執筆記録:
執筆時間62:29(1時間02分29秒)
本文4137文字/103行。総執筆数8724(内訳:追加文字数6592/削除文字数2132)。
ショートショート。
【秘伝の湯】
 作家仲間と温泉に行った。同性二人での旅行である。
 互いに新作に行き詰まっており、ボツを量産している。売れたいとの思いから売れ線の影響を多分に受けた物語しかつむげなくなりつつあり、このままではいかんと息抜きに行こうと誘われたので、では、と重い腰をあげたわけだが、じつを言えば温泉に浸かりにでかけている場合ではない。締め切りはもうすぐそこ、目と鼻の先に迫っていた。
 まるで死神のごとく鎌を構えて見える。
 もはやつぎはないのだ、つぎで売れなければこんどこそ出版社からは縁を切られる。売れないのだから致し方ないとはいえ、せめてあと一作、渾身の物語を世に送りだしたい。それすら叶わずに筆をしばし擱くはめになるのは避けたかった。
「このままだと例の作家みたいに失踪してしまい兼ねない」数年前に姿を消した大御所作家がいた。未だ見つかっていないが、失踪したくなる気持ちはよく解った。「じぶんでもこのごろよく思うんだ。消えてなくなれたらどれだけ楽だろうかと」
「縁起でもないこと言うなよ。だったらちょうどいいじゃないか。ここの温泉はネタづくりにもってこいでね。きっと浸かればいい案が浮かぶよ」作家仲間たる根田利(ねたり)洋山(ようさん)は旅館の暖簾をくぐる。「僕もよくここにはくるんだ。ネタに詰まったらね」
「きみはいいよ。まだ安泰だ。売れているし、何より筆が速い。無理をして私なぞに合わせてくれなくともよいのだよ」
「合わせてなどいないよ。僕だってなかなか案が煮詰まらなくてここにきたのだからね。じつを言うと、これまでの作品はすべてここで思いついたと言ってもよいくらいでね」
「そういうことにしておこう」いくらなんでもそこまで都合のよいことは現実には起きない。虚構を生業とする者だからこそ人一倍、そうした非科学的なことには敏感だ。
「嘘じゃないんだよ。きみも温泉に浸かってみれば分かるさ」
 太鼓判を捺して、洋山は受付で鍵を受け取る。我々はお手伝いさんのあとについて部屋まで辿り着き、お茶もそこそこに、さっそく温泉に入りに向かった。
 結果から言えば、たいへんによい湯であった。濁り湯とでも言えばよいのだろうか、指一本見えなくなるほどに色の濃い湯で、粘着質でもあり、一見すると泥のようでもあった。
 沸騰しているわけではないのだろうが、ぽこぽこと気泡が浮かび、表面にて破裂する。まるで見た目はマグマかチョコレートである。
「栄養価が高いからね。口に含んでもいいよ」
「ほかに客はいないようだな」
「そりゃあね。ここは本当に特別なひとしか入れないんだ。僕は運がよかった。前のひとから席を譲ってもらえたからね」
「会員制なのか」初耳だった。「高いのではないか」と宿泊費を心配するが、きみは気にしなくていい、と洋山は言う。
「ここにきてこうして湯に浸かってくれるだけで僕ぁうれしいんだ」
「なんかわるいな」
「いいってことよ」
 ひとしきり談笑すると、ややあってから彼はさきにあがっているよ、と言い残し、そそくさと湯からあがった。
 この湯は露天風呂で、屋内には透明な湯を張ったべつの温泉がある。彼はそちらに浸かりに行ったようだ。
「こっちのほうが効用があると言っていたくせに」
 飽き性だからな、と彼の性格を思い、なにゆえそんな男からああもたくさんの閃きをが生まれるのかと瞠目を禁じえない。感心よりもいまは妬心が湧くが、そのギトギトした感情すら湯に溶けて消えていくようだ。
 極楽、極楽。
 知れず口ずさんでおり、久方ぶりに息の吐けた心地がした。
 そろそろのぼせそうだ。
 湯からあがろうとしたところで、勃然と閃きの濁流が襲った。まるで知らない風景がのべつまくなしに脳裏に巡り、それらが映画を眺めるように多重に物語を展開する。
 同時にいくつもの物語を味わうようにして、気づくと脳内には極上の物語の原石が現れていた。
 膨大な情報量だ。
 ちょっとの刺激でも忘却の彼方に沈んでしまいそうで、割れてしまいそうで、崩れてしまいそうだった。
「さきにあがってる」
 言い残し、洋山を浴場に置き去りにして部屋に戻った。
 そこからは作品が仕上がるまで、ほとんどほかの景色は目につかなかった。
 三日三晩、執筆にとりかかり、四日目の朝にして打鍵の手を止める。
「できた」
「そりゃよかったな」
 ほいよ。
 そばには洋山がおり、缶ビールを差しだしてくる。受け取り一息にあおった。喉がからからだった。記憶の断片に、彼が定期的に飲み物や食べ物をテーブルのうえに置いてくれていたのを憶えている。
「すごい集中力だったね」彼は微笑ましそうに言った。
「それはもう、初期衝動を思いだしたようだよ。執筆が楽しくて仕方なかった」
「それはいい」
 彼は彼で筆が進んでいたようだ。ここに来る前にいくぶん原稿を埋めていたようで、彼のほうが先に物語を閉じていた。
「打ち上げだ。きょうは、ぱぁっと羽目を外そう」
 彼の言葉に甘えることにする。解放感と達成感にぴりぴりと痺れる頭脳に、良質なアルコールとご馳走の美味の刺激をたんまりと与えた。 
「ここの湯は本当に効果があるんだな。疑っていたよ」
「ほかのやつらには内緒だよ。きみだから明かしたんだから」
「私はよい友を持った」
「それは僕のほうこそだ。きみが友人でよかったよ」
 あとで互いの作品を読みあって、感想戦をすることにした。
「その前に疲れたんじゃないかい、もういちど湯に浸かってきたらどうだろ。この時間帯は、かなり湯が濃いんだ。もっとよいアイディアが浮かぶかもしれないよ」
「それはいい。せっかくだ、一年分のネタを閃いてこよう」
「いいぞ、その調子だ」
 洋山は囃し立ててから、そうそう、と何でもないふうに、「立ち入り禁止の看板がでているかもしれないけれど、入っちゃってもだいじょうぶだから」と言い足した。
「掃除の時間なんだろうか」
「単に、湯の効能が上がっちゃうからだよ。効果覿面すぎると、いまきみが言ったように、一年分の閃きを与えてしまうだろ。そしたら旅館のほうは商売あがったりだ」
「それはそうだ」
「僕は特別に入ってもよい許可をもらっているから、きみもだいじょうぶだ。でもいちおう、こっそりひと目を忍んで入るといい」
 ふだんならばここで、そこまでするならやめておこうと、言っていただろう。しかし現に湯の効能を知ってしまった以上、あとには引けない。
 それこそあとがないのだ。作家生命を延ばすためならば、いくらでも湯に浸かってみせよう。
「洋山くんはいいのか」
「僕はもう充分入ってストックがある。湯の成分が薄れても困るだろ、きょうはきみが存分に浴びてくるといい」
「ありがとう」
 口にしてからもういちど、ありがとう、と言った。本心から、よい友を持った、と思った。
「やめてくれよ、なんだか気が滅入るだろ」
 洋山は言ったが、なんて謙虚なやつなんだ、と彼を見直す以外の所感をこのときは抱けなかった。
 特別な湯だからか、閃きの源泉は、一般客の使用する大浴場とは正反対に位置する。
 こそこそするまでもなく、誰の目にもつかずに辿り着いた。
 扉には、この時間帯危険につき利用禁止、の貼り紙がされていた。何がどう危険なのかは分からないが、こうした貼り紙は往々にして紋切り型だと決まっている。危険と書いておけばこっそり入る輩もいないだろうとの魂胆だろう。我田引水にそうと判じて、脱衣所に忍び込み、裸になって、露天風呂たる閃きの源泉へと身を浸した。
 ひりひりと心地よい。
 昼間よりも温度が高いのかもしれない。
 低温火傷を懸念して、この時間帯の利用を禁じているのかもしれないと思い至る。さもありなんだ。
 昼間に脱稿してから起きっぱなしでさすがに目が疲れている。だいいち、この三日間、ろくに睡眠をとらなかった。いまこうして起きていられるのがふしぎなくらいだが、それほどに恍惚として体験だった。
 創作は楽しい。
 純粋に楽しい。
 この経験を毎度のように得られるのならば、出版社から縁切りされても構わないと、半ば本気でそう思った。
 湯に疲れが溶けこむように、しだいに全身から力が抜けていく。
 気持ちよい。
 極楽、極楽。
 つぶやいたところで、またもや脳裏に、見知らぬ光景が、まるで映画の一幕のように怒涛となって押し寄せた。
 あまりに鮮明な光景ばかりなので、誰かの記憶を覗き観ているみたいだな、と小説家らしい妄想を浮かべたが、徐々に眉間にちからがこもり、おやおや、と脳裏によぎって途絶えない様々な閃き、その光景に意識を差し向ける。
 光景のなかには、この温泉の景色も含まれていた。
 そばには洋山がいる。
 もしやこれはじぶんの記憶だろうかと訝しむが、そうではないとすぐに見抜く。泥のような湯には、じぶんのものではない顔が映っていた。まるで湖面を覗きこむように、そこには、失踪した大御所作家の顔が映りこんでいた。
 洋山は大御所作家と仲睦まじそうに語りあっているが、間もなく湯船からあがり、姿を消した。
 湯に残されたのは大御所作家一人きりだ。
 しかし彼は間もなく、湯に溶けるように跡形もなく消えてしまった。
 沈んでしまったのだろうか。
 いいや、そうではない。
 彼の腕や指が、熱したフライパンに落としたバターのごとく融けていた。温泉の表面には油さながらにその残滓が広がり、それと共に徐々に低くなる視点が、湯のなかに沈みこむまで順繰りと映像となってつづく。
 瞼の裏にくすぶる闇のごとく、それは否応なく脳裏にかってに流れこんでくる。閃きの洪水と同じだ。しかしそれらは閃きではない。元からそれらがじぶんのものではないほかの者たちの記憶であっただけのことである。
 何が閃きの源泉だ。
 人間を融かして、残滓を糧に、他人のものを掠め盗っていただけではないか。
 抗議してやる。
 いざ湯から立ちあがろうとするが、足に力が入らない。身体を支えようと両手を湯の底につけようとするのだが、その腕すら自由に動かせないようである。
 どうなっている。
 混乱に溺れながら泥のような湯を覗きこむと、そこにはいままさに鼻梁がどろりと滑り落ちて、露わとなった二つの深い縦穴が映りこんでいた。
 つぎつぎに顔から剥がれ落ちていく皮膚と肉は、湯に音もなく埋もれる。あとには死神がごとく形相の、作家の成れの果てが、ゆっくりと湯に馴染んでいく。
推敲は後日します。半年は寝かせてからしたいと思います。
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向き
秘伝の湯
初公開日: 2021年01月18日
最終更新日: 2021年01月19日
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