「例え相手を失ったとしても。ジェラルトさんが……あんたの父親が、あんたを愛したという事は覆る事はないし、今まで与えられていたその愛は永遠に不滅だと俺は思う」
 それはクロードが、空の色のような双眸からとめどなく溢れてくる涙を拭いもせず、父親であるジェラルトが使用していた騎士団長の自室で独り椅子に座り両の脚を抱え縮こまっていたベレスをみつけて、やっとの思いで発することが出来た言葉だった。
「だから、もう……そんなに泣かないでくれ」
 クロードは椅子の上で小さく蹲るベレスと同じ高さにまで身を屈ませて顔を覗き込んだ。
 ちらりと隙間から覗く涙を知ったばかりの瞳は充血して真っ赤で、それと同じくらいにベレスの目の周囲は涙を流し、そして拭うのを繰り返したためか赤く擦り切れて腫れていた。
 どれくらいの時間を独りで過ごして、孤独に咽び泣き続けていたのだろう。
 堰を切ったように溢れて止まらないでいる彼女の涙をクロードはひとさし指の背でそっと拭ってやると、何かを求めるような彼女の眼差しに思わず抱き寄せてしまいそうになる。
 それを無理やりにぐっとこらえてなんとかやり過ごす。
 彼女が今必要としているのは、他者ではなく父親であるジェラルト本人だからだ。
 俺は何もしてやれない。己の無力さをこんな時に知りたくはなかった。
 「飯は食ったのか?」
 クロードはそう優しく問いかけると、蹲ったまま首を横に振るベレスを見てクロードは何かを発しようとはするものの、何も出ない言葉に握りしめた拳を少しだけ震わせ呼吸を整える。
 静かに立ち上がり暫く蹲るベレスを無言で見下ろしていたが、去り際に一言だけそっと呟いた。「マヌエラ先生に……伝えておくよ……」
 それだけ発して、クロードは騎士団長の部屋を後にした。
 ――――あんたを愛したという事は覆る事はないし、今まで与えられていたその愛は永遠に不滅だと俺は思う。
 ベレスが愛してやまないたった一人の家族である父ジェラルトがフォドラの中で妖しく蠢く闇の存在の凶刃に倒れ嘆き悲しみに包まれていた時に、彼がかけてくれた言葉。
 ベレスには、それが単に父を弔うだけの言葉だけには思えず、先程まで温かく感じていた筈なのに、彼が立ち去った後の部屋の室温に寒さを憶えていた。
 軌跡
「クロード。お前は一体何を言いだすのかと思えば……」
 その名前の主である彼に誘われガルグ=マク士官学校から僅かばかり離れた土地へ遠乗りに来ていたディミトリは、突然突飛な事を言い出す国境を越えた友人に真意を問いただす。
 が当の本人は涼しい顔をしながら馬に跨り、遥か遠くを眺め嬉しそうにしている。
 こちらをちらりとも振り返りもせず何の反応もみせず黙したままのクロードを見て、焦れたディミトリは再び口を開こうとしたが、視線を感じたのかくるりと振り返ると満面の笑みを浮かべた。
「あ? ひょっとして聞こえなかったか? これから先にだな万が一何かのきっかけで戦争でも起こりでもしたら同盟は王国とは戦う理由がない、だからお互いに協力し合おうじゃないの?」
「お前、戦争が起こるなどと滅多な事を言うな」
「俺としては皇女様とも和平の締結が出来たらいいんだが……。まあ皇女様のあの気質を考えると対等にってのは難しいだろうな。いつも張り付いてる従者のお陰で近づく事すらできないしな」
「お前な……そんな事を軽々しくしていい話題ではないだろう?」
「だからこうやって二人だけで遠乗りに来てんだろ?」
「突然遠乗りに誘い出したのはその為だったのか。全くお前というやつは……」
 ディミトリは呆れ顔で友人であるクロードを目で追うが、彼の落ち着き払った様子をみていると生真面目すぎる自分が馬鹿らしくなったのか、ほんの少しだけ声を漏らして笑った。
 クロードは騎乗しながら、彼の様子を横目でちらりと確認する。
 ディミトリ本人は気付いてはいないようだが、ここの所ずっと張詰めた表情をしていたから少し表情が和らいだ事にクロードは内心ほっとしていた。
 友人を想う気持ちと、彼の担任であるベレスにも何か出来る事はないだろうかと考えていたのだ。勿論そんな秘めたる思惑はおくびにも出さないのが彼だ。知られたら野暮ったいではないか。
 感謝されてありがとうとお礼を言われる関係は煩わしいと考えていた。
 「そんな馬鹿げた話は心配性であるこの俺の杞憂であればいいってだけの話だろ? まあ俺の世迷言なんざ聞き流してくれればいいが、慈悲の心でも湧きでもしてくれるってんなら、王子様の心の片隅にでも住まわせてくれよ」
「まあお前の言う通り、ファーガス神聖王国とレスター諸侯同盟は元々一つの存在だからな。俺も同盟と戦う事になるのは好ましくはないと思っている」
「おお、話しが早いな。まあ、お互いに背負うものがあるからな! それじゃあこれは俺達男同士の密約って事でいこうじゃないの」「お前は相変わらず、型破りな奴だな」
 冬の凍えるむかい風を浴びながら、クロードは大気の中に何処か煤けた香りが含まれているような気がしてこれからあゆむ未来を密かに案じる。
 誰にも本心を知られる事なく自分の思い描いた未来に誘い込む。
 盤上の上で自らの意思を抱いて邁進していると思わせておいて、実は知らず知らずのうちにこちらの意のままに導かれていた事にすら気付いていない。
 クロードはそういう戦略を好んでいたが、ここ最近の不穏な出来事の数々はどこかそういったものにどこか通ずるような気がしていた。
 フォドラという盤上の上で、どこの国に属しているかも分からぬような闇で蠢く存在に密かに踊らされているような気がしてならない。
 ――――フォドラの歴史が動くかも知れない。
 そんな予感はどうか外れてくれ、そう切に願う。
「そうだな、お前の言う通りだ。いつ如何なる時にでも互いの窮地には駆けつける。約束しよう」 
 その言葉を聞いて安心したのかクロードは胸元に手を伸ばすと懐刀を取り出した。何をするつもりなのか、並んでいたディミトリが彼の挙動を見守っていた。
 クロードが親指の先を護身用の懐刀の切先で弾くと指先から赤い鮮血がジワリと滲みだした。「お、おい、お前急に何をしているんだ」
 顔色一つ変えずにその所作を行うクロードの姿にディミトリは思わず戸惑うが、クロードは「これは、俺の故郷でのしきたりなんだが……ほら、お前もやれよ」と促し一筋の血がしたたる親指をディミトリに見せて待ち続けていた。
 彼が待っていると気付いたディミトリは意味も分からずに自分も同じように懐刀で親指に傷を付けた。
 つぅと自分の白い指先が赤に染まり行くのを確認すると、クロードに向かい指を見せる。
 それを見て満足そうに笑ったクロードは互いの馬を近くにまで寄せてディミトリの血の滲む指に自分の血を重ねた。
「俺達はくしくも同じ時代に生まれ、背負うものも異なりながらも、似たような立場なわけだが。いまここで重なる血にかけて、互いの窮地には必ず助け合う事を誓う。これは俺の故郷の……朋友の誓いでさ。まあ、友情の証ってやつだよ」
「……クロード」
「これでお互い、背中の心配はしなくても良さそうだな!」
「呆れたやつだな、どうせそっちが本音なのだろう?」
「まあまあ、お互い様だろ? なあ、もう少しだけ駆けようぜ? 卒業したらこんな時間もなかなか持つことも出来ないだろうしな」
 上等な生地を縦に裂いて傷口に巻いて止血すると、「使えよ」と生地の残りをディミトリへと渡し少年のようにクロードは微笑んだ。
 それは寒い寒いとある冬の日、二人の間で密かに交わされた誰も知らない約束だった。
  風が西から東へ。星は東から西へと巡り。
 その大地の境界で咲き誇る可憐な花が星空を背景に風に吹かれて揺れていた。
 卒業したら、そうしたら……。
 誰にも咎められる事もなく、この胸の中に秘めたる想いをちゃんと全てあの人に捧げるのだ、と。 クロードは横着にも自室の棚の上に座り空調の為の窓を開けて、肘をつきながらぼんやりと夜空を見上げていた。
 吐息すらも凍る様な寒い冬の夜に、深夜の階下で扉が開く音がしてゆっくりと階段を降りる音が聞こえて来る。いつもの哨戒の時間だ。いつも時間ぴったりだなと、彼女の生真面目さを笑う。
 学生寮の前で独り夜に浮かぶ三日月を眺めているベレスの姿を、クロードは人知れず上の階から息をひそめて密かに見下ろす。これもいつも通り。彼女は知りはしないだろう。
 空に浮かぶ月を眺めている彼女が……今、何を想うのかは分かりはしないけれど。
 触れる事も敵わないのならばせめてこの瞳にしかと焼き付ける為に、毎夜他の誰にも阻害されることのない深夜の彼女の哨戒の時間に合わせて、ただただ見つめるだけのガキの叶わぬ淡い気持ちだけは赦して欲しいと願う。
 こんなにも大きく育った気持ちを抱えたまま、持て余している自分のやるせない気持ちを早くどうにかしたい。そんな想いと、でもひょっとしたらふとした瞬間に彼女が自分の視界に映り込むかもしれないと期待を抱いて過ごしてきた日々。
 卒業してしまえばそれはまるで陽炎のように消えてなくなってしまうのだと思うと、クロードは胸の中を駆ける秘めたる想いと独り葛藤していた。
 だが、突然始まったアドラステア帝国皇女エーデルガルトによる戦争発起により、無常にもあれほど待ち望んだガルグ=マク士官学校卒業の日が訪れることは無かった――――。
「これ以上戦えない者は大広間へと退避! セテス様が地下通路を辿り安全な場所まで案内してくれるそうだ! 早く!」
 周囲に広がる怒号と悲鳴が辺りを包む。
 どこもかしこも黒煙が立ち込め、アドラステア帝国による圧倒的な軍事力を前にガルグ=マクの陥落の瀬戸際なのだと誰しもが悟る。
 ベレスは、戦争を引き起こしたエーデルガルトが自分の「敵」なのだと知ってから数日前から様変わりしてしまった級長であるディミトリに胸がざわついていた。
 何かに向かい独りぶつぶつと呟き続ける彼の姿を見て、学級の誰しもが不安を抱いていた。
 皆の戸惑う表情を確認しながら、これ以上何かが起きると王国は一気に崩壊に向かうのかもしれない。そう危機感を憶えていた。
 始まってしまった帝国との交戦のさなか、ベレスの静止を振り切り槍を振りもう動かくなった相手の返り血を全身から滴らせていた。とても満足げで誇らしげなディミトリの横顔。
 狂気の中に喜びのような物を孕ませた笑みで「必ずあの女を……」と独り呟きつづけているディミトリに潜む心の中の闇を、ベレスは教師として着任し早い段階で気取ってはいたものの、ディミトリは静かに胸の中で眠る狂気をここまで覆い隠し、憎しみを「育てて」生きてきたのだとこんな時に知る事になり必死で見失った彼の姿を追った。
「先生!」
 一進一退の応戦が続く中で、突然誰かに腕を引かれてベレスは思わず振り返ると、そこには悲愴な表情を浮かべたクロードの姿があった。
「無事だったんだな……よかった」
 彼の頬を伝って大量の汗が零れ落ちていく。息せき切るクロードを見て、彼がずっと自分を探してくれていたのだと気付いた。こんな時なのに彼の姿を見ることが出来て気持ちが和らぐ感覚を憶えた。
「クロード、ここは危ない。君も早く安全な場所に」
「何言ってんだ、危ないのはあんたも同じだろ!」
「私はディミトリを探さなければ。ここ最近彼の様子はおかしかった。恐らく最前線にいるのだとおもう。だから連れ戻す」
「…………あんた正気か?」
 クロードは細いベレスの腕を掴んだままで「信じられない」というような表情を浮かべながら彼女を見つめ続けていた。
 自分の命よりも教え子を優先すると言い切るベレスに、クロードは表情に少しだけ哀しみを宿すものの、ベレスの力強い意志を抱いた瞳を見たら他に何も言えなくなって悔しくて唇を噛みしめた。
 草原の翠が萌えるような、そんな彼の瞳を時を忘れる程に眺め続けるのが好きだった。
 掌に彼の頬の温もりを感じるのが好きだった。
 肌を重ねて。彼の唇が自分の境界をなぞるのが好きだった。
 その中でも一番好きだったのは、時折漏らす甘え方を知らない彼の縋る様なワガママだった。
 彼の漏らす毒はひとたびベレスという存在に濾過をされると、星のように瞬き輝きを放ちはじめ光を帯びる。
そしてそれは彼自身をも輝かせて、他の誰の手にも届かないような、遥かな存在となりゆくのだ。
 厳しい表情でこちらを咎める彼の眼差しを決して逸らさず見つめ返した。
 周囲を包み込む混乱の声を背中で聞きながら、静かににらみ合いが続く。色んな葛藤を抱く表情を浮かべるクロードとは対照的にベレスは顔色一つ変えてはいなかった。
「今まで課外出撃でこなしてきた小隊との小競り合いって規模じゃない。帝国が長い間この日の為に用意してきた大軍なんだぞ? きっとこの日に全てをかけてる」
「だからだよ……私は生徒を護る義務がある」
 ベレスの強い意志を抱いた瞳に観念したのか呆気にとられていたクロードだったが、気が抜けたかのようにふっと表情を和らげた。
「そうだな、あんたは……青獅子の学級の先生だもんな……」
 何処か諦めにも似たような、彼のそんな表情をこれまでも幾度もみて来たベレスは胸に痛みが走った。
「あんたの可愛い教え子は護ってやらないとな……」
 そう空元気で笑うクロードの瞳から、突然ほろりと涙が零れた。ベレスは驚いた。
 たった一度だけ見た事があるあの涙。
 おれのことをあいしてくれないか、と、こいねがう言葉と共にたった一筋だけ溢した彼の涙。
 いつも飄々としていて悪ガキという言葉が似合うような、そんな気丈な彼が笑いながらまさか涙を流すとは思わずベレスの中でくすぶる彼への罪悪感が心を引き裂いた。
「あれ? なんだ? 変だぞ、なんで? いや、そんなつもりじゃなかったんだが、ここ最近色々あったからか? あ、わるい気にしないでくれ」
 堰を切って溢れる涙に自分が一番驚いたのか、クロードはその涙の意味も分からず戸惑いながら思わず顔を背けた。その涙は幾度も過去をやり直しさせられ潜在的に傷ついていたクロードの叫びでもあった。
 時を戻されたとしても、何度も何度も繰り返しベレスを愛おしく思う彼の流す涙は途方もなく美しくて、ベレスの意固地な世界が音を立てて崩壊していく。
 愛しているのだとひとたび口にして彼を受け入れてしまえば、今までの自分が自分でなくなってしまうのではないかと臆病風に吹かれたからだ。
 これまで生業とし多くの命を奪い生きて来た自分が人並みに幸せを掴む罪悪感と、愛おしい彼を想う抑えきれない気持ちを天秤にかけて生きていく事が怖かったからだ。
 ――――嫌なんだ……あんたが普段気にかけているのが俺以外の他の誰かだって思い知るのが。 
 かつてほんの少しだけ心開いてくれた彼が漏らした切ない本音。
 今でも耳に、目に、心に、唇に、彼はしかと焼き付いている。そんな言葉を贈ってくれるのは彼しかいないというのに。
  彼は「私」が愛する人で「私」の世界のような人。だから、せめてもの罪滅ぼしに私は戦わなければならない。彼を、守る……これからの為に――――。
「……行くよ。どうか無事で」
「俺はマヌエラ先生を探す。これでも金鹿の学級の級長だからな。それに学級のあいつらも俺がいないとだめなやつらばっかりだからな。……守ってみせるよ」
 ――――あんたが俺の傍に居てくれるなら、俺はなにもかも棄てて……。
 とっくに引いた涙の気配など微塵も感じさせずに、あの日そんな事を漏らしていた嘗ての弱さをみせた彼とは大きく異なり、今は国を背負う人間の強い眼差しへと変貌させていた。
 自らの髪を掻き分ける彼の腕に君臨する、彼の瞳と同じ色のブレスレットが自らの存在を指し示す様に輝いていて、あの日彼が贈ってくれた言葉をベレスの中で駆け巡らせた。
 ――――個人的に物を贈る意味を? あんたは分かってるのか?
「クロード!」
 ベレスは大きく彼の名前を叫ぶと、クロードの頬に手を添えた。
「おわっ、ちょっ……一体どうしたってんだ?」
 変わらない彼の温もりに、胸の辺りがジンと熱くなって父を失った時と同じような涙が溢れた。  
 そのベレスの反応に驚いた表情を見せていたクロードだったが、大好きな空のような青い瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちるさまに、良く分からないでいたあの焦がれたベレスが感情に揺さぶられている姿をこのままずっと飽きる程に見ていたいと、こんな非常時にそんな言葉が浮かんだ。
「君がもし独りになりたがったりでもしたら、私は何処までも君を追いかけるよ」
「…………っあんた」
 たった今何を言われたのかが分からないでいるクロードは絶句してその場に立ちすくんでいる。 それはずっと欲しかった言葉だったからだ。
 ベレスは細い指先で彼の髪をゆっくりと梳いて変わらないでいる彼の形の感触を確かめた。あの日のまま彼は確かに存在していた。
 初めて触れられたと思う筈なのに、その感触はクロードにとってもひどく懐かしく思えて不思議でたまらない。
「私には、話さないといけない事が沢山あって。君に償うことも沢山あって。伝えないといけない事も沢山ある。だから……この戦いで無事に生き残れたら、ちゃんと君に、クロードに、自分の気持ちを全て伝えたい」
 震える声と腕で、彼をそっと抱きしめると彼の胸の中に顔を埋めた。
 加速していく鼓動を聞きながら瞳を閉じると、クロードもゆっくりとベレスの身体を抱きしめた。 肩が震えていて、「なんなんだよあんた……」と、彼もまた再び涙を抑えきれないようだった。
「だから、必ず、生き延びよう」
「……聞きたい事、沢山あるんだからな。その約束忘れるんじゃないぞ」
「そんな約束は果たされないまま、もうすぐ五年。本当に我が事ながら呆れるよ」
 そうぼやきながら瓦礫が散乱するガルグ=マク大修道院内を歩く。他に人の気配はない。セイロス騎士団は、突如姿をけした大司教レアを探しフォドラの中を彷徨い旅を続けているのだという。
 盗賊団により、荒らされた形跡のあるガルグ=マクはかつての栄華と繁栄も見る影もなく閑散としている。
 あのガルグ=マク陥落からもうすぐ五年が経過しようとしていた。
 すっかりレスター諸侯同盟の盟主が板についたクロードは学生時代とはまた異なる美須豪眉な青年へと成長していた。
 クロードは腕の中に何かの包みを抱えながら慣れた足取りで敷地内を歩いていく。
 目的地である市場の東側の長い階段へと赴くと、クロードが来るのを待ちわびていた猫達が甘えた声をあげてすり寄って来た。
 クロードは集まる猫を上手にかわしながらちらりと横目で周囲を確認すると、猫達の近くには時間が経過してすっかり乾燥した魚がほぼ食べつくされた状態で置かれていた。
 新しい餌があるかと思い期待をして来たものの、やはり自分が与えた餌以外に変わった様子もなく、人知れず肩を落とす。
 だが、長年のエサやりですっかりクロードに懐いている猫達は、彼のそんな心情も気にも留めず手元で抱える包みに興味津々で警戒心もなくクロードの体の上に乗ってはゴロゴロと喉を鳴らして甘えていた。
「お前らは揃いも揃って、にゃぁにゃぁにゃぁにゃぁと口うるさいな。普段、自分達で餌は調達できてんのか? 俺の事を餌係とか思ってるんじゃないだろうな?」
 まるで相槌のような、にゃーんという鳴き声を聞いて脱力する。
「お前らは気楽でいいな」
 人の気も知らないでと、そう苦笑しながら猫の背中を撫でた。
 ベレスはあの日の戦いの中、レアと同様に跡形もなくこのフォドラから姿を消してしまった。
 王国も同盟も、あの帝国ですらベレス=アイスナーを探し、そして見つけられないでいるのだという。
 突然現れた白い竜の存在も謎であるが、谷底へと落ちて行ったと目撃した話を頼りに、随分と探しまわったものだが、本の僅かな手がかりさえも無く消えてしまうなんて事があるのだろうか。
 クロードが彼女に囚われ続けているのは、あの日のベレスの言葉。
 私には、話さないといけない事が沢山あって。
 君に償うことも沢山あって。伝えないといけない事も沢山ある。
 だから……この戦いで無事に生き残れたら、ちゃんと君に、クロードに、自分の気持ちを全て伝えたい。
 その言葉は今も尚、クロードの中で一国を背負うという苦しい重圧の中で何かを奮い立たせてくれた。
 あの戦いのさなかほんの僅かに赦されたひと時に、優しく髪を撫ぜてくれたベレスの眼差しは片時も忘れた事などなかった。
 渡せないでいたブレスレットをぼんやりと眺める。それは不器用な自分なりの愛の証だった。
 あの日に手渡せないでいた事を、そしてあの時金鹿の学級を選び彼女を選ばなかった事を。クロードはほんの少しだけ後悔の念を抱く。
 何を馬鹿な、今もなお自分を慕い信じて命をかけてくれる友がいてくれるというのに、いつまでも過去に囚われ続けるのはそろそろ潮時なのかもしれない。
 あの日、彼女と肩を並べて猫に餌を与えた時と同じような風が頬を撫ぜて。随分とまあ感傷的だなと自嘲する。
「俺はそろそろ帰るよ。彼女が帰ってでもしたら、いつも飯をごちそうして貰っていたお礼として俺の事を目一杯によろしく言っておいてくれよな」
 抗議するように鳴き声で訴え足元で纏わりつく猫達を尻目に、軽々と竜へと跨ると「生き延びろよ!」と言葉も分かりもしない猫達に声をかけて天空へと飛び立った。
 「俺は元気でなんとかやってるよ。先生。俺には、周りに皆が居てくれるから、きっとまだ……あんたが言うその時ってやつじゃないんだろうな」
 黄昏にそまり流れる雲に限りなく近い、青と赤の混じる空と大地の境界で、誰にも聞かれる事もない言葉を独りぽつりと呟いた。 
 
 クロードがガルグ=マク大修道院を訪れた数日後、ディミトリの生存が確認され、突然ファーガス神聖王国は旗を上げたとの報告がフォドラ中を激震のように駆け巡った。
 そしてクロードは同盟領内リーガン邸の執務室にて、ファーガス王のその傍らには、大司教に似たような髪色をした女性の姿があったとの報告を受ける事となる――――。
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Zephyranthes 軌跡
初公開日: 2021年07月13日
最終更新日: 2021年07月19日
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