……産まれたのは、卵、なのですか」
 槇寿郎にも、あれは間違いなく卵に見えているのか。自分が幻覚を見ているわけではないと。
 なんだか目眩めまいがしそうだ。炭治郎に子ができたと知ったときにも、十二分に常識はずれな奴らだと呆れたものだが、卵ときたか。知らず不死川は天を仰ぎ、小さくうなった。
 いっそ現実逃避したいぐらいだが、事実、双子は心地よいらしい手触りにキャッキャと喜んでいるし、輝利哉も義勇の顔も、幸せそうにほころんでいる。なによりも、不死川の目にもハッキリと、義勇の腹にある卵は見えている。
「いや、なんというか……めでたい、と、言っていいのですかな」
 槇寿郎の困惑は当然だろう。奥方を亡くして以来、だんだんと自堕落になり酒に溺れた御仁ではあるが、それ以前の槇寿郎は威風堂々たる炎柱だったと聞く。面倒見もよく真面目で、後人こうじんの育成にも余念がなかったらしい。それは不死川もよく知る炎柱、煉獄杏寿郎の為人とよく似ていた。
 実際、杏寿郎の死後、ようやく立ち直る気概を見せて以降の槇寿郎は、年長者らしく輝利哉を助け、生き残った者たちをよくまとめていた。古株の隠などは、昔の煉獄さまが戻っていらしたと、男泣きに泣いていたと小耳に挟んだこともある。
 ともあれ、生真面目で常識人である槇寿郎にしてみれば、男の懐妊だけにとどまらず、産まれたのが卵などという事実は、そうそう諒解もできかねるに違いない。さもありなんと、不死川はこぼれそうになったため息を無理やり飲みこんだ。
「もちろんだよ。ね、義勇」
「はい」
 ご機嫌麗しい輝利哉の笑みにうなずき返した義勇が、やわらかな眼差しを不死川たちに投げかけてくる。
「不死川、煉獄殿、どうかこの子たちをなでてやってください。ふたりのように強く、困難や苦悩のなかでも、己の足でしっかと立っていられる子になるように」
 傍らで、槇寿郎がわずかに息を飲んだのがわかった。義勇の瞳はどこまでも穏やかで、皮肉の色などみじんも見つけられない。過去の不徳ではなく、今の槇寿郎をこそ、義勇は見ているのだろう。
「……俺が、触れてしまってもよいのだろうか」
「無論。あなたは、俺が尊敬する柱のひとりです。煉獄と……ご子息と、同じように」
 グッと口を引き結び、眉間にシワを寄せ目を閉じた槇寿郎は、涙をこらえているように見えた。その姿に、フッと不死川の肩から力が抜ける。
「行きましょう」
 ポンと槇寿郎の背を叩きうながせば、槇寿郎は一度目頭を押さえ、やがて薄く笑ってうなずいた。
 そろって一礼し、座敷へと足を踏み入れる。少し名残惜しげに卵から手を離した双子が、スッと場を開け、不死川は槇寿郎とともに腰を下ろした。
 はだけられた着物のふところに収められた球体は、ほの青白い燐光を放っているように見える。戸惑いがちに伸ばされた槇寿郎の手は、かすかに震えていた。じっと見守る先で、指先が卵に触れたとたん、槇寿郎の目が見開いた。
「なるほど。たしかに、くいなさまたちのおっしゃるとおりの手触りですな」
 くいなたちとは異なり、槇寿郎の顔は真剣そのものだ。不測の事態に際した鬼狩りの顔つきをしている。愛でるというよりも検分というほうがふさわしい触り方だ。
 不死川は思わず苦笑した。たとえ数年堕落した生活を送ろうと、生き残った隊士のなかで槇寿郎は誰よりも長く鬼狩りとして生きてきたのだ。積年の習性は、なかなか抜けぬものと見える。難儀なことだ。
 苦笑う気配に気づいたのだろう。槇寿郎は、大きな目をひとつまばたかせると、みなの顔を見回し、どこか面映そうに自身も苦笑をもらした。
「すまん。つい、不躾なことをしてしまった」
「いえ。不思議なことに変わりはありませんから。ご存分に触れてやってください。この子らも喜んでいることでしょう」
 詫びる槇寿郎に、義勇の口調にはとがめるひびきはない。
 ふと気づいたそれに、不死川はわずかに眉を寄せた。
「おい、この子らってなぁどういうこった」
 義勇が抱える卵はひとつきりだ。だが、先ほどから義勇が口にしている文言からすると、子供はひとりではないとしか受け取れない。
「双子なんですよね?」
「私たちと同じですね」
 くいなとかなたが声を弾ませ言う。
「はぁ? 双子ォ!?」
 我知らずすっとんきょうな声が出た。本当に、驚かされることばかりだ。
「うん。我妻がそう言っていた」
「あぁ、あのひよこ頭か」
 それならば、このなかにある命がふたつなのは、確かなことなのだろう。やたらと泣き言ばかり抜かしてやかましいガキだと、見かけるたびに苛つかされることは多いが、善逸の耳は信じられる。なにしろ、下手すりゃ俺より耳がいいとの宇髄のお墨付きだ。
 納得してうなずいた不死川を、義勇の目がじっと見据えていた。
「……なんだよ」
「なでてくれないのか?」
 非難する声音ならば、反発もできた。けれども、義勇の声はどこか寂しげだ。言葉に詰まり、不死川は戸惑いをごまかすように、ガシガシと己の髪をかき乱した。
「なでりゃあいいんだろ、なでりゃあ!」
「うん。なでてやってくれ。不死川の気丈さや頑健さにあやかれるように」
 おべんちゃらでもなさそうな声と笑みは、本当に調子が狂う。そもそもこの男は、ごますりやお愛想などとは無縁だろうけれども。
 言葉は乱暴になったが、卵に触れる不死川の手つきは、槇寿郎や双子たちと大差なく、どこかおっかなびっくりとしていただろう。そろりと触れた卵の殻は、たしかにやんわりとして、卵というよりもか弱い小動物にでも触れているかのようだ。
 大玉のスイカほどの大きさの卵は、大の男ふたり分の手でも少々余る。そろそろと、不死川は手を動かした。手のひらに伝わる温もりはやさしく、じんわりと己の胸のなかまで温もるようだ。
 知らず目頭が熱くなり、不死川はグッと息を詰め涙をこらえた。やわくなでる手が、自分でも信じられぬほどにやさしく動く。昔、愛しくてならなかった家族に、そうしていたように。
 奇想天外な展開ではある。到底まともじゃない。けれども、これは……この子たちは、間違いなく命であり、これから先、みなの思いを受け止めさらに先へとつないでいくのだ。義勇と炭治郎だけでなく、輝利哉たちや槇寿郎、我妻たち、生き残ったみなの思いを託された、次代の子供。鬼殺隊は解散して久しく、血みどろになって必死に戦った日々の記憶は、市井の者にはかけらも伝えられることなく、やがて薄れて消えていく。
 それでいいと、思う気持ちはある。そうであれとも。だけれどもそこには、隠しようのない寂寥もあった。
 骨すら残らなかった弟を、不死川は思い浮かべる。不死川玄弥という少年が生きた軌跡は、いずれ誰も知らぬものとなるだろう。自分の命の期限は、刻一刻と迫っている。自分の死後、生き残った隊士たちがみな死に絶えたそのころには、誰ひとり玄弥のことなど覚えていないのでは、やるせなさすぎて泣きたくなった。
 この子たちが卵から孵るのがいつになるのか、不死川にはわからない。卵というだけでも異常な事態なのだ。なにが起ころうと驚くには値しないだろう。
 もしかしたら、自分が……父である義勇さえもが亡くなったあとに、ようやくこの子らは世に顔を見せるのかもしれないのだ。
 それでもきっと、炭治郎や輝利哉たちが、伝えていってくれるだろう。義勇や自分、玄弥たち殉職した者たちの記憶も、きっと。重荷を背負わせるつもりはない。もうそんなものを次代の子らが背負う必要はなかった。けれど、覚えていてほしいのだ。少しでも。繋ぎ、未来へと託しつづけてほしいと、願ってしまう。必死に生き、戦ってきた者たちの、切なる願いと意志を、いつまでも。
「……元気に、産まれてこいやァ。みんな、待ってるからよ」
 声は自然とやさしくなった。自分でも気恥ずかしいぐらいに。
「うん。不死川たちになでてもらったんだ。きっと元気な子になる。……元気すぎる子になるかもしれないが」
 義勇の顔はゆるみきっている。しかし、先とは違ってほんの少し苦笑まじりだ。
「まぁ、アレの血を引いてんなら、そうかもなァ。だが、いくらなんでも猪頭のガキよりはマシだろうよ」
 いつも笑顔でキビキビと動き回っていた炭治郎の姿と、その友人である伊之助の言動を思い浮かべ、なにげなく不死川は言った。元気なのは悪いことじゃないが、実際自分の子が伊之助のようであったなら、かなり手を焼きそうだ。苦笑いにもなるだろう。
 とはいえ、気に病むほどのことでもない。親ともなれば、ささいなことでも悩みのタネになるのだろうなと思いつつ言っただけだが、義勇の反応はどこか煮え切らない。
 空笑いしてスンッと虚無感をたたえた顔は、以前にはたまに目にしたが、幸せいっぱいであろうこの場には少々不似合いだ。
「まだ卵から孵ってもいないんだ。今から心配してもしかたなかろう。考えてみればしばらくは静かなものなんだしな。普通のお産よりも手はかからないかもしれんぞ」
 ふたりの子を育てた親でもある槇寿郎の言葉にも、義勇は困ったように眉を下げていた。
「いえ……おとなしくしていてくれるかは、ちょっと……わかりません」
「はぁ? 卵だろうがァ。夜泣きするわけでもねぇんだ、手がかかる理由がわからねぇ」
 不死川の言葉に、輝利哉たちもキョトンとしてうなずいている。そんなみなを見まわして、義勇が小さなため息をこぼした。
「卵だが……暴れる可能性は、高いと思う。なにしろ生まれ落ちた瞬間に、部屋中を跳ね回ってつかまえるのに難儀した」
「は……?」
 呆然としたのは不死川ばかりではない。槇寿郎も呆気にとられ絶句しているし、輝利哉たちの目も丸くなっていた。
「は、跳ねるのですか?」
「鞠みたいにですか?」
「……おい、そりゃあさすがに嘘だろ」
 目を白黒させている双子はともかく、不死川の言葉には少しばかり機嫌をそこねたのだろう。義勇の顔が見慣れた無愛想さをたたえた。
「嘘じゃない」
「うん、まぁ、冨岡はそういうくだらん戯言を口にする性格ではないな」
 無精髭の目立つ顎先をさすりながら、槇寿郎がしかつめらしく言ったのに、義勇がわずかに目元をやわらげた。そのときである。
 義勇の衣服のなかに収まっていた卵が、ゆらりと揺れた。
「え……?」
「う、動きました……よね、今」
「はい。誰も触れてないのに、ゆらゆらぁと」
「嘘だと思われて気を悪くしたのかな」
 輝利哉の言葉が終わるやいなや、卵がいきなりポンっと義勇の膝から飛び上がった。
「うわっ!」
「は、跳ねた!?」
 とっさに不死川と槇寿郎が腰に手をやったのは、慣れきった習慣だ。だがふたりの腰にはもう刀はない。当然、もし今も帯刀していたところで、斬りかかるわけにもいかないが。
「ま、待て! 誰もおまえたちが嘘つきだなんて言ってない!」
 あわてて立ち上がった義勇が手を差し伸べると、ポンポンと壁を跳ね回っていた卵は、ストンとその手のなかに落ちてきた。
 しばしマジマジと言葉もなく卵を見つめた一同は、卵がもう動く気配がないことを認めると、そろって深い安堵のため息をついた。義勇も脱力しきった様子で、それでもしっかり卵を抱きかかえ、へたり込むように腰を下ろした。
「こりゃあ、たしかに手を焼きそうだなァ。おい、とんでもねぇとこに跳ねてっちまわねぇように、しっかり抱いとけよ?」
「これはまた、目が離せんな」
 不死川と槇寿郎の声にも疲れが滲む。と、唐突に輝利哉が小さく吹き出した。
「本当に、元気すぎる子になりそうだね」
 アハハと笑いながら言う輝利哉に、くいなとかなたも見合わせた顔をほころばせた。
「はい。とってもおてんばになりそうです」
「あら。女の子かどうかはまだわかりません。やんちゃな男の子かも」
「どっちでもいいよ。無事に産まれてきてくれるなら」
 そうだよねと言うように、輝利哉が笑いかけた先で、義勇もまた幸せそうに笑んでいる。
 破天荒な生まれにふさわしい、元気がありあまった子でもいいのだ。むしろそのほうがしっくりくる気はしないでもない。
 だから不死川も、槇寿郎と視線を交わしてわずかに苦笑した。
「あぁ、そうだ。おめでたい話はまだあるんだよ。天元のところも、今日明日には須磨の子が産まれそうなんだ」
「おぉ! それはめでたいことが続くものですな」
 破顔した槇寿郎にうれしげにうなずいて、輝利哉が卵に顔を寄せる。
「卵から出たら、天元のところのお兄ちゃんだかお姉ちゃんが、きっと遊んでくれるよ。僕たちともいっぱい遊んでおくれ。もう、怖い夜はこないから……安心して産まれておいで」
 一瞬の沈黙は、けれども、どこかやさしかった。
 不死川の脳裏で、玄弥が笑っている。隊士たちの墓地に、玄弥の墓もある。けれど、そのなかは空っぽだ。玄弥は塵となって消えたから、骨すらこの世には残されていない。
 それでも。玄弥が、煉獄が、胡蝶や悲鳴嶼、伊黒と甘露寺が、多くの隊士が命を捧げて掴み取った平穏は、こうして新たな命を育み、繋がっていく。
 怖い夜は、もうこない。
 だから笑って大きく育てばいい。思い見つめる先で卵は、ほのかに光っておとなしく義勇の腕のなかにいる。
 数え切れないほどの人々の大望をかなえ、ようやく掴んだ平和な日々のなかでも、不死川の心にポカリと空いた穴は、ふさがってはいない。今もときおり守れなかった悔しさと後悔に、血がにじむような狂おしさをいだくこともある。だが、その空白もいつか、こんな幸せな瞬間が少しずつ埋めていってくれるのだろう。かすかな痛みを残して。
 ふと視線を移した庭で、今日も藤の花が揺れている。季節を問わず咲く藤の花は、昨年よりも花づきが悪くなった。藤の花も、役目を終えたと思っているのだろうか。いつの日にか、季節に応じた姿を見せるのみになるのかもしれない。
 秋の爽やかな風が吹く。座敷へと吹き込んだ風は、不死川たちの髪をもやさしくゆらした。
 それは、今は亡き人たちのやさしい手に似ていた。
   ◇◇◇◇◇
 祝いの膳は炭治郎たちが戻ってからとして、知らせがいきわたればまた来客でにぎわい、のんびりするまもなくなるだろうからと、茶をふるまわれてしばしの歓談となった。驚愕が抜ければ不死川や槇寿郎も、常の落ち着きを取り戻し、しごく穏やかに近況報告などしていたら、輝利哉が切り出した。
「そうだ、義勇。寛三郎にも逢っていくだろう?」
「ぜひっ」
 輝利哉の言葉が終わらぬうちに、義勇は思わず身を乗り出した。年老いた相棒とは、最近はあまり逢えていない。決戦後、しばらくは義勇の元を離れず、ともに暮らしてくれていたが、炭治郎が水屋敷に移り住んで以降は、寛三郎は輝利哉のもとにいる。
 傷を負い、野山で暮らすのは難しくなった鎹鴉たちは、今では産屋敷家で暮らしている。産屋敷家からの伝令には、いまだに輝利哉たちに仕えている元隠たちがおこなうが、火急の要件には張り切って飛び回るのが常だ。人と暮らすことに慣れ親しんだ鴉たちにとっては、鳶や鷹などに襲われても逃げ切れるだけの速さは出せぬ今、日がなのんびりと過ごせる現状は、それなりに気に入っているようだ。
 ときどきは、自然へと帰っていった鴉たちも遊びにくるらしい。炭治郎の懐妊の報告にきた際には、鴉たちも大あわてで以前の仲間たちにも伝令を頼んだそうで、あの日は駆けつけた人々だけでなく、鴉も大挙して産屋敷家を訪れていた。
 寛三郎はといえば、もともとが高齢だったこともあり、最近ではうつらうつらと寝てばかりいるらしい。水屋敷にいたころは、炭治郎に手紙を届けるとたびたび義勇に告げ、だからはよ返事を書けと急かしてきたものだ。炭治郎の懐妊を知ったときには、ポロポロと涙を落とし、よかったのぅ、よかったのぅと、しきりに義勇に頭をこすりつけていた。
「寛三郎は元気でやっていますか」
 喜び勇んで聞けば、輝利哉は、少しばかり困ったように眉を下げた。
「とくに具合を悪くしたりはしていないよ。でも、もう年だから……」
「寛三郎さんは、近ごろとみに寝ていることが多くなりました」
「でも、食欲は落ちてはいませんから」
 輝利哉たちが口々に言うのに、義勇の眉もわずかにひそめられた。炭治郎はちっとも気にしないのだから、一緒にこのまま暮らそうと、義勇が説得しても寛三郎は爺がじゃまになってはいけないと、頑としてうなずいてはくれなかった。それでも仲間たちに囲まれ、好々爺然とのんきに暮らしていけるのならば、寛三郎にとってもいいのかもしれない。そう思ったからこそ、義勇もしぶしぶ了承したのだ。
「……この子たちが孵るまで、元気でいてくれるといいのですが」
「冨岡、不安は口にすればますますふくらむものだ。寛三郎もおまえの暗い顔など見たくはないだろう」
 たしなめる槇寿郎の声音はきびしい。けれども、義勇を見る眼差しはやさしかった。
「はい。親となっても未熟で申しわけありません。ご忠告痛み入ります」
 うんと表情をやわらげうなずく槇寿郎は、義勇がよく知る炎柱――杏寿郎によく似ている。思って義勇は、あぁ逆かと、少しおかしくなった。槇寿郎が杏寿郎に似ているのではなく、杏寿郎が父である槇寿郎に似ていたのだ。
 容姿はもちろんのこと、本来の槇寿郎は、快活で正義感にあふれた杏寿郎と同じく、昂然たる炎柱だった。義勇が柱に任ぜられた折に、一番最初に声をかけてくれたのも、ほかでもない槇寿郎だ。
 そのころにはもう、全盛期とくらべどこか鬱々とした空気をまとっていることが多かったそうだ。だがそれでも槇寿郎は、自分には柱となる資格などないのだからと、ほかの柱たちから一歩も二歩も下がっていることが多かった義勇に声をかけ、がんばれと激励してくれた。伊黒や甘露寺、時透が柱に任ぜられるたび、ともにがんばろうと笑いかけていた杏寿郎と同じように。
 なんとはなししんみりとしてしまっているうちに、席を立ったくいなが寛三郎を抱いて戻ってきた。
「義勇」
「寛三郎、元気にしていたか? 体の具合はどうだ、どこかつらいところはないか?」
 手を差し伸べれば、寛三郎はくいなの腕からパタパタと飛んでくる。義勇の腕にとまった寛三郎の重みは、以前にくらべればずいぶんと軽くなったように感じる。老いを悟らずにはいられぬその軽さに、義勇は、浮かび上がる悲嘆を飲みこんで、やさしく微笑んでみせた。
 義勇の笑みに応えるように、頬に頭をすり寄せた寛三郎が、突然調子っぱずれな声を上げた。
「ふぉぉっ! 卵じゃ、こりゃまた立派な……。義勇や、ようがんばったのぉ」
 偉い偉いと孫を褒める好々爺のごとくに、寛三郎はしょぼついた目をうるませて、しきりに義勇に身をすりつける。
「俺が産んだんじゃない」
 苦笑した義勇の顔が、続いた寛三郎の言葉に、ピシリと固まった。
「ほ? おぉ、そうじゃった。子作りしとったとき、炭坊が種をつけられとったのぉ」
「っ!? か、寛三郎、いつ見た?」
 面食らって問いただせば、寛三郎はコテンと首をかしげて、なんということもなさげにケロリと言い放った。
「炭坊が山に帰る前の夜じゃ。ようやく義勇が所帯を持つ気になったと、わしゃ喜んでおったのに、翌朝には嫁に逃げられるとは、思いもよらなんだぁ」
「逃げられてない! というか、その日は抱いてない! 初めて目合うのは、ちゃんと一緒に暮らせるようになってからと、ふたりで決めたんだ。だからあの夜は素ま…痛っ」
「テメェ、輝利哉さまたちの前でなに言い出す気だァ? あぁん?」
 突然こづかれ、義勇が鳩が豆鉄砲を食ったような目をして不死川を見れば、不死川はいかにも苦々しげに顔をしかめ、クイッと輝利哉たちをあご先で指し示した。輝利哉やくいなたちは無邪気な顔をキョトンとさせている。
 おそるおそる不死川に視線を戻せば、ギロリと睨む不死川と目があった。傍らで槇寿郎も、居心地悪げにそっぽを向いている。
「……とにかく、そういうことだから」
「よぉわからんが、あいわかった」
 きまり悪くうつむき気味に言った義勇に、寛三郎はあっけらかんとうなずいた。
 なにがわかったのやら。思わず虚空を見つめた義勇の瞳は、どうにも力ない。
 こんなやり取りも、ずいぶんと久しぶりな気がする。鬼狩りに東奔西走していたころは、寛三郎のトンチンカンな言葉に、たびたび困らされたものだった。突然、お館様がお呼びじゃとあらぬ方角へ飛んでいこうとしたり、義勇と炭治郎を間違えることもめずらしくはなかった。決戦の日にもやらかされたのは、少々……いや、だいぶ、あわてたけれども。
 それでも、鎹鴉を替えてくれと願ったことは、一度もない。寛三郎だからこそ、当時の自分でもうまく付き合えたのだと義勇は思っていた。その思いは今も変わらない。寛三郎を自分につけてくださった先代のお館様に、感謝もしていた。
 フフッと、軽やかな笑い声がした。見れば、くいなとかなたが小さく笑っている。
「寛三郎は、やはり冨岡さまといるときが、一番元気なようです」
「はい。とても楽しそうです」
 言われ、義勇はしみじみと寛三郎と目を合わせた。寛三郎はキョトリと義勇を見返し、小さく首をかしげている。この少々ボケている鴉との付き合いは、義勇が鬼狩りとして生きた長さと同義だ。まさか刀を置いてのちも、こんなふうにともに過ごせるなど、あのころには思いもしなかった。
 生きて平穏な日々を送る自分など、想像すらできなかったあのころ。いつも傍らにいてくれたのは、このやさしい老鴉だけだった。
 なにかに急き立てられるように、けれどできるだけ穏やかに聞こえるようにと祈りながら、義勇は言った。
「寛三郎、やはり一緒に暮らさないか?」
 鴉は長生きだというが、相棒になったそのときにはもう、寛三郎は老いて全盛期をとうに過ぎていた。義勇に対し隊士として接しつつも、どこか孫扱いをしてくる寛三郎は、義勇にとってはもはや家族同然である。勘三郎と自分のどちらが先に命数が尽きるのかはわからないが、残り短い余生ならば、いつそのときが訪れてもいいようにそばにいたい。
 だが、寛三郎はカラカラと陽気に笑って、以前と同じ言葉を繰り返した。
「義勇はもう所帯も持って一人前じゃ。爺がじゃまになる気はないわ」
「じゃまだなんて思ったことは一度もない」
 無意識に語気を強めた義勇に、寛三郎はなおも笑う。まだ艷やかな羽を広げ、義勇の頬をさわりとなでた。
「義勇はやさしいのぉ。義勇は本当にいい子じゃ」
 くすぐったい羽の感触に、泣きたくなるのはなぜだろう。
「炭坊もいい子じゃ。ふたりの子じゃもの。卵が孵れば、きっといい子が産まれるのぉ」
 幸せそうに、好々爺の笑い声で寛三郎は言う。
「どんな子でも大丈夫じゃ。義勇と炭坊の子じゃものなぁ。元気でやさしいいい子になるに決まっておる」
 少ししわがれたやわらかな声に、義勇の目がわずかに見開く。初めて思い至った。そうだ、きっと寛三郎も気がついていた。義勇がただの人ではないことを。
 あれだけともに過ごしたのだ。炭治郎に初めて龍の姿を見せた日にも、寛三郎は近くにいたのだ。炭治郎の鴉も。けれど、寛三郎はなにも言わなかった。人ではない義勇を、ただ慈しんでくれていた。
「……なにも、一緒に暮らすだけが家族じゃねぇだろうよ」
 ポツリと聞こえた声は、不死川のものか。そっと顔を向ければ、不死川は立てた膝に頬杖をつき、そっぽを向いていた。
 先ほどのしかめっ面の余韻が残る表情だが、声は穏やかだった。
「子守には行くぞ。わしはまだまだ元気じゃ」
 不死川の言を受けてというわけでもなかろうが、張り切った様子でパタパタと翼を動かしてみせる寛三郎に胸が詰まり、義勇は一度だけ苦しく目を閉じた。すぐに心によぎる不安を振り払い、やわらかく笑ってみせる。
「頼りにしている……寛三郎」
 小さな頭に頬を寄せ、そっと頬ずりすれば、スンッとかすかに鼻をすする音がした。視線だけで伺った先で、槇寿郎が目頭を押さえている。自分や息子の鎹鴉のことを思い出したのだろうか。いや、思い出したのは『家族』のことなのだろう。姿は見えず、声も聞こえなくとも、今も槇寿郎は亡くした家族を深く愛しているのだから。
 槇寿郎の様子に気づいた双子が、そっと槇寿郎の背に触れた。
「すみません、お見苦しいところをお見せした」
「見苦しくなどありません」
「思い出せるのは幸せなことです」
 くいなとかなたの幼い顔には、年に似合わぬ達観がある。家族を失い、それでも健気に生きているのはこの子たちも同じことだ。妹たちの言葉に、輝利哉も静かにうなずいていた。
「来月は、祥月命日だね。そのときは僕たちも一緒に墓参りしてもいいかい?」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。杏寿郎も喜びましょう」
 心なししんみりとした空気が流れる。誰の脳裏にも、快活で男らしい煉獄の笑顔とともに、亡くした家族の姿が浮かんでいるのだろう。沈黙はやさしかった。
 そんな静寂を破るように、にぎやかな声が聞こえてきた。ガラガラと大きな音もする。音はだんだんと近づいてくる。もっとも大きくひびくのは、盛大な泣き言だ。
「もう無理! 腕痛いぃぃっ! 疲れたよぉぉ」
「あ、あの、やっぱり代わりましょうか?」
「善逸さん、大丈夫? もうお庭に入ってるから、あとちょっとがんばって!」
「もうちょっとだし、俺が代わるよ。ほら、善逸、交代しよう」
「アホかっ! おまえに歩かせないように、俺がこんなもん引いてんだろうが! 俺が乗って炭治郎が引いてどうすんだよっ、冨岡さんに見られたら怒られるだろぉ!」
 なんとも騒がしい話し声に、座敷にいたみなの顔がゆるむ。その表情は一様に、心なし安堵がにじんで見えた。
「帰る早々やかましいなァ」
 あきれた不死川の声には、それでも苛立ちのひびきはない。短気で怒りっぽい男だと長年思ってきたけれど、戦いを終えてみれば、存外不死川は穏やかなものだった。とはいえ、義勇はいまだに叱られることが多い。その一方で、以前のように毛嫌いされている様子は、感じられなくなった。
 義勇に小言を言うときは、まるで手を焼く弟の世話でもしているかのような風情でもあるのが、うれしいような少々腑に落ちないような。義勇はそのたび、少し複雑な気分にもなる。
「みなさまお帰りになられたなら、祝いの膳をお持ちしましょうか」
「そうだね。きっと善逸はすごくお腹をすかせていると思うから、そうしてやっておくれ」
「はい。でも……あの音はなんなのでしょう」
 幼い兄妹たちの会話に、大人たちは無言のまま視線を見交わした。次の瞬間に思わず崩れた表情は、三人とも笑みではあるけれども、意味合いは三者三様だ。槇寿郎は愉快そうに失笑し、不死川はいかにも呆れ返った苦笑を浮かべている。義勇はといえば、少々気恥ずかしく、笑うよりほかないといった心持ちだ。
「大八車の車輪の音でしょう。今日は歩かせるわけにはいかないと言われたとやらで、布団を敷きつめた大八車に乗せられて、炭治郎が苦笑していましたから」
「下にも置かないおぃさん扱いだったなァ。いくらなんでも布団三段重ねはねぇだろ。ひよこ頭がベソかきながら引いてやがったぜ」
 たいそう楽しげに言う槇寿郎にくらべ、不死川の言は呆れ返ったと言わんばかりだ。だが声音には意外にも皮肉のひびきがない。
「まぁ。馬車のようですね。このあいだ読んだ本でも、お姫さまが馬車に乗っていました」
「灰かぶり姫ですね。かぼちゃの馬車をネズミが化けた馬が引いていましたよね」
 さすがは女の子というべきか。くいなとかなたが、姫の一言に目を輝かせた。義勇の苦笑がいよいよ深まった。
 なにせ、やってくるのは馬車に乗った姫君などではなく、大八車にゆられる炭治郎だ。義勇にとっては誰よりも愛おしくかわいい伴侶ではあるが、姫と呼ばれる要素などどこにもない。まだ顔つきには幼さが残っているけれど、姫のようなたおやかさなどとは無縁の、がっしりとした筋肉のついた男である。くいなたちのほうがよっぽど、下にも置かぬ扱いをすべき姫君らしい。
 不死川の言を裏付けるように、広大な庭の端に一行の姿が見えた。真っ先に見えたのは、大八車にちょこなんと座る炭治郎と、車引よろしく荷車を引く善逸の姿だ。禰豆子と千寿郎が、助太刀のつもりか、並んで大八車を押している。姫とその従者の姿などとは、どんなに美辞麗句で飾っても、到底言えぬ光景だ。
 ヒィヒィと泣き言をもらしながらも、善逸の足は止まる様子がなく、よろける気配もない。言葉とは裏腹にしっかりとした足取りだ。
 口を開けば不平不満、女と見れば脂下やにさがるのが、どうにも玉にキズではあるけれども、善逸とて立派に激闘の一夜を戦い抜いた隊士である。しかも、ただひとりで上弦の鬼を倒したほどの腕前だ。涙声のぼやきを聞く面々にしてみれば、まったくしょうのない奴だとわらうしかない。
「姫扱いしているわけではないが、炭治郎は出産で疲れている。体をいたわるのは当然だ」
 とは言うものの、やはり炭治郎に加えて三枚もの敷布団と、掛け布団では、ちょっとばかりやりすぎな感はなくもない。少し気まずく言った義勇に、不死川はますます呆れたと言いたげに眉をそびやかせたが、なにも言わなかった。義勇に対する武士の情けというよりも、いよいよ近づいた一行が、ただいまと大きく手を振ってきたので、機先を制されただけかもしれない。
「義勇さぁーん! ただいま戻りましたぁ!」
 遠目にも満面の笑みなのがわかる炭治郎に、義勇もつい相好をくずす。
「冨岡は、ずいぶん表情が豊かになったな」
「んなツラできんなら、最初っからそうしとけってんだ」
 どこかしみじみとした槇寿郎の声と、少しばかり揶揄と腹立ちがまざったような不死川の声に、輝利哉の瞳がふと遠くを見つめた。
 なにかつぶやきかけた唇は、言葉を紡ぐ前に閉ざされた。ほんのわずかよぎった陰りは、うら寂しさをたたえているように見える。輝利哉の様子に、義勇が思い返したのは、在りし日のささやかな思いでだ。突然、宇髄が力比べだと言い出し柱たちで腕相撲をしたり、視力は良いはずなのに頭に眼鏡を乗せた煉獄が唐突に眼鏡を探し出したり。意味がわからず戸惑いつつも、なんだか妙に楽しい日だった。そういえば、不死川から食事に誘われたのも、あの日が初めてだ。
 のちに、先代お館様から義勇の笑顔が見たいと言われた柱たちが、どうにか義勇を笑わせようとしていたのだと知った。
 ごく自然に笑みを浮かべられるようになった今では、自分の笑顔など、輝利哉や不死川たちにもとうに見慣れたものとなっているだろう。それでもときおり、見せてはやれなかった人たちを思い浮かべて、寂しさが胸にわくのだ。後悔とも違う、ほんの少しの遣る瀬なさ。伝わってくるから、義勇も静かに目を伏せる。
 だが、口元に浮かべた笑みは消さない。悔恨の念にかられ、罪悪感にとらわれてしまっては、笑顔を望んでくれた者たちに対して、むしろ申しわけない。誰もが笑って過ごせる日々をと願って、命をして戦った人たちが、安心して眠れるように自分ができることは、笑っていることだけだろう。
 だから輝利哉たちも、言葉に出すことはないのだ。わかるから、義勇の笑みも消えない。消さずにいようと、卵をそっとなでながら胸の奥で誓った。
   ◇◇◇◇◇
「も、駄目……禰豆子ちゃぁん、足痛いよぉ」
「父上、お館様、ただいま戻りました」
 座敷の前で大八車を止めるなり、へたりこんだ善逸と、ペコリと頭を下げた千寿郎の声が重なった。小走りに善逸に駆け寄り、大丈夫? と心配げに問う禰豆子に苦笑しながら、炭治郎が荷台から降りてくる。
「庭先から失礼します。玄関で村田さんに逢って、直接庭に入っていいって言われたから、そのままきちゃいましたけど、かまいませんでしたか?」
「うん。かまわないよ。あんまり炭治郎を歩かせないようにさせてあげてと、言っておいたから、それでだろうね。まさかそんなものに乗ってきてたなんて知らなかったけど」
 炭治郎の問いかけに答える輝利哉は、コロコロと子供らしい声で笑っている。
「おかえり、炭治郎。俺のぶんもみんなに挨拶してきてくれたか」
「はい! 元気な卵が生まれましたよって、みんなに教えてきました! きっと煉獄さんやしのぶさんたちもお祝いしてくれてると思います!」
 死闘を越えて、ようやく炭治郎が目覚めたころにはまだ、失った人々のことを語るとき、みなの顔には自責の念やたとえようのない悲しみがあった。口は重くなり、言いよどむ場面も少なくはなかったように思う。それは義勇や炭治郎も変わらない。
 だがしかし、そろそろ季節も二巡りしようかという今、彼らの名を口にする炭治郎の顔に、憂いはない。声も朗らかだ。炭治郎だけではない。みな、過去をやさしく語り、明るく未来の話をする。
 悲しみも後悔も、完全に消え去ることはないだろう。姉と錆兎を守れなかった悔恨が、義勇のなかから消え失せることがないように。だからといって、義勇が絶望の底に沈み、人を拒絶することもまた、きっと二度とない。
 もう知っているからだ。先に逝った者たちが望むのは、残された自分たちが悲しみに暮れることではなく、笑って過ごすことだと、義勇は知っている。思い出し、忘れずにいる。炭治郎が思い出させてくれたから。
 姉と錆兎が残していく義勇に望んだものは、義勇の幸せだ。遺言のように言葉で伝えられたわけではなくとも、義勇はそれを信じている。
 煉獄が、胡蝶が、悲鳴嶼たちの望みもまた、大切な者たちの幸せと笑顔だけだろう。誰もがそれを知っているから、笑うのだ。苦しいことがあっても踏ん張って、大丈夫と笑う。
「父上、僕も台所に手伝いに行ってきます。冨岡さん、その前にお願いがあるのですが、よろしいですか?」
 不意に声をかけてきた千寿郎に、義勇は小首をかたむけた。千寿郎が自分にお願いごとなど、めずらしいこともあるものだ。輝利哉たちと同じく、卵をなでたいのだろうか。思いながらうなずいてやれば、千寿郎はホッとしたように口を開いた。そうして語られたのは、義勇にしてみれば予想外の言葉だ。
「炭治郎さんにはもう許可をいただいたんですが、あの、今回のことを記録として書き残してもいいでしょうか。卵が産まれたと記載するのがご迷惑であれば、お子さんたちの生まれの詳細には触れないようにします。でも、できれば詳細に記録しておきたいんです。駄目でしょうか」
「ヒノカミ神楽に十三の型があることも、千寿郎くんが、代々の炎柱が残した書物を調べてくれたから、わかったことなんです。記録を残すってのは大事なことだと、俺も思って……義勇さん、駄目ですか?」
 炭治郎の口添えがなくとも、義勇の選ぶ答えは決まっている。わずかに不安げな面持ちで見つめてくる千寿郎と炭治郎に、義勇は迷わず首肯した。
「それはもちろんかまわないが……無論、卵のことも書き記していい。だが、俺たちに子が生まれたことなどを書き残したところで、誰の役にも立たないだろう?」
 否やなどないが、後世に価値のあるものだとは、到底思えない。炭治郎の懐妊は、言ってみればささいな偶然の積み重ねによる奇跡だ。義勇が龍の血筋であること、炭治郎の心のありようの清廉さ。それと、なによりも神の気まぐれによる賜物たまものである。そんなものが重なる事態など、今後ありえるわけもない。
 ちょっとばかりの逡巡がこもった義勇の問いに、千寿郎は微笑みながら首を振った。
「役に立つか否かは、後世の人たちの判断に任せるつもりです。僕は……あの日、隊士としてみなさんと一緒に戦うことができませんでした。祈ることしかできなかった。だから、ひとつでも役に立てることが……僕にできることがしたいんです。鬼舞辻は自分を天災に例えたと聞きました。天の災害だけでなく、人の世にはなにが起きてもおかしくない。鬼がふたたび現れるとは、僕も思ってはいません。でも、これから先のことは、誰にもわからないでしょう? そのときに、残した記録がなにかの役に立つかもしれません」
 千寿郎の声にはかすかな後悔がにじんでいた。けれども義勇を見つめる視線は強い。そのしなやかな強靭さが、義勇の目にはたいそう好ましく映った。
「役に立たなかったなど、卑下する必要はどこにもない。千寿郎の手紙はじゅうぶん役に立ったと、炭治郎も言っているだろう? 知りたいことがあるのなら、なんでも教える。好きなように書いてくれ」
「立派な後継ぎじゃねぇか。よかったなぁ、煉獄さんよォ」
 うれしげに顔をほころばせる千寿郎とは対照的に、槇寿郎の顔にはまた、どこか悲しげな笑みが浮かんでいた。
「あぁ。俺にはもったいない息子たちだ……俺などが父でなければ、杏寿郎もきっと……」
 つぶやきは、おそらくは無意識だったのだろう。苦い悔悟に槇寿郎の男らしい顔が悲嘆にゆがめられていた。
「父上……」
「そんなことっ、そんなことありません!」
 千寿郎と炭治郎が詰め寄ろうとした矢先に、バシンと派手な音がして、槇寿郎の体が揺らいだ。
「げっ、痛そう……」
「だ、大丈夫ですかっ!? 不死川さん、いきなりなにを……」
 泡を食う一同を尻目に、槇寿郎はゴホッとひとつむせると、不死川をにらみつけた。
「し、不死川! 突然なにを」
「辛気くせぇツラしてんな。口にすりゃふくらむなぁ、不安だけじゃねぇだろうよ」
 槇寿郎の背を勢いよくはたいた不死川に、槇寿郎だけでなく、義勇たちもまた、目を丸くした。フンと鼻を鳴らした不死川は、ポカンとする槇寿郎にはもう目もくれず、千寿郎に向かい口を開いた。
「おい、おまえ。あのよ……俺の弟のことも、書いてやってくれっか? 俺にはできねぇからよ」
「……はい! 書きます! 玄弥さんのことも、それから、兄上や胡蝶さん、悲鳴嶼さんたちのことも、全部。亡くなった人たちのことだけでなく、不死川さんや栗花落さんたち、お館様たちのことも、鴉たちのことだって、ちゃんと書きます! みんなが懸命に戦って、平和な夜を与えてくれたんだと、いつか遠い未来に誰かが知ってくれるように」
 勢い込む千寿郎の声は、決意に満ちて明るい。
「うん、千寿郎くん、がんばれ! 俺も協力するよ!」
「はい!」
「なんだよぉ、俺も今までのこと書いただろぉ。俺のは全然応援してくんなかったじゃんかっ。贔屓だ、贔屓!」
「善逸のは嘘ばかりだっただろう? まぁ、がんばって書いたのは認めるけど」
 盛大に頬をふくらませてわめく善逸に、まっさきに吹き出したのは槇寿郎だった。
「辛気くさい顔は、たしかにこんなめでたい日には似合わんな。千寿郎、励めよ。杏寿郎も、おまえがみなのために記録を残すことを、誇らしく思っているはずだ」
 槇寿郎の言葉に、千寿郎が幸せそうに笑ってうなずく。槇寿郎の顔にはもう、憂いはなかった。
 親子のやり取りを黙って見ていた不死川が、ペコリと槇寿郎に頭を下げた。
「叩いてすんませんでした」
「なに、気にするな。むしろ活を入れてくれて感謝している。弱音を吐いて、己の不甲斐なさばかりに沈み込んでいては、家内や息子に叱られるからな」
 傍若無人なふるまいは、不死川らしいといえばらしい。以前よりも丸くなったとはいえ、短気なのは相変わらずだ。それでも最年長の元柱に対して手を上げたことは、それなりに申しわけなく思っているのだろう。荒療治といえばそれまでだが、たしかに一同が面食らうだけのことをしでかしたと、不死川も思っているようだ。
 少々バツ悪げに頭を下げている不死川に、槇寿郎はやわらかな声音で言うと、呵々大笑した。
「怖いもの知らずの不死川が殊勝にしていると、こちらの勝手が狂うぞ。いつものように不敵にしてろ」
「ちょっ、なでんな! 調子に乗ってんじゃねぇぞ、おっさん!」
 頭をなでられて慌てる不死川など、めったに見られるものじゃない。みなが目を皿のようにして凝視しているのに気づいたか、不死川は槇寿郎の手を振り払い憮然と立ち上がった。
「もう輝利哉様たちに挨拶も済ませたし、卵も拝んだっ。俺は帰る!」
 腹立ちが露わな風情ではあるが、ほとんど照れ隠しであるのが見て取れて、義勇はついつい笑いそうになる。だがここで笑ってしまえば、不死川はますますへそを曲げるだろう。それぐらいの処世術は、いかに世慣れていないと言われがちな義勇であろうとも心得ている。
「えっ? もう帰るの? 祝いの膳、実弥のぶんも用意してもらってるのに、一緒に食べないの?」
「実弥兄さま、このあいだのご本の続きは、一緒に読んでくれないのですか?」
「灰かぶり姫の続き、実弥兄さまと一緒に読むまで我慢してたのですが……お忙しいのですか?」
 不死川の態度にあわてたのは、輝利哉たちだけだった。いや、善逸も顔を青くしてアワアワとうろたえてはいるけれども。
 グッと言葉に詰まって立ち止まった不死川が、くるりと振り返り、またズカズカと歩み寄ってきたと思ったら、ドカリと腰を下ろした。
 お館様である輝利哉たちへの敬愛は、義勇も同様であるし、特別な存在だと思ってもいる。だがそれも、不死川の比ではないようだ。頻繁に産屋敷家へ顔を出していることは知っていたが、まさか兄さまと呼ばれるまでになっていたとは、初耳である。
 あぁ、そういえば……。
 ふと気がついた事実に、義勇の目元がやわらかく笑んだ。
 不死川は『輝利哉さま』と、そう呼んでいた。義勇がようやく思い至ったことを、不死川はすでに悟り、輝利哉たちの肩にいまだ乗ったままの重責を、軽くしてやる努力をしていたのだ。
 鬼殺隊一の強面で、短気で喧嘩っ早く、隊士たちにはたいそう怖がられてはいたが、結局のところこの男はきっと誰よりもやさしいのだろう。
「おい、なに笑ってやがる、あぁん?」
「べつに」
 わかるから、凄まれても義勇の顔から笑みは消えない。
 からかうつもりはなかったが、不死川はいよいよ憮然としている。義勇の処世術もしょせんはこの程度だ。胸ぐらをつかまれなくなっただけ、義勇も人馴れしたし、不死川は丸くなったということだろう。
「へぇ! 不死川さんと一緒に本を読んでいたのかぁ。灰かぶり姫ってどんな話なんだ?」
「異国のお姫さまのお話です。ネズミが化けた馬が引くかぼちゃの馬車に乗って、お城へ行くのです」
「意地悪な継姉たちに使用人のようにこき使われていた女の子が、魔女のおかげで王子様の舞踏会に行けるのです」
「おもしろそうだねっ。義勇さん、俺たちもこの子らに、いっぱい本を読んでやりたいですね! うちは裕福じゃなかったから、本もあまり持っていなくて、弟たちには同じ本を繰り返し読んでやってましたけど、この子たちにはいろんな本を読んでやりたいな」
 くいなたちの説明に喜々として目を輝かせた炭治郎が、義勇に微笑みかけてくる。慈母のような温かみに満ちた笑みだ。一瞬ドキリと見惚れて、義勇はわずかに瞬いだ。
 炭治郎の笑みはなぜだか幼いころに義勇に向けられていた、母の笑みを思い出させた。姉の面影にもどこか似て見える。禰豆子や善逸が言っていた、母としての自信とやらが、笑みにあふれ出して見えるからだろうか。
 そういえば……ふと義勇は、思い起こした光景に、かすかに目を細めた。唇がやさしい弧を描く。
 小さいときには、夜眠る前に母がよく本を読んでくれていた。父と母が亡くなってからは、姉がその役目を引き継いだ。炭治郎の顔には二人に似たところなどちっともないのに、不思議なものだ。
 義勇は温かな懐古の念に、我知らずふところの卵をそっと抱き寄せた。
「うん、そうしてやろう。世界の広さを知る子にしてやりたい。そのためにも、たくさんいろんな本を読んでやることにしようか」
 義勇自身の世界は、十三で姉を亡くしたときに、鬼滅のみに縛られ、狭められた。そう思っていた。ほかの物事は気に留める余地もない。ただひたすらに刀を振るい、駆け抜けるばかりの日々で、遠い異国の地に思いを馳せる余裕など、どこにもなかった。
 この子たちには、そうあってほしくはない。我が子だけではなく、千寿郎や輝利哉たち、今にも生まれ出ようとしている宇髄の子らにもしてもそうだ。次代を担う者たちには、己の人生を否応なく定められるような生き方は、決してしてほしくなどないのだ。させはしないと、心に誓う。
「千寿郎の処も、いつかこの子らに読ませてやってくれ。宇髄の子たちにも。これから先、ほかの者にも子供はどんどん産まれるだろう。その子たちに託すたすきとなってくれ」
「それはいい。責任重大だな、千寿郎」
 義勇の言葉と槇寿郎の大きな笑い声に、千寿郎の頬があっという間に紅潮した。
「ぼ、僕が書いたものをですか?」
「うん。きっとこの子たちも楽しみにしている」
 義勇が口にしたとたんに、また卵がふるふると揺れた。ギョッとして、義勇は深く卵を抱え込んだが、卵はするんと腕のなかから抜け出してしまった。
 ポンと弾む卵に、一同が飛び上がる。
「あ、コラ! おとなしくしてろ!」
「おいっ、しっかり抱いとけやァ」
「あぁぁっ、、跳ねたら駄目だってば! 割れたらどうするんだ!」
 大いにあわてて義勇や不死川、炭治郎が手を伸ばすのだが、卵はするりするりとみなの手をすり抜けてしまう。しかたなし、義勇が衣服をふたたびなげかけようと、襟に手をかけたそのとき。
「なにこれ、ヌルヌル逃げすぎ! え? うなぎ? この子たちうなぎの血でも引いてんの?」
「そんなわけないだろ! うなぎじゃなくて龍! いや、うなぎはおいしいし、馬鹿にする気はないけども!」
 焦れて言った善逸も、まさか本気で言ったわけではあるまい。言い返した炭治郎はといえば、おそらく自分の言葉の意味を、深くは考えていなかったに違いない。卵にばかり気を取られ、とっさに出てしまっただけのことだろう。
 てんやわんやの大騒ぎでのことだ。思わず動きを止めた義勇のほかには、気にした者などいないと思われたのだが、ただひとり、炭治郎の言葉を事実として受けとめた者がいた。
「龍? お兄ちゃん……な、わけないから、義勇さんが龍ってこと?」
 ポツンとつぶやいた声は小さい。けれどもその声は、喧騒に紛れることなく、みなの耳に届いたようだった。シンと静まり返った庭先で、卵だけがポンポンと跳ねていた。
「龍って……あの四神のですか?」
「まさか、そんなの伝説だろぉ? って、え? マジで?」
「あ、いや! そうじゃなくて、えっと! ぎ、義勇さん……」
 一同が当惑しきりの顔を見合わせるなか、あわてふためいているのは炭治郎だけだ。輝利哉も困惑げな視線を義勇に向けてくる。ほかの面々も、一斉に義勇へと視線を向けてきた。
 ごまかせそうにないと観念したのだろう。炭治郎の目がたちまち潤み、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうになっている。
「ご、ごめんなさい、俺……」
 泣き出しそうな炭治郎の顔を見つめ、義勇の肩からスッと力が抜けた。もういいか。そんな言葉が浮かんでくる。
 一同の視線を集めたまま、義勇の顔に浮かんだ笑みは、至極穏やかだった。
「義勇さん?」
 微笑まれるとは思ってもみなかったのだろう。炭治郎の周章は収まったようだが、罪悪感に潤む瞳は変わりない。秘密がバレたことよりも、炭治郎が泣き出しそうなことのほうが気がかりで、義勇が口を開きかけた矢先に、明るい声がひびいた。
「そっか、だから卵なのね! 龍って卵から産まれるんだねっ」
 パチンと手を叩いて、禰豆子はいかにも納得がいったと言わんばかりに、喜色を露わにしている。嫌悪や猜疑の気配など、その笑みにはみじんも見られない。
「いや、卵から産まれるのは、おそらくその子たちだけだろう。ほかの龍のことは知らないが、少なくとも俺は人の赤子のなりで産まれたらしいから」
「義勇さん!?」
「義勇、いいの?」
 よもや義勇が肯定するとは思いもよらなかったのだろう。炭治郎と輝利哉がためらいつつ聞いてくるのに、義勇は笑んだままうなずいてみせた。
 沈黙が落ちた場に、あっ! と小さな声があがった。対応に悩み狼狽する者たちの沈黙など、一向に意に介さず、ポォンと弾んだ卵が千寿郎めがけて跳んでいた。
 あわてて両手を差し出した千寿郎の腕のなかに、卵はポスンと収まって、先ほどまでの暴れっぷりが嘘のようにふよふよと震えている。表情などないはずなのに、ずいぶんとご機嫌なのがはた目にも伝わってくるほどだ。
「え、えっと……」
「どうやらその子たちも、楽しみにしていると言いたいらしいな」
 クスリと笑った義勇が言えば、卵は満足げにますます揺れた。抱える千寿郎は、目を白黒とさせている。けれども卵を落としてはならないという緊張は、いかんともしがたいようだ。
 だがそれも、ほんのわずかな間のこと。腕のなかでぷよんぷよんと振動する卵は、逃げ出す気配もなく、それどころかたいそう楽しげにさえ見える。思わず苦笑してしまった千寿郎の気持ちが、よくわかるというものだ。親の心子知らずとはいうが、まったくそのとおりだとしか、義勇には言いようがない。
 炭治郎の心情も義勇とどっこいどっこいなんだろう。卵の態度にすっかり毒気を抜かれたようだ。泣き出しそうだった瞳は乾き、緊張と罪悪感に固まっていた顔や体もゆるんで見えた。
「龍の卵って、こんなふうなんですね。得難い経験をさせていただいて、うれしいです」
 先の禰豆子と同様に、千寿郎の興奮に染まった頬や笑みには、拒否や不快感など露ほども見えない。まだまだ子供らしさが残る顔をほころばせ、声を弾ませている。懐かれているらしいのも、喜ばしさの要因かもしれない。快活でちっとも物怖じしなかった兄とくらべ、万事控えめで物静かな千寿郎にしてはめずらしく、卵を抱えたまま今にも踊りだしそうにも見えた。
「とてもきれいで、あったかくって……きっとこの子たちは、炭治郎さんや冨岡さんにそっくりになりますね」
 千寿郎の声にはごますりの気配などまるでない。不可思議な事象を受け入れ、肯定するしなやかな強さをたたえた姿は、どことなし亡き人の溌剌はつらつとした笑みに似ていた。
 なんのてらいもなく受け入れられたことに胸が詰まり、義勇は、寸時千寿郎の笑みに見入った。
 自分はほかの子とは違うのだと理解したときから、ずっと義勇の心には引け目があった。それは鬼殺のみちを進みだしてから、いっそう強くなっていたように思う。
 初めて龍となった姿を見られた他人である錆兎も、驚きに呆然としたものの、笑って受け入れてくれた。鬼狩りには役に立たないと、恥じ入り悔しさに唇を噛みしめた義勇に、錆兎が浮かべた笑みは禰豆子や千寿郎と同じだった。素直な称賛を藤色がかった瞳に乗せて、義勇に誇れと言ってくれた。
『龍神がついているなら、俺らの勝利は約束されたようなものじゃないか。神威はこちらにありだ。龍とともに戦えるなんて、めったにないぞ。おまえと友だちになれたことが、俺は誇らしいよ』
 でも、龍だから友だちでいるわけじゃないからな、間違えるなよ? 言い含める錆兎の度量の広さに感嘆し、錆兎と出逢えた幸福を噛みしめたあの日。もう遠い、苦しくも心弾ませた鍛錬の日々が、錆兎の面影が、胸によみがえる。
 泣きたいような笑いたいような、噛み殺しきれない感情がふくらんで、義勇の瞳がわずかに濡れた。
「義勇さんに似るのはすっごくうれしいけど、俺に似てもなぁ。俺はちっともきれいじゃないから」
 千寿郎の笑みや言葉に安堵したのは、炭治郎も同じらしい。苦笑して頭をかく様子に、義勇は、潤んだ瞳をパチリとまばたかせた。
「きれいだ」
「え?」
「炭治郎はきれいだ。胸が痛くなるような温かくてやさしい笑顔も、艷やかなザクロの実みたいな瞳も、朝焼けを溶かし込んだようなやわらかな髪も、全部炭治郎はきれいだ」
 傷だらけの手や体さえ、義勇の目にはたとえようもなく美しく映る。なによりも、心が美しい。まるで広大な青空のように眩しくて、澄みわたった凪いだ海のように穏やかな、清く温かな心根。炭治郎の心の有り様は、神さえも動かすほどに美しい。
 炭治郎といるだけで、陽だまりで寝転ぶ猫のような心地に、義勇はなる。もしも本当に猫にでもなったのなら、きっと義勇は炭治郎がそばにいる間中、ゴロゴロとやかましいほどに喉を鳴らしていただろう。
「義勇の言葉と眼差しに、炭治郎の顔が、火のついたようにボンッと真っ赤に染まった。
「う、え、あの……」
「惚気かよ。ごちそうさん」
 ケッと舌打ちして、膝に頬杖をついた不死川に続き、槇寿郎や輝利哉たちまでもが、夫婦仲良くてなによりだと笑うものだから、炭治郎はますます赤くなるばかりだ。茹でたタコのように全身くまなく朱に染まってしまっている。今にもプシューと頭の天辺から湯気が上がってきそうだ。
「惚気じゃない。事実だ」
「惚気じゃん! それが惚気だって言ってんだろぉ! ちくしょうっ、自分らが幸せいっぱいだからって、独り身の前で惚気んなよぉ! 俺だって禰豆子ちゃんと早く結婚したいぃ!!」
「え?」
  だがそれも、ほんのわずかな間のこと。腕のなかでぷよんぷよんと振動する卵は、逃げ出す気配もなく、それどころかたいそう楽しげにさえ見える。思わず苦笑してしまった千寿郎の気持ちが、よくわかるというものだ。親の心子知らずとはいうが、まったくそのとおりだとしか、義勇には言いようがない。
 炭治郎の心情も義勇とどっこいどっこいなんだろう。卵の態度にすっかり毒気を抜かれたようだ。泣き出しそうだった瞳は乾き、緊張と罪悪感に固まっていた顔や体もゆるんで見えた。
「龍の卵って、こんなふうなんですね。得難い経験をさせていただいて、うれしいです」
 先の禰豆子と同様に、千寿郎の興奮に染まった頬や笑みには、拒否や不快感など露ほども見えない。まだまだ子供らしさが残る顔をほころばせ、声を弾ませている。懐かれているらしいのも、喜ばしさの要因かもしれない。快活でちっとも物怖じしなかった兄とくらべ、万事控えめで物静かな千寿郎にしてはめずらしく、卵を抱えたまま今にも踊りだしそうにも見えた。
「とてもきれいで、あったかくって……きっとこの子たちは、炭治郎さんや冨岡さんにそっくりになりますね」
 千寿郎の声にはごますりの気配などまるでない。不可思議な事象を受け入れ、肯定するしなやかな強さをたたえた姿は、どことなし亡き人の溌剌はつらつとした笑みに似ていた。
 なんのてらいもなく受け入れられたことに胸が詰まり、義勇は、寸時千寿郎の笑みに見入った。
 自分はほかの子とは違うのだと理解したときから、ずっと義勇の心には引け目があった。それは鬼殺のみちを進みだしてから、いっそう強くなっていたように思う。
 初めて龍となった姿を見られた他人である錆兎も、驚きに呆然としたものの、笑って受け入れてくれた。鬼狩りには役に立たないと、恥じ入り悔しさに唇を噛みしめた義勇に、錆兎が浮かべた笑みは禰豆子や千寿郎と同じだった。素直な称賛を藤色がかった瞳に乗せて、義勇に誇れと言ってくれた。
『龍神がついているなら、俺らの勝利は約束されたようなものじゃないか。神威はこちらにありだ。龍とともに戦えるなんて、めったにないぞ。おまえと友だちになれたことが、俺は誇らしいよ』
 でも、龍だから友だちでいるわけじゃないからな、間違えるなよ? 言い含める錆兎の度量の広さに感嘆し、錆兎と出逢えた幸福を噛みしめたあの日。もう遠い、苦しくも心弾ませた鍛錬の日々が、錆兎の面影が、胸によみがえる。
 泣きたいような笑いたいような、噛み殺しきれない感情がふくらんで、義勇の瞳がわずかに濡れた。
「義勇さんに似るのはすっごくうれしいけど、俺に似てもなぁ。俺はちっともきれいじゃないから」
 千寿郎の笑みや言葉に安堵したのは、炭治郎も同じらしい。苦笑して頭をかく様子に、義勇は、潤んだ瞳をパチリとまばたかせた。
「きれいだ」
「え?」
「炭治郎はきれいだ。胸が痛くなるような温かくてやさしい笑顔も、艷やかなザクロの実みたいな瞳も、朝焼けを溶かし込んだようなやわらかな髪も、全部炭治郎はきれいだ」
 傷だらけの手や体さえ、義勇の目にはたとえようもなく美しく映る。なによりも、心が美しい。まるで広大な青空のように眩しくて、澄みわたった凪いだ海のように穏やかな、清く温かな心根。炭治郎の心の有り様は、神さえも動かすほどに美しい。
 炭治郎といるだけで、陽だまりで寝転ぶ猫のような心地に、義勇はなる。もしも本当に猫にでもなったのなら、きっと義勇は炭治郎がそばにいる間中、ゴロゴロとやかましいほどに喉を鳴らしていただろう。
「義勇の言葉と眼差しに、炭治郎の顔が、火のついたようにボンッと真っ赤に染まった。
「う、え、あの……」
「惚気かよ。ごちそうさん」
 ケッと舌打ちして、膝に頬杖をついた不死川に続き、槇寿郎や輝利哉たちまでもが、夫婦仲良くてなによりだと笑うものだから、炭治郎はますます赤くなるばかりだ。茹でたタコのように全身くまなく朱に染まってしまっている。今にもプシューと頭の天辺から湯気が上がってきそうだ。
「惚気じゃない。事実だ」
「惚気じゃん! それが惚気だって言ってんだろぉ! ちくしょうっ、自分らが幸せいっぱいだからって、独り身の前で惚気んなよぉ! 俺だって禰豆子ちゃんと早く結婚したいぃ!!」
「え?」
 雄叫おたけびは掛け値なしの本音なんだろう。善逸は自分の発言にも気がついていないように見えた。けれども禰豆子にしてみれば、思いがけず降ってわいた告白であったらしい。パチパチと目をまばたかせたかと思ったら、ほわりと頬が花の色に染まっていった。
 はたから見れば善逸が禰豆子に懸想していることなど丸わかりだが、禰豆子は正真正銘気がついていなかったものとみえる。カチンと固まり、モジモジと指先を絡めて少しうつむく禰豆子は、咲きめの愛らしい花のようだ。
 また落ちた沈黙は、今度はどこかワクワクとした好奇心と期待に満ちていた。みなの視線を一身に集めていることにも、善逸はまだ気がついていない。自分の想いが禰豆子に届いたことにも。
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01:36
オバ
さて、では始めます!
01:55
オバ
ここで直接執筆するの久しぶりだわ💦
20:48
オバ
誤用を避ける&表現の幅を広げるために、辞書をチェックしつつ執筆してますので、ちょいちょい筆が止まります。ご容赦くださいませ💦
34:34
オバ
あ、たびたびお茶入れに行ったりトイレに行ったりもしますが、気にせず閲覧しててください。
35:25
オバ
話しかけてくれたら嬉しいですけど、声をかけにくい方は閲覧だけでも十分ですので。
35:55
オバ
でも、ちょっとだけ挨拶とかしてもらえると、おそらく調子に乗って張り切りますw
88:47
オバ
んん~、漢字ひらきすぎかなぁ。読みにくいか?
89:50
オバ
名前が平仮名だからなぁ。でも閉じると他の部分もあわせなきゃだし、しかたないか💦
142:50
オバ
アカン、お腹へってきました。ちょっと休憩してご飯食べたら、また1時頃まで配信します💦
143:01
オバ
閲覧ありがとうございました!
149:04
オバ
執筆再開します。
206:58
オバ
タイムアップ。外出から戻ったら、また再開しますね。
213:07
オバ
短い時間になるかもですが再開します。
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神のまにまに弥栄、一陽来復春くりゃ笑え 後編
初公開日: 2021年09月12日
最終更新日: 2021年09月23日
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コメント
kwsk様の『龍のぎゆうさん』イラストから書かせていただいている最中の義炭。長くなったので後編です💦
男体妊娠の描写があるので、苦手な方はご注意ください。
原作軸だけど人外パロ。章ごとに視点が変わります。
神のまにまに弥栄、一陽来復春くりゃ笑え 前編
kwsk様の『龍のぎゆうさん』イラストから書かせていただいている最中の義炭です。進捗状況が芳しくない…
オバ
満天の星と恋の光 12
現パロ中学生煉義8月編12話沢登り開始です。ネタがどんどん増えて終わりませんでした_| ̄|○
オバ
ワンライをやるぞやるぞ〜!
ワンライチャレンジ。ネタ出しから&別作業と並行してるのでゆっくりゆるゆるです。
星菜
20210911キスディノドロライ
第26回【お題:海賊/パーティ】
みつき