私は、知っている――――。
「あ、先生、丁度良かった。明日の課題出撃の話なんだが……」
「じゃ、俺はこの辺で。またなディミトリ」
「クロード? お前から話しかけておきながら……いや、また夜にな。先生? 話をしても?」
 彼の温度も、特別な者にだけに見せる熱を帯びた眼差しも――――。
 彼の体から香る匂いも、肌を重ねた温もりも――――。
「聞いてセンセイ! 最近彼が変わったのよ。誰って? うちの問題児だったクロード=フォン=リーガンよ」
「ほう。そう言えば、彼は吾輩とすれ違う時にもわざわざ立ち止まり一礼をするようになった。人が変わったようだと専らの噂だ」
「そうなの! 何でも真面目に取り組んでくれるようになったし、憑き物が落ちたかのようで……あらセンセイ? ここ最近彼を見かけていない? そお? 間が嚙み合わないのかしら?」
 巻き戻した時が再び刻み始めたのは、あの目安箱の一件の直後。二人の心がすれ違ったあの日。
 彼は癒えぬ傷を抱えたまま、私を避けるように暮らしている事も――――。
 私は知っている―――――。
 ベレスは今日も恙なく士官学校の講習を終えると、ひとり教室で日課の報告書を纏め始め、カリカリと筆が用紙を弾く音だけが静かな教室に響き渡る。
 あれから比較的穏やかな日常が続いていたのだが、一つ、青獅子の学級の中で大きな出来事が起きた。
 数節前の課題出撃で王国に属するロナート卿が反旗を翻し、動揺が走った生徒達の心の傷跡はまだまだ癒えてはいないというのに、立て続けに起こり続ける王国での争乱に、生徒達からは隠し切れない不安が漂う中で起きた次なる大騒動であった。
 ゴーティエ家の家督争乱。
 士官学校に在籍しているシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエの実兄であるマイクランが、王国内にはびこるならず者達を集めて盗賊団を作り上げ近隣周辺を荒らし回っているのだという。
 これを重くみたセイロス教会は「野放しには出来ない案件」とのことで青獅子の学級への次なる「課題出撃」という名目の元、彼らの討伐命令を下した。
 立て続けに巻き起こる自国の不祥事に、生徒達の面持ちはとても暗く日に日に近づいてくる課題出撃の前に何ともいいがたい空気が学級内を覆っていた。
 シルヴァンは平素は明るく朗らかな生徒であるが「うちの家族がすみませんねぇ……」と不意に見せた自らの弱さに耐えきれなかったのか、ベレスと対話をしている最中にも関わらず無理やりに話を終わらせてその場を後にしようとするものだから、ベレスは咄嗟に彼の腕を掴もうとするものの差し伸べた手を思い切り振り払われてしまった。
 
 ならずものの討伐自体はよくある話だ。今までだって何度もこなしてきた。ただ、自分の血を分けた家族であるという事の意味は重い。そして、その仲間達にとっても盗賊に身を窶す以前のマイクランを見知っている者もいる。
 先日のロナート卿の起こした謀反の討伐課題だって同じことだ。受け持つ生徒の「家族」だった。何故、青獅子の学級が所属するファーガス神聖王国の者達ばかりに関わる事件が立て続けに起こるのだろうか。
 課題としても過酷で戦いづらいそんな空気に、ベレスはどうしたら皆を導いていけるのだろうかと、一人静まり返った教室で答えの出ないくるしみと葛藤していた。
 シルヴァン。
 普段は明るく振舞っている彼が珍しく見せたその姿はベレスにとってとても印象的だった。皆の兄貴分だと自らをそう称しているだけあって、どんな時でも朗らかに立ち振る舞って皆を労り続けていたからだ。
「傭兵として、紋章を持ちながら紋章と無縁に生きて来たあんたを見てると……」
 そう言葉をくぐもらせて、無理にでも飲みこもうとしているものの、眼差しの中に刹那的に宿る憎しみのような光を向けた事をベレスは見逃さなかった。
 これが本当の彼。この子にも抱えきれないでいる心の闇がある……。
 そんな姿を見せたのもほんの束の間で、直ぐにいつもの陽気な彼に戻った。
「なーんてね、先生! 驚きました? 冗談ですよ、冗談。そんなに怖い顔しないでくださいよ。あ、俺、そろそろ用事がありますんでこの辺で」
 全てが曖昧なまま立ち去って行った彼の背中を目で追いながら、ベレスは彼が心に抱えている深い傷を垣間見た気がした。かける言葉が見つからなくて、ただただ小さくなりゆく背中を見送る事しか出来なかった。
 シルヴァンに限った事ではない、皆やはり何かの葛藤を抱えながら、それでも前を向いて歩んでいるのだ。
 気丈な者達が多いこの学級でベレスが導いてあげられる事は一体何であるのか……。
 完全に停止している筆をじっと眺めるが、やはり答えは見つからなかった。
 勢いよく立ち上がると、机の上に散らばった荷物をかき集めるように纏めて教室を後にした。
 夏の夜は高地であるガルグ=マク大修道院では、地上での日中のうだるような暑さとは打って変わって清涼な柔らかい風に包まれている。
 頬を撫ぜる風を浴びながらふと空を見上げると、天にはあの日見たような満月がぽつんと浮かんでいた。クロードはここにはいない。
 私は、独り――――。 
 そう思うだけで孤独が彼女をじわりじわりと襲うのを感じて「まずい」と思う。
 女神から与えられた時を巻き戻す力「天刻の拍動」で何もなかった世界に戻したのは自分の意志だった。そこに彼の意志は一切存在しなかったが、あの選択肢は間違ってはいなかったと今でも思っている。
 例え、彼が私に笑いかけてくれなくなったとしても。
 髪に、肌に、唇に、触れる事がなくなったとしても。
 あの奇跡のような瞬間を覚えているのが自分だけだったとしても。
 ――――天罰だと思って受け入れて行こうと誓ったのだ。
 迷いを絶ち切るように、ひと気が少なくなったガルグ=マク大修道院内を歩き出す。
 夕闇と静寂に包まれた足元に広がる石畳をあゆむ靴音だけがベレスの存在を証してゆく。
 背筋を伸ばして歩くと気持ちがしっかりとして心も凛とするから好きだ。
セイロス教を説くフォドラの中心に位置するガルク=マク大修道院は神聖な場所で、神の存在を示す場所。自分の中に宿る小さな女神ソティスから得た「時を戻す」力。
 全てを無かった事にしたあの日、何も知らないでいるクロードが寮へと戻る姿を静かに見送るベレスにソティスが贈った「阿呆が……」という声は、かつて過酷な傭兵時代に受けた罵詈雑言と比較したとしても人生の中で最も堪えた言葉だった。
 
「何処へゆくのです?」
 ベレスは、ふと小さく声をかけられたような気がして振り返ると、其処には大司教であるレアがこちらに向かい微笑んでいる姿があった。
 気配を感じなかった。それとも散漫になっていたのか。
 ここに来てからというもの今までの自分ではあり得ない事ばかり起きていて、しっかりしなければと内心ひやりとしていた。
 レアは傭兵だったベレスをこの士官学校の教師として据え置いた人物で、あまり面識はないというのにも関わらず彼女を高く評価し、そして何かと気にかけてくれる存在だった。
 このガルグ=マク大修道院を束ねる大司教として尊いその姿はまるで女神そのもののような人だった。
 そんなレアはじっと何もせず佇むベレスへとそっと優しく微笑むと柔らかな動きでゆっくりと手招きをしてみせた。
「何か悩みごとですか?」
「……どうしてそれを?」
「……こういう事は何となく分かるものです」
 他愛もない話をしながら、招かれたのは大司教の自室だった。
 緊張気味のベレスに向かいふわりとした笑みを浮かべると、小さなテーブルに据えられた椅子へと座るように促した。
 ベレスは初めて招かれる大司教の自室をゆっくりと物珍しそうに視線を泳がせているのを見て、レアはふふっと笑みをこぼし、彼女の前に淹れたばかりの紅茶の入った茶器を置いた。
 しばしの沈黙。それはとても静かで、遠くの大聖堂からは聖歌隊からのような美しい合唱の調べが小さく聞こえてくる。
 自分が普段身を置いている士官学校の喧騒とは打って変わって、時すらも流れる時間が異なるのではないかと思えるような不思議な空間だった。
 お茶を淹れるレアの衣類のこすれる音だけが静かな室内に響き渡るが、俯いていたベレスがゆっくりと面を上げると、正面に座るレアをじっと見つめた。
 何度も、何度も、繰り返し何かを発しようとしながらも言い出せないように唇が形を象るのをレアはただひたすらに微笑みながらそれを見守っていた。
「……どうして私を……教師に……?」
「子どもたちを導くのに相応しいと思ったからです」
 その言葉の意味は良く分からなかった。
 レアは事ある毎にそう言うが、自分はとても誰かを導ける様な、胸を張って歩めるような生き方を出来てはいなかったからだ。
 迷いを払うと言葉は、自分に言い聞かせている様なものもあった。
「……皆、明るく振舞っているようで、何かを抱えて苦しんでいて、何かをしてあげなくてはならないのに、それが何かも分からなくて……私は辛い」
「不安なのですね?」
 気弱な自分の心を咎められると思っていたのに、レアの口調はとても優しくて、その温かさのお陰で空気まで柔らかくなるような……そんな不思議な力を持っていた。赦されたような気がした。
「光が強くなれば、闇は濃くなるものです。輝きたいと願えば願うほどその作用は強さを増し、掲げる光が眩しくなれば抱える闇も濃くなるものです。皆の苦しみを少しでも和らげてあげる事が出来れば、それだけで人は救われるのだと……私はそう思うのです」
 優しい眼差しでこちらを見つめるレアが贈ってくれた宝石のような言葉の一つ一つを渇いた自分の心の中に並べていくと、自分の心の中に光り輝く何かが宿っていくようなそんな気がした。
「これから、あの子達は逃れる事の出来ない様々な試練と立ち向かっていく事になります……あまりの出来事に崩れ落ちてしまうような嘆きに身を包まれる事もあるでしょう。その時に、あなたが誰よりも傍で寄り添い支えてあげる事が出来たならば、きっとまた再び自らの足で立ち上がり前へと進む事が出来るように、どうか導いてあげてくださいね」
「……レア」
「大丈夫。あなたならきっと成し遂げられると信じていますよ。ベレス」
 レアに淹れて貰った紅茶は、今まで飲んだどの茶葉よりも美味しくて、渇いた自分の中の何かが満たされていくのを感じた。
「ぶえっくしょい……あー、散々な目に遭った。疲れたし、もう寝るかなぁ」
「はぁ? 何言ってんだよ明日は課題出撃だろ? それに準備だってまだなにも出来てないんだぞ。夕方皆と訓練場で待ち合わせ、まさか忘れてないだろうな?」
「おいおい、こんなにびしょびしょなのに濡れたままで準備をしろっていうのか? いくら夏とはいえ風邪ひいちまうって」
 その言葉に金鹿の学級の女生徒であるレオニーは、じとりとした視線でクロードを上から下まで眺めた。その眼差しにクロードは一瞬たじろいだ。
「皿洗いというよりかは水浴びって感じだな」
 士官学校での奉仕作業には、当番制で皿洗いも課せられているものがある。それは温室の水やりだったり、清掃活動であったり、そして食堂での奉仕作業など内容は多岐にわたる。
 金鹿の学級の生徒である本日の担当の生徒が体調不良を訴えた事で、急遽級長であるクロードが病欠の生徒の代わりに奉仕作業をしたとの事……だったが。
 彼には皿洗いの才能は皆無だったという事は誰がどうみても容易に想像できた。何故ならば、慌ただしそうに「奉仕作業の代理をする事になった」とだけ告げて教室を後にした彼だったが、再び現れた時には草臥れた様子で全身がずぶ濡れの姿を目の前に晒したからだ。
 髪や衣類からは途切れる事なく水が滴り落ち続けていた。
 バツの悪そうな彼の足元で小さな水たまりが徐々に海のようになりつつあるその光景を眺めて、呆れたような眼差しを送るのは同じ学級に籍を置くレオニーだった。
 彼を眺める彼女の呆れたような眼差しはとても煩わしそうではあったが、普段から級長らしくないこの彼とのやり取りにいい加減うんざりしながらも、何処となく鼻持ちならないように感じていた第一印象とは異なり、意外にも面倒見の良い彼の事は「割と嫌いではない」というのがレオニーの最近の心象だった。
「もうそろそろ皆との待ち合わせの時間だけど、せめてあんたが着替える時間くらいは待っていてやる事にするよ」
「へいへい、やさしいなレオニーさんは。その代わり明日の俺には期待しないでくれよな」
「何言ってんだよ! 級長であるあんたが一番働かなきゃならないんだからな!」
 そう言って加減せず叩かれた痛む背中を擦りながらもクロードは嬉しそうに声をあげて笑った。
 平民であるレオニーだが、貴族でありその最上位である公爵家の嫡子である彼に対してでも物怖じせず対話するその姿勢は、変に気遣われる事を嫌うクロードにとって嬉しいものであった。
 気楽な関係はありがたい。
 少しづつではあるが、クロードは自分の中に「心地よい」が生まれていく事に喜びを見いだせつつあった。
 まるで局地的に降り注いだ雨にでもうたれたかのような髪から滴る水滴を、クロードは雑に手櫛で梳いて切っていく。
 寮の前に広く作られている回廊を同じ金鹿の学級の生徒であるレオニーと肩を並べて歩く彼を、ほんの少し遠い所から視界で捉えたベレスは、久方ぶりの彼の姿に思わず脚を停めてじっと彼を目で追った。
 何故あれほどまでに濡れ切っているのかが不思議で堪らなくて、雨でも降ったのかと思わず空を仰いでみるものの、夏の空は何処までも青く照り付けるような日差しに目が眩み直ぐに彼へと視線を流した。
 金鹿の学級の級長。クロード=フォン=リーガン。
 あれから交差しなくなった彼との運命の行く先に、ベレスは胸の中にふつふつと不安が生まれてくるのを感じていた。居心地が悪い――――。
 空はこんなにも青いのに、胸の中はどんよりと曇り空のようだ。
 この広くて狭いガルグ=マク大修道院の中で、少しだけ遠くから彼を見守るのが今のベレスにとって密かな小さな歓びとなっていた。この気持ちも少しづつ、少しづつ整理していけばいい。
 
 その身に伝う水を切るその何気ない仕草でさえもどことなく育ちの良さを感じさせ、顎を伝う雫がぽたりと一滴零れ落ちていくのを見て、何故か胸の辺りが一瞬大きく波打ったような感覚を憶えた。
 今自分の身体に初めて生まれた衝撃に驚いて思わず胸の辺りを擦ってみせる。初めて体感する出来事に不安をおぼえて胸元を撫ぜるが何も変化のないいつも通りの自分の身体だ。
 身に覚えのない感覚が怖くて、ぐらぐらとする足元に不安に飲まれそうになる。
 普段はどんな時でも冷静に対応しているベレスが酷く「らしくない」自らの心の変化に戸惑っていると、一際大きなくしゃみが閑静な寮周辺に響き渡った。
「う~~、冷てえな……」
 全身ずぶ濡れの体が冷えたのか、体温がこれ以上逃げ出さないように両腕を抱きしめて小さく震える級長の姿を一瞥したレオニーは、自分の首にかかっていたタオルを手にとるとそれをビショビショに濡れた彼の頭にかけてあげた。その突飛な行動にクロードは「わっ」と小さく声をあげた。
 そんな驚いた様子のクロードの心中などお構いなしで、レオニーはまるで世話の焼ける弟の面倒でもみているかのように、クロードの髪をタオル越しにわしわしと掴んで乱雑に髪に滴る水分を拭い始めた。
「おいおいおい、どうせ拭ってくれるってんなら歴史的価値のある美術品でも扱うようにもっと優しく扱ってくれっての」
「何言ってんだ。自分が使った後だったから貸すのが恥ずかしかったんだけど、目の前で風邪を引かれたら後味悪いからな。もっと感謝しろよ」
「……ありがとな助かったよ」
 そう言って、面映ゆげに礼を言う彼の髪に触れながら照れ臭そうに濡れた髪を拭い続ける彼女の姿を見て、ベレスは先程よりも遥かに苦しく波打つ胸の感覚と自分の中に宿るモヤモヤとした感覚に戸惑った。
 ――――不快……というよりかは不愉快? 
 羨望? 怒り? 悲しみ? どれもこの気持ちに名前を付けたくても微妙に異なるのだ。
 この感覚が一体何に属するのかが分かりはしないが、ただ一つ痛い程理解している事は……。
 
 彼に触れる。それは私には、もう、赦されないことなのだ。
 ああ、いやだ。ここには居たくない。
 不安が自分をジワジワと包み込んでいくのがどうしてか分からない。目の前に広がる光景をこれ以上は見守る事は出来なかった。チクチクと騒めくこの感覚……。
 この自分の胸を穿つのは「痛み」なのだと気が付いた――――。
「みんな、それを表に出さないようにしているだけで、何かしらしがらみのような物を持っているしそれを上手に覆い隠してる。いままでも、これからでさえも、自分さえも騙して生きていく、そういうもんだ」
 あの時、遠い目の彼が囁いた言葉の意味を、こんな形で理解などしたくはなかった。
「すっかり遅くなっちゃったよね」
「ヒルダが悪いんですよ、雑談ばかりに夢中になって皆を巻き込むから」
「えーだって、戦いに備えるとかそんな重い空気のばっかりじゃ楽しくないじゃない? 折角みんなと仲良くなり始めたんだからさー。もっと学生らしい事で盛り上がなくっちゃ」
 いよいよ明日に迫った課題出撃の準備を終えた金鹿の学級の生徒達は、すっかり夜も更け静まり返ったガルグ=マク大修道院の中を連なって歩いていた。
 大修道院で寝食を共にした仲間達はクロードを中心に打ち解けはじめ、今では三学級の中でも和気藹々とし「なんだかいつでも楽しそう」という印象を持った学級へと変わりつつあった。
 クロードは少しだけ意地悪そうな表情を浮かべると、リシテアの横へと並び彼女だけに聞こえるようにひそひそと何かを耳打ちした。
「良かったなぁリシテア? 皆が一緒にいてくれるお陰でお化けが寄って来ないぞ?」
「~~~~っ! クロード! 許しませんよ!」
 ムキになって突然彼の腕を叩くリシテアと「ぶはっ」と笑い声をあげながら彼女の頭を撫でるクロード達を横目で見ながら「あーまたクロードくんってば、リシテアちゃんを揶揄って。懲りないんだから」と同じ学級の生徒達が呆れながらも楽しそうにはしゃいでいく。
 
 何気ない穏やかな日々がどれほど幸せな事か。と。自分に課せられている深夜の哨戒を行っていたベレスは賑やかな声色が寮の方へと少しづつ遠ざかっていくのを少しだけ見送ると再び、夜の闇の中を歩き始めた。
 月が雲に隠れて一寸先は闇のような歩きなれた道を感覚で歩いていく。いつもそうやって道を切り開いてきた。夜の闇は慣れっこだ。だが、今夜は少しだけ自分を取り巻く温度が低い気がした。
 心細いのは、彼という「光」を失ったからなのだろうか。忘れろ。忘れろ。と心の中で何度か唱えては自分に言い聞かせていく。
「あっ、いけね。マヌエラ先生に伝え忘れた事があった。今から追いかければ間に合うかもしれないな……。みんな悪いが先に返っててくれ」
「級長は大変ですね、お気を付けて」
 寮を目前に、まだやらねばならない事を思い出したクロードは皆に軽く挨拶をすると、今来た道を戻ろうとするが、士官学校の中庭を通れば近道だと気付くと闇の気配が濃いものの、比較的夜の目に慣れていたので迷うことなく道を選んだ。
 夏も終わりに差し掛かった夜の風は、ほんの少しの涼しさを纏い周辺の木々の騒めきを与える。
 今日は朝から風が強いな。天候は崩れる事はなさそうだが明日の金鹿の学級の課題出撃に支障が出なければいいんだが……。
 雲が覆い隠していた月が顔を出したのを眺めながらそんな事を思っていた。
 風が彼の気配を覆い隠すものだから……。気付かないでいたかも知れない。
士官学校の中庭に差し掛かったクロードは、目の前に広がる光景に思わず脚をとめた。
 士官学校校舎の金鹿の学級の前に設置されている中庭の椅子で、小さく小さく丸くなるようにベレスは両膝を抱えて座り込んでいた。
「――――っ?!」
 クロードは思わず声をあげそうになるのを無理やりに飲み込んで、月明かりが照らす彼女の意外な姿をほんの少し遠い所から食い入るように見つめた。泣いているこどものようだ。と思った。
 今までどんな出来事が起きたとしても、多角的に人となりを判断して「こいつはこういうやつだ」と割り切って来た。が。この先生が絡むと自分の中の「こころのかたち」がよく分からなくなる。
だから、冷静に判断出来るようになるまでほんの少しだけ距離を置く事にしたのだ。
 その先生が。夜に紛れて、人知れず身を縮こませている。
 まるで孤独に耐えるかのように――――。
 強い風が、胸に抱えた痛みもどこかに攫って行ってくれるさ……。
 弱るあの人に何か声をかけるべきかとも思ったが、彼女が独りでいる意味を何となく察したクロードは、言葉を呑み込むと風に紛れてその場をあとにした。
 今週末に課題出撃を行うのは金鹿の学級の生徒達だ。同じ節の同じ日に課題出撃に出た者達に万が一の事が起こらぬように、週を分けて奉仕作業を定められていた。万が一生徒達だけでは対応しきれない場合に備えてセイロス教団の者達がいち早くその場に駆けつける事が出来るようにするためだ。
 来週の終末は黒鷲の学級の生徒達による課題出撃。そしてその翌週が青獅子の学級のマイクラン討伐の課題出撃の日程となっていた。
 マヌエラ先生から聞く話によると、盗賊団によって被害を受けた近隣の農村での奉仕作業なのだという。比較的危険は伴わない作業だ。
「コナン塔は王国内のこの位置に存在する。周辺は森林が多いが伏兵が潜んでいる可能性も捨てきれない。今節の課題出撃にはギルベルト殿も随行してくれるとの事だ。生徒達の中には今回の出撃に大きな不安を抱いている者も少なくはない。彼の同行は大変心強い」
 どのように動くべきか、休暇ではあるが自学級の級長であるディミトリと二人、静かな教室で盗賊団の根城周辺の地理を頭の中へと叩きこんでいく。
 ベレスは考えうる事態に備えていくつかの案を淡々と細かく定めていく。
 それを隣で聞いていたディミトリはベレスが次々と対策を提案していく姿をぼんやりと眺めていた。
「……ディミトリ?」
 何かに気を取られている様子の彼の姿に、ベレスは怪訝そうな面持ちで確認の声をかけた。
 突然名を呼ばれたディミトリは、はっと我に返り間をあけて大きくため息をつくと「流石だな……」と苦笑する。
「先生は幼い頃よりジェラルト殿と共に傭兵として生き抜いてきたのだったな?」
「……そうだよ」
「年相応の生活をしたいと思った事は? ……いや何を言っているのだろう、すまない。変な事を聞いてしまった」
 素朴な疑問だったからだろうか、思わず口からついて出てしまった言葉にディミトリ自身も動揺を隠せはしなかった。
 年頃の娘が戦いに身を投じる事への疑問を抱かずにはいられなかったのは、自分達を上に立って導く存在である教師が静かさの中に宿る「何か」を潜ませている神秘性と恵まれた容姿を携えていたからだ。
 ディミトリの問いに、ベレスは少しだけ困った様な表情をみせた。
 感情の起伏が少ないベレスの変化は分かりにくいが、他の者よりも少しだけ長く共に歩んできたからだろうか、ディミトリはベレスの眼差しが遠くなった事に気が付いた。
「父と一緒に旅をしていた頃はあまり感じた事はなかったけれど、ここガルグ=マクに来てから、一体何が《 幸せ 》ということなのかを考えるようになった」
「俺達と共にするようになってから?」
「……うん。当たり前だと思っていた自分の世界だったけれど、違う運命もあったのかも知れないのかなと……思う時もある」
「……なんとなく分かる気もする。いや、俺の立場上そんな事を軽々しく口にしてはならないのかもしれないが」
「ふふ……。皆には秘密にしておく」
 自分より余裕のある大人なのだと思ってはいたのだが……。
 日が傾き始めた教室内で逆光を浴びながら瞳に憂いを宿すベレスの空気に飲みこまれていく。悲しみのなかに、僅かにディミトリに向けられた怒りを感じた気がして少しひやりとした汗が衣類の下の地肌を伝っていった気がした。
「自分の中にとても大事にしているものが二つあって、それをそれぞれからどちらか片方だけを選べと言われでもしたら……その時君はどうする?」
「……なに? どうしたんだ急に……。たとえ話はどうも苦手だ。その時になってみなければ分からないが……先生には……そんな経験が?」
「…………」
 ベレスは何も答えてはくれなかった。
 ディミトリは未だなお遠い眼差しの向こうに何かを見つめ続けるベレスの姿に言いようのない不安を覚えたが、虚空を眺めながらベレスの唇がこれからどんな言葉を紡ぐのをただじっと見守った。
「たとえ大切な人との時間を失ったとしても、私は一緒に過ごした大切な思い出をずっと心の中で守り続けていくよ」
 その言葉の意味は分からなかったが、かつて先生には自分の知らないであろう誰か大切な「誰か」がいて。何かを失い、表面上には出てはこないが、ひとたびその扉を開ければ嵐のように吹き荒ぶ心の中で独り何かと戦っているのだろうな……。と彼女の中に宿る静かな嘆きを感じた。
「こんな時間になってしまった。先生さえ良かったら一緒に夕食を取る事にしないか?」
 それは何気ない食事の誘いだった。
 よくある事だ。他の学級の担任も特定の生徒と食事をとる事はある。意思の疎通の円滑を図るためだという。
 食堂はガルグ=マク修道院の南に位置し、士官学校の生徒はもとよりその地に身を置く者達がこぞって利用している。教師だろうと生徒だろうと司祭だろうと商人だろうと平等に利用が許されている。教師と生徒が共に食事をとる事も何も不自然ではない。だからベレスはディミトリの誘いを受ける事にした。
 大きく作られた食堂に着くと賑々しい雰囲気に包まれていたが、いつもよりもにぎやかに感じたのは。今節の課題出撃を終えたばかりの金鹿の学級の生徒達がこぞって食事をしていたからだ。
 その中に、一際輝きを放ち人目を引くのはやはり級長であるクロードだった。食事の最中にも関わらず今日の課題出撃で起こった出来事を面白おかしく引き合いに出しては生徒達と顔を見合わせては笑い転げている。
「全く……あいつは何処にいてもすぐに分かるな、なあ、せんせ……」
 響き渡る馬鹿げた笑い声にディミトリは苦笑しながら隣に並ぶベレスに相槌を求めて振り返るが、ベレスのまなざしは先程教室で見かけた時の様に遥か遠く、思わずその姿を食い入るように見つめた。
 クロードを見つめている? 
 だがクロード本人では無く、彼のそのまた向こうの何かに想いを馳せているような何処か遠い世界を眺めるベレスの姿があった。
 先程自分に向けた悲しみの中に僅かに宿る静かな怒りと、彼を見つめる遠い眼差しを思い出して、ディミトリはふつふつと不安に襲われて体がぐらりと揺らめく感覚を憶えた。
「先生、こっちだ」
 心此処に在らずのベレスの背中にそっと手を添えたディミトリは、彼女を気取るようにゆっくりと歩き出した。
 配給された食事に手を取ると金鹿の学級の生徒達から少し遠い場所へと席を確保すると、ベレスと肩を並べて座る。
 ベレスはあまり感情を表に出さない人ではあったが、何処となく表情が暗い。そんな気がした。
 そんな探る様なディミトリの心中などお構いなしに、金鹿の学級の生徒達は今日の改題出撃での話に大いに盛り上がっていた。
 普段は士官学校の中だけで慎ましく生活している者達にとって、課題出撃というものは公式に大修道院の外に出るまたとない機会でもあるのだ。
 同じ事の繰り返しを続ける日々に比べてそれはとても大きな刺激になる。
 だから浮かれて話が持ち切りになるのは仕方ない。何処の学級でも課題出撃を終えれば皆一様に同じように話題に盛り上がるものだ。
 勿論、目を背けたくなるような課題の時もあるようだが、今回は、比較的楽しい時間となったようだった。
「あんときのヒルダは面白かったよな」
「だってあれは仕方ないじゃない、クロードくんのせいなんだからね」
「しっかしラファエルってすごいよな、まさかあんな事が出来るなんてさ、一緒に体験した仲間達の間で一生の語り草になるとおもうぜ?」
「言えてるよな! あんなの絶対忘れられないって」
 楽しそうな他学級の生徒達の会話を背中で聞きながら、ディミトリは隣に座るベレスを包む空気が次第に張りつめていくのを肌で感じていた。だが、表情はいつもと変わらない。
 あまり深く考えるのはよそう……。
 そう思い、出来たてで温かでありながら味のしない食事を義務的に口に運んでゆく。食事を終えてもなお何処か心此処に在らずのベレスの背中にそっと手を添えると、その感触にピクリと身を震わせたベレスが「……ディミトリ」と小さく呟いた。
「体調が優れないのなら、早く部屋へと戻ろう」
 心配そうな表情を浮かべるディミトリがそれだけ言うと、自分とベレスが食べ終えた食器の乗ったトレーを持ち上げて食堂の返却口へと運んでくれた。
 生徒に気遣われてしまった……。
 食堂に入るまでは何ともなかったというのに、二人の記憶は時が解決してくれると思ってはいたものの、当人を目の当たりにすると今でも動揺が隠せないでいる事に自分でも驚いた。
 彼の輝くようなあんな笑顔、今まで見た事がなかったからびっくりしただけだと言い聞かせてはいたが、自分の身体に感じるこの感覚の答えがやっぱり見つからなくて無意味に焦燥を感じていた。
「すまない待たせた。さ、先生、部屋まで送ろう」
 ディミトリは焦ったような表情を浮かべながら、先程同様にベレスの背中を片手で支えながら食堂をあとにしようとする。そっちには行きたくなかった。
 金鹿の学級の生徒達が座っているその横を通るのは……彼の傍に行くのは嫌だと、ベレスは強引に背中を押すディミトリに「やめて、大丈夫だから、ディミトリ」と小声で何度も語り掛けるが「そんなに青い顔色をしていながら何を言っている、こちらの方が先生の自室に近い」と一蹴しベレスの意見を受け入れはしなかった。
「全くお前らってやつらは最高だよ」
 そう楽しそうにしていたクロードが、徐に隣に座っていたヒルダとイグナーツの肩を抱き寄せて高笑いをあげた。急に抱き寄せられた生徒達からは「ちょっとー!!」と彼の突飛な行動を咎める声が上がった。
「急にやめてよー! 前から思ってたけどクロードくんてば、距離感おかしくない?」
「僕は好きですけどね。クロード君とこうやってはしゃぐのは楽しいです」
「おっ!イグナーツ、お前は俺の事を分かってくれるよな? ヒルダも見習ってくれよ」
「もー! 何をいって……あれ? せんせい? どうかしたんですか?」
 それはほんのささやかな疑問からの声だったと思う。
 青い顔をしたベレスと、その背中を支える青獅子の学級の級長であるディミトリのなんだかいつもと何処か違う様子に金鹿の学級の生徒であるヒルダが案の定いち早く気付き声をかけてきたのだ。
 こうなるのが分かっていたから、ずっと拒んでいたというのに。
 ベレスの心中をよそに、明らかに不自然な二人に金鹿の学級の生徒達の視線が集まっていく。
「……顔色が良くないです」
「疲れが溜まっていらっしゃるのですか?」
 皆が純粋に心配して声をかける中で、じっとその様子を眺めていたクロードの表情はもう先程のように楽しそうにはしておらず、何処か探る様な眼差しをしていた。その瞳を見て、ベレスは思わず身を震わせた。彼が瞳の中に不快を滲ませていたからだ。
「これはこれは。二人の邪魔しちまったか?」
 その言葉を聞いて一瞬「何の事だ?」と不思議そうな表情を浮かべていたディミトリだったが、自分の片手がベレスを支えている事を示唆しているのだと気付くと慌てて彼の言葉を打ち消した。
「クロード。変な言いがかりはやめてくれ。これは先生が具合が悪そうだったからであって他意はない」
 そう言い直すものの、クロードは「ふぅん」と生返事をするとディミトリの言葉に食い下がった。
「いやいやそうには見えなかったぜ? 随分と親睦を深めてるみたいにみえるけどな? いやあまったく羨ましいよ」
 口調は柔らかで揶揄っているようにも聞こえるし、周囲の生徒達にとってもいつも通りのクロードの軽口だと思って彼の発言を誰も気に留めはしなかった。が、その言葉を放つ彼が臨むのはベレスの瞳だけだった。
 彼は、私を咎めているのだ。
 そう思ったら胸の中で必死に覆い隠しかみ殺してきた言葉が堰を切ったように口からついて出た。
「君だって、普段から色んな異性と随分と親睦を深めているじゃないか」
「……おっ?」
 反論されるとは思っていなかったのか、クロードはいつもと違う彼女の反応に目を輝かせ始めた。
 いつも態度に、表情に、変化を見せないベレスが怒りと哀切のようなものを含ませていることに気が付いたからだ。握りしめた手のひらを僅かに震わせて、頬を少しだけ高揚させ、咎めているのだ。自分と他の異性とのやり取りの日々を。
 この人は普段のクロードの生活態度を知った上で。女の顔をして……。
彼女の言葉の意味に気付いたのもきっとクロードだけだった。
 それって、普段から俺を見てたって事だよな。
 ベレスの瞳に宿る「それ」にいち早く気付いたクロードは一瞬驚いた表情を浮かべたが、直ぐに満面の笑みへと切り替え抱きかかえたヒルダとイグナーツの肩にかけていた自分の両腕を解放させると「なるほど」とひとり呟き、片目をほんの少しだけ細めた。
「なんだ先生。あんた、もしかして妬いているのか?」
 ずっと出せないでいたこの感情の名前を教えてくれた彼の声色は酷く嬉しそうで。抱えきれないでいたこの思いは「嫉妬」なのだと知った。
Latest / 621:21
183:58
水月
ありがとうございます・・・!
196:15
水月
ありがとうございます・・・!
196:24
水月
今日はここまで。
196:42
水月
ジェラシらせました・・・!
376:13
水月
ありがとうございます!
562:08
水月
わ、♡ありがとうございます・・・!
572:04
水月
完成しました。
572:26
水月
描写を丁寧に加筆していきます・・・!
596:45
水月
できた・・・。
597:08
水月
見守ってくださりありがとうございました・・・!4話終了です。
598:01
水月
気付かされたより、知ったの方がいいかな…。
600:07
水月
600:09
水月
♡ありがとうございます・・・!
チャットコメント
文字サイズ
向き
Zephyranthes 星影
初公開日: 2021年04月05日
最終更新日: 2021年05月05日
ブックマーク
スキ!
チャットコメント表示
Zephyranthes 星影 第四話
Zephyranthes 嫉妬
Zephyranthes  第五話 嫉妬  
水月
Zephyranthes 涜聖 (後半
Zephyranthes 第三話 涜聖 後半です。
水月
憧月の子 1
0.今際の私怨 (プロローグ)1.呪縛 (二宮視点) 2.虚仮 (田山視点) が収録されています。…
オルリリ【14:00-14:30】
WEBオンリー企画「MioTesoro」様内で実施する30分テキストライブです。時間になったら配信開…
Amix