ℳ5
 湿った空気に、どこからか花のかおりが移ろっていた。
 午前中まで降り続いていた雨は止み、空はすっきりと晴れ渡っていた。遅れて顔を覗かせた太陽が、春のそれにしてはいささか眩しすぎるくらいだ。
 山姥切国広は目をすがめて、銀色に照り返すアスファルトの先を見た。ゆるやかな上り坂はカーブを描き、住宅地の奥へと続いている。車道と歩道の境目には等間隔で植えられた街路樹が並んでおり、それらはもう少し時期が進めば枝に緑を伴わせ、灰色の街並みに色を添えてくれるのだろう。ただ、残念ながら今は痩せこけた裸の枝ぶりばかりが目に付き、どこか侘しい風情だ。
 ぱしゃりと、革靴が水たまりを蹴った。
そのささやかな飛沫は、国広の履いているスラックスに跳ねて、裾に小さな染みを作ったのだが、当の本人は足元など気にも留めず歩き続けている。青年はどこか物憂げな表情を浮かべており、心ここにあらずといった様子だった。足元に注意を払うよりも、他に心寄せるものがあるのは明白だった。
 ところどころタイルの剥げた歩道をいくと、やがて住宅地の中にひときわ大きな建造物が見えてきた。シンプルな四角を基調とした建物で、四方の一辺のみ湾曲したシルエットとなっているのが印象的だ。近付くと、ちらほらと余所行きの格好をした人びとが目に留まるようになる。年齢層は三十代から五十代といったところか。エントランス付近に、淡い色のワンピースを着たご婦人が何人かで寄り集まっていた。春を意識させるような華やかな色を身にまとった彼女たちは、紅を引いた唇にこれから行われるコンサートへの期待を乗せており、それらの言葉の断片が、すれ違いざま国広の耳に入る。
「日本でのコンサートもこれで聞き納めかしら」
「来年にはウィーンですってねえ」
「今日まで日本にいたことが奇跡なほどですもの」
 知らず国広の顏が強張る。
 どうやら噂は本当であったらしい。
 冬の終わりに、たまたま手にとった音楽雑誌のコラムが思い出される。それは、若き天才ピアニストを紹介する短い記事であった。そこに写るよそゆきの笑顔を浮かべた自分とよく似た顔。そこには先達ての公演での演奏が素晴らしいものであったこと、彼の実力と先人の音楽家たちに鑑みれば、これ以上日本に留まるのはむつかしく、来春には彼が師事しているピアニストの在籍するウィーンへの渡墺が有力視されていること。若い彼の音楽の幅が広がることと今後の彼の活躍に期待したいという一文で締めくくられていた。
 エントランスホールにはすでに多くの人びとが集まっていた。じゅうぶんに暖房を効かせたロビーは暑いほどで、国広はコートを脱いで、折り畳み傘と共にそれらをクロークへと預けた。腕時計を確認すると、開演までにはまだ少し時間に余裕があった。さてどうしたものかと視線を巡らせた先に、併設のカフェテリアが目に入る。
「はい。兄弟宛てに届いてたよ」
 堀川から差し出された封筒を見て、国広は固まった。
 ちょうど午後も半ばを過ぎて、洗濯ものを取りこんでいたときだった。国広は畳の部屋で胡座をかき、それらを畳んでいるところだった。
 一瞬、世界から音が消える。
 それくらいの衝撃を、国広はその白い封筒を見るたびに味わう。
どこにでもある事務用の封筒だ。宛名のところが薄いセロファンになっており、本来であれば印刷されている宛名が手書きのそれであること以外、特筆する点はない。
緩慢な動きで封筒を受け取り、差出人を確認する。
「――」
 そのとき舌のうえに広がる苦味を。胸をゆるく締め付ける痛みを。なんと表現すればいいのだろう。
 国広は目を伏せたまま、封筒をそっと傍らに置いた。黄味がかった古ぼけた畳のうえ――封筒は白く、馴染まない。
 ふと、視線に気付いて顔をあげると、堀川がじっとこちらを見ていた。
 どうしたのだろうと首を傾げる。
 堀川は困ったように笑った。まるで、自分こそがその意味を探りあぐねているのだというように。
堀川は国広に向かいあうかたちで畳に腰を下ろした。
「行かないの?」
 その問いは、痛いほど国広の胸に響いた。
 いっそ恨めしく、衝動のまま兄をねめつける。
 だが、堀川は穏やかに笑うばかりだ。その視線は、国広ではなく、傍らの封筒へと注がれている。柔らかな視線はおそらく差出人へ向けてのものだ。そのことに気付いてしまい、国広は開きかけた口を閉ざした。静かにうめく。膝のうえで固く握った拳が微かに震える。その機敏を堀川が見ていたのかどうかはわからない。ただ、沈黙を破るように堀川が口を開いた。
「僕、長義さんのコンサートへ行ってきたんだ」
 国広はがばりと顔をあげた。
 零れんばかりに見開かれたビードロの瞳に、堀川はひどく穏やかに映っていた。夕日が差した頬が、少しだけ紅く染まってみえた。
「ごめんね。内緒で行ったりして。でも、一度聴いてみたかったんだ」
「いや……」
 国広は歯切れ悪く答えた。
 堀川の部屋の本棚にびっしりと詰められたCDケースを思い起こす。普段クラシック音楽など聴かない兄がわざわざチケットを購入して出掛けたのだと思うと、胸に詰まるものがあった。
 堀川が目を伏せた。
「それでね。行ってみてちょっとだけわかったことがあるっていうか……」そこで堀川は一旦言葉を区切った。唇を湿らせ、意を決したように顔をあげる。
「あのね。兄弟も、一度行ってみたらいいんじゃないかな!」
 国広は吃驚した。堀川の声がぞんがい大きかったからではない。その面差しが真剣そのものだったからだ。
「その、行きたくないっていう兄弟の気持ちもわかるけど、案外行ってみたら大丈夫かもしれないよ? 苦手だってずっと遠ざけていたものも、飛びこんでみたら案外平気だったってこともあるじゃない? そんな風にさ、行ってみたらなんだこんなものかって思えるかも」
 そこまで勢いに任せて言って、堀川はハッとしたように目を見開いた。国広の瞳がわずかな怯えを孕んで揺らいだように見えたからだ。いつの間にか乗り出していた身を引いて、そろりと頭を垂れた。
「ごめん」
「……いや、」
「でも、あの音を聞いたら、言わずには居られなかったんだ」
 堀川は顔をあげてはにかんだ。努めて明るく笑う。
「ごめんね。はじめてお節介、焼いちゃったね」
「そんなことはない」
 国広は慌てて言葉をかぶせた。少し落ち着いて、素直にそう思えた。逆にこの十二年よくぞ放っておいてくれたと、小さな感動さえあった。けれど心はうまくいかない。今しがた兄によって投げ入れられた言葉の数々が、国広の心に大きな波紋を残して絶えずさざめいていた。
 そんな国広の内心を推し量ったのだろうか。合わせていた視線を外すと、堀川はそろりと立ち上がった。
「じゃあ僕、夕飯の買い出しに行ってくるね」
 微笑んだ堀川は、もう普段どおりの兄であった。
「そうそう。山伏兄さん明日には帰ってくるって。さっき電話があった。母さんにも伝えておいて」
「ああ……」
 兄の背中を見送り、国広は手にしていたままの洗濯ものを畳に放った。
 すっかり西日の差した和室に、長い影が鬱蒼と入りこんできていた。ふと、近所の学校から下校時刻を告げるチャイムが響いてきた。空耳だろうか。そこに微かにピアノの音が混じって聞こえた気がした。
 長義と国広は双子の兄弟であった。
 二卵性の双子の例に漏れず、外見は瓜二つというほどではない。確かに並んでいると「そっくり」という形動詞がぴたりと当てはまるのだが、注視すれば顔の造形が異なっていることに気付ける。加えて二人の性格が見事に異なっていたということもあり、近しい者にとって二人を見分けることは造作もないことであった。
 長義は、母親譲りの勝気で人懐こい性格をしていた。対する国広は、引っ込み思案で、いつも兄である長義の背中にくっついて歩いているような子どもであった。何をするにも長義の後ろについて回り、長義もまたそれをよしとしていた。わかりやすく手の掛かる弟というものは、幼いながら長義の自尊心を満たすものであったのだろう。美形の兄弟が手を繋ぎ、どこへ行くのも何をするのも一緒のすがたはしばしば周囲を和ませた。実際、二人はとても仲の良い兄弟であったのだ。
 その関係が崩れたのは、小学校低学年のときであった。
 学校という箱庭の中、子どもたちに優劣がつけられていく。それは人間を推し量るうえで、ある一方の尺度にしかならないのだが、幼い子どもたちにとって、自分を庇護してくれる親や教師から与えられる優劣は絶対の尺度を持っていたし、それが己を定める価値観の全てといっても過言ではなかった。優越。劣等。羨望。僻み。それまで健やかだった子どもたちの心に、徐々に人間としての生々しい影がにじり寄る。
そうしてそれは長義と国広も例外ではなかった。
 長義と揃いで、おまけのようにピアノを習いはじめた国広がここのところ頭角を現してきた。今にして思えばそれは一過性のものであったし、この頃の子どもたちにとって多少の抜き差しは別段珍しいことではなかった。それでも、これまで何をするにも国広より優れていた長義が、はじめて国広に劣った瞬間でもあった。
 手にしたトロフィーはずしりと重く、眩いほどに輝いて見えた。
 それまで、長義、長義、と、兄を持て囃していた母親や講師の目がはじめて自分へと向けられた気がして、そのことは甘美に国広の胸を満たした。自分にも兄に勝るものが出来たのだと、歓びはひとしおであった。隣で笑う兄も、自分を祝ってくれている。愚かにも、そんな風に思ってしまったのだ。
 それが勘違いであったと思い知ったとき、既に長義と国広の歯車は噛み合わなくなっていた。あんなにも隣に居るのが当たり前だったのに、いつしか傍に居るとぎくしゃくして、互いに言葉が繋がらないようになった。そうしてそれがピアノのせいなのだと、国広が思い至るのは早かった。
 愚かだった。
 コンクールの演奏で、国広はわざと弾き間違えた。たった一音。それでも、二人の関係を叩き落とすには十分すぎる一音だった。それが取り返しのつかない間違いであったと、国広は長義の顔を見て思い知ることとなった。
 冴え冴えとした目。
 檀上で礼をする国広に、長義はひどく冷たい眼差しを向けていた。あの憎悪を孕んだ視線を、国広はきっと一生忘れることはない。
 あの日、コンクール会場の廊下で鉢合わせた兄に、国広は背中を向けて逃げ出した。
 以来、国広はずっと長義に背中を向けたままだ。
 間もなくして両親は離婚して、長義は母親、国広は父親にそれぞれ引き取られた。新しい母親はお世辞にも美人とは言えなかったが、心根の素直さがそのまま滲み出るとき、ときどきはっとするような綺麗な顔をするのが印象的だった。今にして思えば、父親は苛烈な性格の母親に疲れていたのだろう。父親は優しかったが、あの頃の笑顔にはいつもどこか翳りがあった。当時、あの広い家に漫然と漂っていた気だるげな空気を、幼い国広は肌で感じていたが、実のところ何ひとつ理解していなかったのだと、この頃は言えよう。
 とはいえ、彼らの間に愛がなかったわけではない。母は彼女なりの尺度で自分たち兄弟と父を愛してくれていたし、ただそれが父の望みと少しずれてしまっただけなのだ。そうして、母にとっての父もまた。
 新しい母親と兄弟は、国広に優しかった。
 彼らの明るい人柄とほどよい距離感が、国広にはとても心地よいものであったし、実際、甘やかされてきたという自覚もある。だから、余計に国広は長義のことを忘れたままでいることができた。否、本当はずっとその存在を感じていたのに、見ないまま――あの日の視線を受け止めきれずに今日まで来てしまった。
 長義から届くようになった封筒を、はじめ国広は恐れた。
 兄の真意がわからず、一体どういうつもりでこれを送ってくるのかと。何遍も、その字を見つめた。何遍も、見ないふりをして引き出しの奥深くにしまいこんだ。何遍も。何遍も。多くもないが、けして少なくもなかった、四年に渡る書簡の決着を。ようやく今日、国広はつけることにしたのだ。
 結局カフェテリアで頼んだコーヒーはそのほとんどを胃に収めることができず、開演の時間となった。冷え切ったコーヒーを最後に一口含む。ざらりと舌を撫でた苦味は、果たしてコーヒーのせいなのか。はたまた別の何かが要因だったのか。
 ホールに入り、着席したところで、国広は自分の手が冷え切っていることに気付いた。ほどよい空調によって満たされているはずの空間で、先ほどからずっと鳥肌が止まらないのだ。無意識に、ジャケット越しの腕をさする。ざわざわと、周囲の声が波間のように耳へと届くのが、まるで違う世界の出来事のようだった。舞台には、スポットライトを浴びたグランドピアノが一台。それをぼんやりと眺めていると、ふいにホールの照明が落とされ、人々のざわめきがその暗がりに吸い込まれるようにして消えた。代わりに生まれたのは、わずかばかりの緊張。期待と興奮とが入り混じった独特の静寂。国広の心臓が大きく跳ねた。
 やがて、舞台へ長義がその姿を現した。
 成長した兄は、客席へ向けて一度だけ礼をした。瞬間、目があったような気がした。そんな風に感じてしまった己を、国広は束の間恥じた。そんなはずないのに。
 長義は鍵盤と向かい合い、一度だけ息を吐いた。ホールを包む静寂は、そのあえかな息づかいをこちらにまで伝えてくるようだった。長義は静かだった。苛烈な印象ばかりが残っていたが、兄は本来落ち着いたどこか大人びた性格であったことを何故かこの時分に思い出す。
 最初の一音がホールに響く。
 それはさながら、まっさらな雪原にはじめて足を踏み入れるような緊張感と昂ぶりを備え、同時に、綻びはじめた花をやさしく愛でるように、ゆっくりと、その演奏は始まった。
 いったいどれほどの時間をピアノに捧げたのだろう。
 演奏が進むにつれ、国広が感じたのは、ただの事実だった。国広がいじけている間も、長義は一心にピアノと向かい合ったのだろう。天才などと簡単な言葉で囃し立てる一部の人間に、なにを馬鹿なことをと言ってやりたかった。この音は、長義が自らの手で掴みとったものだ。音は嘘を吐かない。これまで長義が積み重ね――そして犠牲にしてきたであろう多くの時間を思った。それはもはや信仰に近い。ひたむきに。いっそ健気なほど。けれども強欲に乞うたのだ。
 気付いたとき、国広の目からは涙が零れ落ちていた。
 長義の奏でる音に、ある種の恐れすら抱いた。そこにはなにも取り繕うものがないありのままの長義が居た。ありのまま、全てを曝け出した音が、国広の心臓へ直接響いてくる。それはどんな言葉よりも雄弁に、国広にすべてを物語っていた。
どうしようもなく揺さぶられる。
フォルティシモ。長義の指が、それまでとは異なり、力強く鍵盤を弾いた。連続する音の洪水に、圧倒され、呑まれていく。
その瞬間、国広の脳裏にある光景が蘇った。
よく晴れた日。窓辺に揺れるレースのカーテン。長義と国広はひとつの長椅子に腰掛け、ピアノを弾いていた。まだたどたどしい国広の音に合わせるように、長義がゆっくりと鍵盤に手を滑らす。小さな手だ。ほんの子どもの柔らかでまろい手。カーテンに光が反射して瞬いたその瞬間。長義の無邪気な笑顔が白く塗り潰され、すべてが白に呑まれた。
「ようやく来たね」
 控室のドアを開けた国広を見るや、長義はそんな風に声を掛けてきた。
 まるで十二年の歳月などなかったかのように、気軽な調子で微笑を浮かべる。
 ちっとも驚いた様子がないところを見ると、案外演奏前に目が合ったと感じたのは、国広の勘違いではなかったのかもしれない。長義は椅子に腰掛けたまま、国広と向かい合った。
 国広はどうしたものかと思った。
 衝動のままここまで来てしまったが、長義に会って何をしたいのか、何を言いたいのか、明確な展望があったわけではないのだ。
 戸惑う国広を見て、長義は一度だけ伸びをした。
「せっかくいい天気なんだ。すこし外へ出ようか」
 長義は堂々たる足どりでエントランスを抜けた。
 途中、まだホールに残っていた客が、驚いたように長義と国広を見ていたのだが、長義はどこ吹く風であった。なんともまあ潔いというか。人の視線に慣れているのだろうなと、国広は他人事のように思った。
 ホールを出て、しばらく無言で歩いた。
 表通りへ向かう道とは逆方向へ進んでいくと、程なくして長閑な広場へと出た。おそらく平素であればホールの職員たちがちょっとしたランチを楽しむような場所だ。タイルが敷き詰められたそこには、街路樹とベンチ、外灯とが点在していた。
今はどれもまだ微かに雨の気配を残している。長義は歩みを止めない。いったいどこへ向かおうというのか。またしばらく無言で歩いて、国広はようやく長義がただ当てもなく歩いているだけなのだと想い至る。
「長義」
 声をかけると、長義はようやく歩みを止め、国広を振り返った。その顔はひどく楽しげだ。上機嫌といっても差し支えないほどであったろう。国広は困惑する。長義がそのような表情を浮かべる理由に何一つ心当たりがなかったからだ。
「ずいぶん久しぶりだね」
 国広は応えなかったが、長義は構わず続けた。
「十二年ぶりだ」
 くつりと喉を鳴らす。
「何か言うことはないのかな?」
 こてりと首を傾げ、催促される。
「わざわざ控え室まで訪ねてきてくれたのだから、言いたいことのひとつでもあるのかと思ったのだけれど。違うのかな」
「それは……」
 国広は言い淀む。いざ言葉をかたちにしようと思うと、とたんにわからなくなる。いったい自分はどういった言葉を長義にかけたかったのか。惑う口元をおきざりにして、国広の脳裏にいくつもの情景が蘇る。それは走馬灯のように展開して、長義の冷たい視線で打ち切られる。ただ、今回はそこに続きがあった。あのホールで演奏する長義の姿だ。あの、光差す舞台。どうしてだろう。あの時あんなにも胸に溢れていた言葉は、今はもつれ、喉に絡まったまま出てこない。
 いつまで経っても言葉を発しない国広に、やがて長義は焦れたようだ。
「いくじなし」
 言い放ったその顔は、どこまでも楽しそうだ。びっくりして目を丸める国広に、背中を向けてまた歩き出してしまう。その顎はかすかに上向き、瞳には空を映していた。。
「俺はね。結構お前に言いたいことがあったんだよ。でもね。十二年も経つと、言いたいことも色褪せて、それが本当に言いたかったことなのか、それとも別に何か言いたいことがあるのか、よくわからなくなってきてね」
「……だから、チケットを送ったのか?」
 その問いに、長義は少し間を置いて答えた。
「半分は」
残り半分の可能性について、国広は束の間想いを馳せる。
「長義」
 国広はまっすぐに長義を見据えた。けして視線を逸らさないという強い意志をその目に宿して。その瞳に縫い留められるように、それまでのおどけた様子を仕舞い、長義が足を止めた。
「あんたに、どんな声を掛けたらいいのか、わからない。でも、会わなくてはと思った。あんたのピアノを聴いて。気付いたらまっすぐに控室まで駆け出していた」
 会いたかったんだと、国広は繰り返した。
 しばし、沈黙がふたりの間を満たした。先に視線を逸らしたのは長義の方であった。ふいと顔を逸らして――けれど、その視線をどこに固定したらいいのかわからなかったのだろう。微かに目を伏せたまま、長義は声だけで国広に向き合った。
「ひっどい言葉だな」
「……」
「それが四年も手紙を無視していた奴の言うことかよ」
「……それ、は……」
 その先は聞きたくないとばかりに、長義は鼻を鳴らし、手のひらを国広へ向けて突き出した。
「お前の言い訳はうんざりなんだよ」
「……」
 互いに言葉が繋がらなくなり、再び沈黙が落ちた。
 花の香りがする。もう春なんだなと、今更のように思った。長義の背後で水色の空がぐんぐんとその表情を変えていた。どうやら上空は風が吹いているらしい。
「お前さ、俺のこと、忘れてた?」
 ぽつりと落とされた声は、まるでひとひらの花びらのようであった。
 淡い色彩のそれは、はらりと国広の心に舞い込んだ。言葉を拾い上げ、まじまじと陽にかざしてみて、国広はたった今手にしたそれが、己の中でどのような色を伴っていたのかを吟味した。
 しばらくして、「忘れようとした」と国広は素直に答えた。 
 あんまりな言葉である。怒号が飛んでくるかと思いきや、長義は皮肉げに笑っただけであった。
「なんだ、俺と一緒か」
 それは、紛れもない安堵であった。奇妙なことだが、そのときふたりは確かにその感情を共有したのだ。
「長義」
「なんだよ」
「その、チケット――」
 ありがとうと続けようとした国広は、瞬時喉を詰まらせた。
 長義が一転して厳しい目を国広へ向けたからである。
 その目に確かに籠められた憎悪を見て、国広はたちまちに十二年前のあの日を思い出した。ひゅっと息が詰まる。そうして思い知る。長義はけしてあの日のことを許していないのだと。ぎらぎらと凍てつく瞳に、国広はやがて静かに頭を垂れた。
「すまん」
「……」
 謝罪を受け取らないまま、長義は微かに舌打ちをした。
 早鐘のような心臓の音を、耳の奥で聞きながら、国広が長義の様子を伺うと、長義はひどく苛立った顔をしていた。ただ、その怒りの裏にわずかな悲しみのようなものが滲んでいるような気がしたのは何故だったのだろう。
「ありがとうなんて言ったら殺してやる」
 比喩ではなく、それは長義の本心なのだろう。国広はただ一言「わかった」とだけ返した。
「わかってんじゃねえよ」
「さすがに理不尽すぎないか?」
 長義はそれには答えず、ただ剣呑なひとみを国広へと向けた。「まあいい」と、苦々しい声が漏れる。ここまで心が伴わない言葉もない。だが、余計なことは言わずに、国広はじっと長義を見た。往々にして言葉足らずの国広であったが、このときばかりは言葉を生み出さないことが正解のような気がしてならなかった。
 やがて長義は溜息を吐いた。
 長い、長い、溜息だった。そこには十二年という歳月が確かに横たわっていた。ふと、長義との距離を思う。半径にしておおよそ5メートル。その、けして近くもないが、遠くもない――だが、向かい合って話すふたりにしてはあまりにも遠すぎる距離が、そのままふたりの心の距離なのだと思った。
「携帯、寄越せ」
 しばらくして長義がそう言った。
 国広は言われるまま、尻ポケットに突っこんであった携帯端末を長義に渡した。無言のまま端末を操作していた長義が、やがて携帯を投げて寄越した。ゆるやかな放物線を描いて戻ってきたそれを、国広は慌ててキャッチした。「おい!」と思わず非難めいた声があがる。
「画面が割れたらどうする!」
「割れなかっただろ」
 しれっと言う。結果論だ。腹が立ち、苛立ちのままに長義を見れば、男はどこか愉しそうに国広を見て、唇の端を吊り上げた。
「俺の連絡先」
 国広の手元を指さして、
「入れておいてやったから。今度はお前から連絡しろよ。そうしたら会ってやる」
 言い放ち、笑った。その笑みはいっそ鮮やかなほど国広の虹彩に焼き付いた。
でいるその表情が何を意味するのかわからないまま、国広は一歩、長義へと歩み寄った。
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初公開日: 2021年02月26日
最終更新日: 2021年02月26日
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