平和な世である。長い年月と数多の命を犠牲にした一連の真相が明らかとなり、修真界は秩序を取り戻した。
 実に結構なことだ、と江曦臣は思う。ごろりと身体を横たえると小さな舟がきしんだ。遅れてちゃぷちゃぷと騒ぐ水音を聞きながら、夜空の月を見あげる。満月の少し手前のふくふくとした輝きが薄い雲をかぶってにじんでいる。このやわらかい光に照らされて人々は穏やかに眠っているのだろう。江曦臣はその姿を思い浮かべようとして、具体的な顔がひとつも挙がらないことに気づいた。あの人も、この人もいなくなってしまった。ああ、弟はきっとこの安寧をよろこんでいることだろう。彼は忙しいから、ふらふらと呆けている兄の様子を窺いにくることは多くない。
「…だれか……」
 こぼれ出たかすれ声。滑稽なほど情けなくて、笑ってしまう。そのまま江曦臣は身体を起こした。ぎぃとまた小舟が鳴って手に櫂の端が触れる。
「誰か」
 江曦臣は両手をにぎにぎと動かして、それから力強く夜に漕ぎ出した。
 あの夜から幾日経ったのだろうか。厚い雲に隠された月の形からはかることはできなかったが、特段困りはしない。江曦臣が時の流れに無頓着になったのは、それよりもずっと前からである。時ばかりでなく、あらゆることに注意が向かない。ふと気づけば人の声が聞こえた。
「朝、か…」
 仕事はじめのざわつきに、いつの間にかどこかの街にやってきたことを知る。住まいの湖から水がつながるところへ、選ぶでもなく舳を向けてきた。眩しい朝陽にぱちぱちと瞬きして、目が慣れてくると覚えのある景色だと気づいた。早くも枇杷売りの声がする、彩衣鎮である。
「ひと籠、おくれ」
 銀子を差し出しにっこりと微笑めば、たわわに実った枝が三つも入った籠を手渡された。明るい色に甘い懐かしさがこみあげる。あのときは結局食べなかったのに、不思議なものだ。久しぶりに心が浮ついたような気がして、江曦臣はこの地に立ってみようと決めた。
 舟を留めぶらぶらと通りを歩いているうちに随分と時間が過ぎていた。なんとも機嫌がいいことだ、と江曦臣は他人事のように思う。夕暮れの気配を感じて目についた適当な宿に入った。頼んでいないのに用意された酒を、せっかくだからちろりちろりと舐める。朝に買ってからずっとぶら下げていた枇杷は少しぬるくなっていたが、その分、甘い香りが強く立っていた。あの日、少年たちはこの実を食べたのだろうか。
 ふわりふわりと夢が揺れる。いや、揺れているのは身体か、頭か。飲みすぎたわけではないはずだ。江曦臣はのそりと身を起こした。目を開いてもぐらぐらとした感覚は抜けず、ずっと水上で寝起きしていたことの後遺症だとようやく気づく。舟に乗っている間は何ともなかったのに、陸に上がった途端に酔いそうになるとはおかしなものだ。くつくつと声が出る。すっかり目が覚めてしまって、寝台から抜け出した。
 開け放したままの窓から月光が差しこんでいる。明るいからきっと大きなまるい月なのだろう。ふと思い立って裂氷を手に取った。
「相変わらず、冷たいね」
 砕く氷もない季節でも、法器はつねにひやりとしている。しばらくぶりに触れる馴染んだ温度。まだ応えてくれるのかと、うれしく思って窓辺に座り簫を構える。ひとつ息を吸ったところで真夜中だと思い出す。吹きこむ空気にそっと霊力を絡ませた。これで並の人の耳には音として聞こえることはない。いつぶりか分からない演奏は江曦臣の心を乗せて静かに響いた。
 翌朝はひどい霧だった。夏も間近だというのに珍しい。窓枠にもたれたまま眠っていた江曦臣は、目覚めてからしばらくその景色を眺めていた。じっとりと衣が湿るほどであったけれど、江曦臣の心は重くはなかった。偽の舟酔いのような症状もすっかりおさまっている。浮かれるように外に出た。
 視界はひどいもので、道行く人と何度も肩をぶつけた。よけてよけて歩いていたら、いつの間にか山に足を踏み入れていた。霧はとうに晴れていたが、どことも知れない樹々の間を江曦臣はひたすら登った。水の上もよいが、森の中も悪くない。薄暗いところでざわざわと葉擦れに囲まれていると、思考を放棄することができた。しかし、その中にもかすかな水の音を見つけてしまう。
「川……、滝だ」
 流れが岩を強く打つ響きに誘われて木立ちを抜ける。月が照らす雲深不知処、その光景は蒼かった。
 静かだ。山を歩くうちに裏手に回ったらしく、眼前には建屋がいくつもあったが、どれもひっそりとしている。藍氏は再興し、門弟も昔のように増えているはずなのに、まるでここには誰もいないようだった。江曦臣はためらうこともなく敷地をさまよった。遠い記憶を頼りに石段を上がる。思い出と寸分違わぬ寒室で、冷たい瞳に出会った。
「藍、晩吟…」
 宗主の居室の扉は開かれ、藍澄は正しい姿勢で座っていた。彼はまるで息をしていないように見えた。玻璃でできたような静謐な姿。見つめ合った目が瞬かなければ、作り物だと思うところだった。
「藍宗主」
 呼びかけるともう一度瞬きをして、唇が薄く開いた。返事はない。
「私に、驚かないのだね」
「来ると思っていた」
「なぜ?」
「ゆうべあれだけ喧しくしておいて何を言う」
 想像より低い声が発した言葉に江曦臣は驚く。簫の音色には細工をしていて、術を上回る力がなければ聴こえないはずなのに。この人の耳には届いたのか。いつの間に力を高めていたのかと意外に思う。いや、もしかすると自分の実力が落ちているのかもしれない。揺らぐ江曦臣に気づいた風もなく、藍澄の問いが飛ぶ。
「答えろ、何をしに来た」
 深い考えなどなく、気がついたらここにいた。藍澄のいる孤高の地に。江曦臣はそのまま答えるしかない。
「あなたに会いに」
「雲深不知処は夜の出入りを禁じている」
 すらりと返されてしまった。目的を尋ねたくせに、何と答えても無駄ではないか。正しすぎることは理不尽に似ていると、かつて感じたことを思い出した。少年のころに見た藍家の指導者たちはみな迷いなく家規を口にし、そこには個人の快も不快も存在しないようだった。
 けれど、いま目の前にいる藍澄の眉間にはくっきりとしわが寄り、彼の感情を見せつけていた。もし玻璃でできていたとしたら割れてしまうな。想像して、江曦臣の唇がほころぶ。
「沢蕪君」
 声も随分ととげとげしい。江曦臣の口元ははっきりと笑みの形になる。
「では、」
 江曦臣は、微笑にすら苛立ったようすの藍澄を真正面から見つめる。
「私を罰して、藍晩吟」
 美しい瞳がまるく光る。雲深不知処では驚くことを禁ずる、という決まりはないのだろうか。あっても守るのは難しそうだ。
「藍澄」
「…気安いぞ」
「ああ、すまない」
 今度は怒ったような、いや、戸惑った顔を向けられている。もっと見たいと思った。
「あなたはここに、生きているのだね」
 心をそのまま表情にのせる藍澄はとても魅力的だった。静かに見えたこの人は、確かに硬くて研ぎ澄まされた高潔な男だ。けれど、その内側に熱を帯びた心を持っている。江曦臣は藍澄に強く憧れた。
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「柳郎泥」
初公開日: 2021年06月10日
最終更新日: 2021年06月10日
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