いつもの店のいつもの席に座り、ノートパソコンの画面を見つめたまま、義勇は深いため息をついた。
 愁いを帯びた横顔は、通りかかった歩行者が見ていたのなら、きっと息を飲んだだろう。もしもそれが少女であれば、黄色い声を上げたかもしれない。かすかに寄せられた眉。ため息を吐き出した唇はうっすらと開かれている。いくぶん伏せた目元は、長いまつ毛が影を作り、いかにも悩ましげだ。
 当の本人は自分の容姿には無頓着と言っていいし、やたらと注目されるのも好かない。だが、美貌の青年であるのに違いはなく、そんな義勇が色香すら感じられるほどの憂い顔など晒せば、どうしたって衆目を集めてしまう。
 幸いというべきか、義勇の専用席ともなっているこの席は、並べられた観葉植物の鉢植えが壁代わりになっていて、ほかの客の視線をさえぎってくれる。レジ前からは見える席だが、常連はすでに義勇の習性を飲みこんでいるから、一々視線を向ける者は滅多にいない。大きな窓に下げられたブラインドも、スラットを開いてはいるけれども十分目隠しになっている。
 義勇がこの店を訪れだした当初、この窓にブラインドはかかっていなかった。イートインスペースの座席はすべて窓際にあるのだが、ブラインドを設置してあるのはこの席だけだ。義勇が要望したわけではなかったが、通りから見られるのが難点だと思っていたのを見抜かれたらしい。通い出して三ヶ月ほどした夏のある日、ナチュラルウッドのブラインドがいきなりかかっていた。
 当時は特に気にしていなかったが、通りからの視線が気になる義勇のためであるのは、疑いようがない。
 義勇が人目を気にせず執筆に集中したり、こんなふうに懊悩していられるのは、店側の善意――というよりも、是が非でもこの席に義勇を引き留めたい約一名による、涙ぐましい努力の結果である。
 見られたところで、常連客の多いこの店ではさして問題はないのだけれど、落ち込んでいる姿を晒すのは勘弁願いたいところだ。鉢植えやブラインドを設置してくれた相手に感謝すべきだろうと義勇も思う。
 しかし、煩悶の原因もまた、紛うかたなくその相手なのだ。
 開かれたワードに綴られた文章は、先ほどから増えては減りを繰り返している。いくら書いても納得がいかず、少し書いては削除しての連続で、どうにも進む気配がない。スランプという言葉が脳裏に浮かぶが、この状態を言い表すのに用いるのはおこがましすぎるだろうと、義勇は肩を落とした。
 文章が浮かばないわけではない。ただ自分や編集部が望むような展開には、どうしてもなってくれないだけで、書くこと自体につまづいているわけではなかった。
 もしも依頼が異なれば、かつてないほどの執筆スピードで、作品を量産できるのではないだろうか。そう感じるくらいには、ある特定の内容に特化すれば、いくらでも書ける自信が義勇にはある。多分、いや、絶対に褒められたことではないが。
 我ながら重症だ。
 思いつつ、義勇は、酷使した目を少しでも癒すべく眉間を揉んだ。無意識にまたため息がこぼれる。
 冨岡義勇という男のプロフィールから、職業・作家という文言は外せないだろう。ジャンルは主に恋愛小説。自身の身分を保証する団体を持たぬ、先の見えない自由業である。世間一般的に通りのいい肩書としては、大学生。誰もが知っている有名な一流大学ではないが、それなりに名の知れた学校だから、アンケートなどに答えねばならないときには学生で通している。
 だが、それも期間限定だ。留年する気はないし、院に進むつもりもない。この春に大学四年生になった義勇が、学生を名乗れるのは今年度限りである。卒業後は、作家一本で暮らしていくことになる。
 幸いなことに、義勇の著作はそれなりの評価を得てはいる。だが、それだって書けていればこそだ。書けない状態がこのまま続けば、執筆依頼もこなくなるかもしれない。まかり間違えば、いつの間にやら根無し草なんてことにもなりかねないと、義勇は知らず背を震わせた。
 そうならないためにも、依頼は確実にこなさなければならない。書けませんなど言おうものなら、ベストセラーと呼べる作品をまだ持たない義勇など、昨今の不況の風吹く出版業界から、早晩見向きもされなくなること必至である。
 多少見栄を張っていいのなら、売れっ子とまではいかないが固定読者はそこそこいるし、コンスタントに新作を発行できるぐらいには人気もあると、義勇自身も思ってはいる。
 とはいえ、あくまでもそこそこだ。顔出しを心底嫌がる義勇は、宣伝活動に乗り気ではない。インタビューでも写真はかたくなに拒んでいるし、著者近影すら断り続けている。去年から付き合いのある出版社の担当編集者からは、写真を載せれば顔で売れるだろうなどと、褒めているんだか貶しているんだかわからぬことをネチネチと言われたりするが、嫌なものは嫌だ。
 早世した両親の遺産のおかげで食うに困ることはないから、よしんば仕事を干されたところで、生きてはいける。しかし小説を書くことは、義勇にとってはすでに生き甲斐なのだ。また、卒業後に曲がりなりにも社会人を名乗るためにも、小説家というのは、決して失うわけにはいかない肩書であった。
 後者について理由を問われれば、無職というのはかわいい恋人の家族や、幼馴染で親友な夫婦の手前、さすがに気まずいという、幾分情けない心情に尽きるのだが。
 あぁ、そろそろ桜も終わりだな。
 淡いピンクの花弁をハラハラ散らしている街路樹をブラインドの隙間から眺め、すっかり手を止めた義勇は、幾度目かのため息を漏らした。
 義勇に生まれて初めて恋人と呼べる相手ができたのは、去年のクリスマスイブだった。
 決してモテなかったからじゃない。中学から大学まで、学生時代を振り返れば、告白されたことは人並み以上にある。もっとも、それらはほぼすべて義勇の性的指向から外れる女性からなので、義勇にとっては一切無意味ではあったけれど。
 義勇はゲイだ。同性にしか恋愛感情も肉欲も向かうことはない。恋愛感情については、生まれてこのかた、たったふたりにしか抱いたことがないけれど、肉欲に関しては数えきれないほどの相手と経験がある。相手に困ったことは一度もない。義勇がハッテン場に顔を出せば、とたんに男たちは色めきだつのが常だった。義勇はそんな男たちのなかから、一晩限りの性欲処理として条件にあう相手をえらぶだけで良かった。
 あくまでも過去形だ。今の義勇は、ハッテン場には一切顔を出していない。
 義勇にとってセックスとは、浅ましい劣情や報われない恋心が生みだす醜い嫉妬を晴らすための、溝浚いでしかなかった。だから、今の義勇にはそれをする理由がない。
 いや、厳密に言えばないわけではないのだが。
 観葉植物の隙間からちらりと視線を走らせた店内に、看板息子である炭治郎の姿は見えない。代わりに妹の禰豆子や弟の竹雄が、パンの補充やら会計やらに忙しなく動き回っている。
 高校二年生となった炭治郎は、今年度の文化祭実行委員にえらばれてしまったとかで、四月になってからやたらと忙しそうだ。
 炭治郎の通う学校は中高一貫で、文化祭や体育祭は中高合同で開催される。バザーやフリーマーケットなども大々的に行われるせいか、近隣の主婦までもが掘り出し物目当てに詰めかける、一般にも人気の催しだ。
 文化祭自体は十月で、まだ半年も間がある。それなのに四月の今から忙しいとはなんとも気の早いことだが、この時期から準備を始めないと到底間に合わないのは、義勇も知っている。なんともなれば、金土と二日連続で開催した文化祭の翌日である日曜日に体育祭が行われるという、過酷としか言いようのないスケジュールなのだ。
 しかも、文化祭には出し物の人気投票があり、上位グループには学校側からご褒美が出る。一位の賞金、なんと学食の食券五万円分。そりゃあ日頃から腹を空かせまくった中高生は、張り切るに決まっている。だからどのクラスも部活も、頭をひねりまくり知恵を絞り、大学の学祭もかくやと言うお祭り騒ぎになるのだ。
 そうなれば来場者の数も並大抵のものではなく、安全面への考慮もしなければならないし、各種届け出もせねばならず、その下調べだけでも時間がいる。おまけに同時進行で体育祭の準備もしなければならない。体育祭のほうにも同様に一位のクラスには賞金が出るから、そちらもまったく手が抜けない。ようは鼻先に人参をぶら下げられた馬である。ひたすら走るよりほかない状況だ。
 ともあれ、そんな文化祭であるから、実行委員ともなれば多忙を極めることこの上なく、へたばり具合は年末進行の編集者とタメを張れるほどである。しかも半年もつづくデスマーチだ。若さと夏休みをはさむ分、少しはマシなのかもしれないが。
 義勇がなぜ炭治郎の学校の文化祭事情に詳しいのかと言えば、話は簡単だ。炭治郎が通う学校は、義勇の母校なのだ。
 中学から六年間通った学校は、義勇が卒業した次の年度から制服が替わり、炭治郎の制服姿を見ても特に郷愁を誘われることはない。だが、文化祭の話はやはり懐かしい。頑張りますから、よかったら来てくださいねと笑った炭治郎は、かわいかった。まさか実行委員がこれほど忙しいとは、高校からの外部入学だという炭治郎は、思ってもみなかったかもしれないが。
 ハードスケジュールな炭治郎の体調やらへの心配は別として、十月ならば時期的に、義勇も卒論の準備にかからねばならない。とはいえ、恋人の誘いならば行くのもやぶさかではない。というか、ぶっちゃけ楽しみだったりもする。
 だがそれも、半年も先の話だ。今は年末からつづくスランプのほうが一大事である。
 年末と言えば、と、義勇はつらつらと浮かんできた連想に、思わず頬を緩ませた。が、その笑みもすぐにスンッと消える。
 思い出は確かに幸せなものではあるのだが、反面、義勇にとっては、思い出すのもいたたまれない代物だったりもするのだ。
 去年のクリスマスイブに、まさにこの場所、この席で、義勇と炭治郎は恋人同士になった。
 その日、閉店時間になりほかの客を送り出した炭治郎は、いまだ席に着いたままだった義勇のもとに、真っ赤な顔をしてやってきた。数時間前に義勇が奪った唇を小さく震わせて「義勇さん」と呼びかけてきた声は、今も義勇の耳に残っている。
 ためらいと期待、不安と喜び。正と負の感情をこれでもかと混ぜ合わせた、どこか固い声だった。緊張して見える顔は、炭治郎の大きな目と同じくらい赤く染まっていて、噛りついたら林檎のように甘酸っぱいのだろうかと思ったことを覚えている。
 言葉にせずとも伝わっただろうと高を括っていた義勇が、義勇さんは俺のことどう思ってるんですかと問われたそのときに、つい脳裏に浮かべた言葉については、炭治郎には秘密にしておきたい。それぐらい自分で察しろなんて、どの口が言える。
 炭治郎を邪険に扱ってきたのは義勇自身である。義勇から示されたあからさまな好意にも、炭治郎が疑いが消せずにいるのは手に取るようにわかった。
 クリスマスプレゼントとして渡した新刊の、表紙裏に書いたメッセージを、炭治郎はまだ見てはいないようだった。見ていたなら、瞳に怯えの色はなかっただろう。
 いや、見ていたとしてもやはり怯えは見せたかもしれないなと、あのころのことを思い出しながら、義勇は少し苦笑した。
 口下手な義勇にとって、自分の心情を誤解なく人に伝えるというのは、中々にむずかしい。プロの小説家としては恥ずべきことかもしれないが、これはもう性分だ。スマートかつ心に残る名文句で、記念すべきそのときを飾りたいところではあったが、そんなことは到底できるわけもなかった。
 だからあのときの義勇が、盛大に口ごもったあとにようよう口にできたのは、「好きだ」というありふれた一言である。
 それだって顔を見て言ってやることはできず、キスしたときと同じように引き寄せ、腕のなかに閉じ込め顔を見られぬようにして、やっと言えた一言だ。
 嘘だぁと泣きだした炭治郎に、何度も嘘じゃない、好きだと繰り返すあいだ、焦りもあったが胸のなかには、コンデンスミルクよりも甘くとろりとした幸せがあった。
 気恥ずかしいぐらいの甘さを声音に乗せて、渡した本のメッセージを見ていないのかと問えば、炭治郎の濡れた目がパチパチとまばたいた。
 やっと泣きやんでくれたか。泣き顔もかわいいが、あまり泣かれるのはこちらもつらい。
 ようやく涙を拭った炭治郎に、ホッとする。けれども、幸せそうに笑い返してくれると思った炭治郎は、義勇の意に反しパッと腕のなかから抜け出してしまった。
 止める間もなく、見てきます! と一声上げるなり駆けていってしまった炭治郎に、呆然とするよりほか、残された義勇にできることなどない。
 いや、おまえ、このムードのなかで行くか!? と、抱きしめていた腕を所在なく降ろした義勇の耳に、しばらくして届いたのは、まさに奇声としか言いようのない炭治郎の叫び声だ。思わずビクッと肩を跳ねさせたのは不可抗力である。
 なにか失敗しただろうかと、不安にドキドキと速くなる鼓動を持て余し、待つこと暫し。
 足音高く駆け戻ってきた炭治郎は、手にした本を掲げ、本と義勇を代わる代わる見ては、ここここっこれっこここっこれっ、と、おまえは鶏かと問い詰めたいような声をあげた。
 炭治郎の混乱っぷりに反して、義勇の心中が冷めていったのは当然だと思いたい。なんなら顔も、スンッと虚無感を漂わせていただろう。
 そうはいってもこの状況は、炭治郎ばかりが悪いわけでもない。まさか義勇が手にした本の作者である真滝勇兎だとは、炭治郎だってこれっぽっちも思わなかったのだろう。
 それはまぁ当然で、真滝勇兎は顔も含めて一切のプロフィールを公表していない。性別さえ明かしていない覆面作家だ。ペンネームで辛うじて男だと思う者が多いだけで、インタビューやごく稀に書くエッセイでも人称は私で統一しているからか、いまだに真滝先生は女の人ですよね? と手紙に書いてくる読者だっているのだ。
 理由としては、恋する女性の心理描写が繊細かつ克明で、若い女性の共感を生むものだからということだが、さもありなん。親友の錆兎に向ける恋心を余さず書いていたのだから、女性が男性に向ける恋心に近しいものはあっただろう。
 炭治郎はといえば、真滝勇兎は男だと思っていたようではある。それにしたってまさか、義勇が真滝勇兎その人だなんて、一ミクロンたりと考えていなかったに違いない。
 困惑は当然で、炭治郎はもはや恐慌状態とも言えるありさまだった。本と義勇を見比べる首は、高速すぎてブンブンと音が聞こえそうなほど。そんなに振って痛めないかと、義勇が見当外れな心配をしてしまったくらいだ。
 炭治郎のかわいそうなほどの困惑っぷりは、義勇とてわからないではない。中学生のころからずっと自分の恋について、当の本人である義勇に向けて手紙に綴ってきたのだし、知らなかったとはいえ大ファンだと義勇自身にも言っている。恥ずかしいことこの上なかったことだろう。
 後に炭治郎が語ったところによると、作家というのは、自分よりもずっと年上しかいないのだと思い込んでいたらしい。まだ大学生でもあった義勇がプロとして小説を書いていて、しかも自分がファンレターを出すほど大ファンな作家だなんて、思い浮かぶわけもないだろう。
 炭治郎の驚きが凄まじすぎて、ついていけない義勇はといえば、虚無としか言いようのない顔のまま、言葉もなく虚空を見ていた。
 だってどうしろというのだ。初恋だと言うなら、炭治郎にとっても自分が生まれて初めての恋人になるのだ。冷たくあたっていた分も、思い出に残る告白にしてやらねばと、義勇がかなり知恵を絞ったのは言うまでもない。なのにこんな事態になろうとは。もはや恋人だなんだという甘い空気は、微塵もなくなってしまったが、義勇にしても初めての経験でリカバリーしようもない。
「炭治郎、なんなの? 大声出したりして。あら、冨岡さん」
 もしも、店の厨房から炭治郎の母の葵枝が顔を出さなければ、鶏もどきと化した炭治郎となんとも言えない顔になった義勇は、膠着状態から抜け出せなかったかもしれない。
 とはいえ、義勇にしてみれば葵枝は、感謝するより先に圧倒的緊張を覚える相手ではあった。面と向かうには罪悪感は半端なく、できれば当分顔を合わせたくはなかった人である。
 なにしろ義勇はたった今、葵枝の息子に恋の告白をしたばかりなのだ。もしも義勇がノンケで、炭治郎が女の子であったとしても、恋人になった直後にその母親と顔をあわせて平然としていられるような精神力は、義勇にはない。
 メンタルが弱いというわけではないが、こと恋愛ごとに関して言えば、義勇の経験値はすこぶる低い。体の経験値はカンスト近いが、恋人同士のアレコレなど想像上のものでしかなく、恋愛小説を主とする作家としては、恥じ入るよりほかない現状だ。
 しかも、ゲイである。姉にもまだカミングアウトなどしていないし、考えたこともない。両親が早くに他界していることもあり、親代わりとして育ててくれた姉には感謝しかないのだ。唯一の肉親である義勇が、世間の目をはばかるゲイだなどと、仇や疎かに言えるものではない。
 閉店を過ぎてもまだ店内に居座っている気まずさも相まって、ピシリと固まった義勇に、笑顔で近づいてきた葵枝は深く頭を下げた。
「いつもご利用いただきありがとうございます。炭治郎がうるさくしてごめんなさいね」
 禰豆子の美少女っぷりも納得の美しい女性だが、やさしい笑みを前にしても、義勇の心境はと言えば蛇ににらまれた蛙である。
 息子さんに手を出しましたと言うほどのことは、まだしてはいない。今のところは想いを伝えただけだ。キスしかしていないし、それだって唇を触れ合わせるだけの可愛らしいもの。当然、炭治郎が高校を卒業するまでは、清らかで健全なお付き合いをする予定ではある。
 が、後々はその限りではない。というか、手を出す気は有り余るほどある。
 下心込みの恋心は、以前の義勇にとっては忌むべきものだった。しかし、炭治郎との恋においては、劣情も包み隠さず伝えていきたいと思っている。明け透けに言ってしまえば、炭治郎と寝たい。甘い恋心だけでなく、赤裸々な肉欲だってしっかりとあるのだ。想いを認めてからこっち、二、三度、我慢しきれず妄想のなかの炭治郎のお世話になったぐらいには。
 一体どの面下げて葵枝に気楽に接することができようか。
 固まる義勇をよそに、葵枝は少しばかり眉をひそめて炭治郎をいさめている。原因となった義勇としては、それもまたいたたまれない。
「そんなにうるさくしたら、冨岡さんに嫌われちゃうわよ」
 葵枝の言葉に特別な意味はないと思いたいところだが、炭治郎の反応がそれを許さなかった。
「えっ!? あ、あの、冨……じゃなかった義勇さん! ごめんなさい、静かにしますからっ」
 だから嫌いにならないでと言わんばかりに、大きな目に涙を溜めて詰め寄ってくる炭治郎は、おそらく平常心なんて遠くに放り投げていたのだろう。店の看板息子と常連客という立場を装うどころか、義勇の胸にすがりつかんばかりだ。
 葵枝がこの場にいなければ、抱きしめ泣くなと頬にキスのひとつもしてやりたくなるほどに、かわいい。間違いなく、誇張なく、誰がなんと言おうと、かわいい。だから、困る。
 衝動のままにうっかりあげかけた腕を、炭治郎の背にまわすわけにもいかず、さりとてそのまま降ろすのもためらわれ、中途半端な体勢でオロオロとするしかない。文字通り、お手上げだ。
 どうしたものかと困り果てている義勇の心中を知ってか知らずか、葵枝は、あらあらとやわらかく笑っている。苦笑としか言えぬ笑みではあるが、不快げな様子はまるでない。
「……俺が、驚かせてしまったもので……こちらこそ、遅くまですみません。今、出ます」
「帰っちゃうんですかっ!? 俺がうるさくしたから!?」
 おい、母親の前だってことわかってるか!?
 うるうると瞳を潤ませて見上げてくる上、もっと一緒にいたいとばかりに、キュッとスーツの胸元を掴みしめる炭治郎は、どうしてやろうかというほどにかわいいが、どうにかできるはずもなく。
「もう、閉店時間だろう? ……また来るから」
 そう言うのが、義勇にとっては精一杯だった。
 あれは、はっきり言って記憶から消したい出来事だ。黒歴史としか言いようがない。思い返せば、ため息だって出る。
「冨岡さん、さっきからため息ばっかりついてません? お仕事進まないんですか?」
 突然かけられた声に、ビクリと義勇の肩が揺れる。物思いにふけっているうちに、いつのまにか禰豆子がテーブルの傍らに立っていた。コーヒーのお代わりを聞きにきたのだろう。サーバーを片手に、心配そうに小首をかしげている。
 まったく気がつかなかった自分に、義勇は、また出そうになったため息を無理やり飲み込んだ。なんというていたらくっぷりだ。人の気配には敏感だったはずなのに、このところとみに腑抜けていると、認めずを得ない。
「……まぁ」
「小説家さんって大変なんですねぇ。私なんて、作文書くだけでも一苦労だから、尊敬しちゃう」
 ニコニコと笑いながらコーヒーをついでくれる禰豆子は無邪気だ。その無垢さこそに罪悪感をかきたてられ、義勇は黙ってカップを口に運んだ。
 大変なのは反論しないが、ため息の理由は到底口にはできない。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。しかも、相手は禰豆子だ。炭治郎の妹である。絶対に知られたくはない。
 おまえの兄貴とキスするのに自信がない。
 無理だろ。言えるわけあるか。
 ごゆっくりと笑って立ち去る禰豆子の背をぼんやり見つめて、義勇はまた、深く深く肺のなかの空気を吐き出した。
 まったくもって馬鹿馬鹿しい悩みだ。けれども、義勇にとっては深刻である。
 散々男と寝てきたくせに、たかだかキスひとつにこれほど躊躇するとは、義勇自身だって思っちゃいなかった。けれども、どれだけ淫らなプレイに興じようとも、キスだけはかたくなに拒んできたのだ。経験値は圧倒的に少ない。というよりも、ゼロだ。
 恋愛小説を書いているくせに、恋人とのアレコレなど、義勇は人生のなかで一度として経験したことがなかった。義勇が書いてきたのは、恋い焦がれ、けれど決して口にすることができなかった親友への片想いから生まれた、ただの妄想ばかりだ。かなわぬ夢物語を、小説という形でかなえてきたにすぎない。ごく稀に受けるインタヴューなどで、記者たちは判で押したように実体験ですかと聞いてくるが、義勇が知っているのは片恋と淫らな性体験だけである。
 恋人としての振る舞いなんて、勝手がわからない。炭治郎への接し方にどうしたってとまどってしまう。
 炭治郎に対しては歳の差もあり、余裕のある顔を装っているが、内心ではいつだって、なにか間違えていないかとヒヤヒヤしっぱなしだ。告白したときこそスマートにキスできたとは思うが――その後の一幕はともあれ――あれ以来、キスひとつ満足にできていない。
 知らなかったのだ。恋しい相手とのキスが、こんなにも緊張するものだなんて。
 ファーストキスは唐突に奪ったから、なにも身構えることはなかった。けれど、ふたりでいるときにふとそんな空気になると、途端に緊張してしまう。
 逢うのがいつもこの店か義勇の家なのも、緊張の要因かもしれなかった。
 店ではいつ禰豆子や葵枝たちが顔を出すかわからない。一人暮らしの義勇の家では、それはそれで問題がある。
 誰もいないということは、歯止めが利かなかった場合、そのまま手を出してしまう可能性があるということだ。なにせ止める者はいないのだ。いまやかわいくてしかたない恋人が、二人きりの部屋で自分の腕のなかで口づけに酔う。そんな様を見て、自分の理性ははたしてどうなるのか。経験がないだけに、義勇にもさっぱりわからない。
 酔うもなにも、そんなテクないだろうが……。
 思わず舌打ちしそうになり、義勇は深くうなだれた。
 炭治郎には自分の性遍歴を匂わせてしまっている。まさか義勇がキスひとつに緊張しているとは、思ってもみないだろう。
 全部義勇さんが教えてくれるんでしょう?
 キラキラとした目が期待を込めて伝えてくるのは、自分の気のせいじゃないはずだと、義勇は小さく唸った。
 ワードの画面に、小説のつづきは一文字だって打ち込まれていない。まったく進まないまま今日も時間だけが過ぎていく。今年度は卒論に追われることになるからと、連載を断っていたのが辛うじて救いだと言えた。とはいえ、秋口には新刊の出版が待っている。タイムリミットは七月。なのにまだ全然進んでいない。三カ月で書き上げられるかどうか、かなり微妙なところだ。
 ストレスもどんどん溜まっていく。コンスタントに出る新作、自分の恋愛、どちらも順風満帆なように見えるのは見掛け倒しで、正直ダウン寸前だ。
 こんなときには炭治郎に逢いたくなる。悩みのもとではあるけれども、恋しさにはいささかの迷いもないのだ。
 逢いたい。かわいい笑顔に癒されたい。けれど逢えば抱きしめてしまいたくなる。抱きしめればきっと、キスしたくなるに違いない。だが、自信はない。キスのテクニックもだが、自分の理性にも。
 駄目だ。これ以上ここにいても仕事にならない。
 どうにも進まないワードの画面に見切りをつけて、義勇はカップに残ったコーヒーを飲み干した。禰豆子が入れてくれたお代わりは、すっかり冷めていた。
 いったいどれだけぼんやりしていたんだか。またこぼれそうになったため息を無理やり飲み込んで、義勇はパソコンの電源を落とした。
 炭治郎が帰ってくるのは閉店後だ。ここで粘ったところで逢えるわけでもない。
 トレイを手に立ちあがった義勇に気づいたか、禰豆子がニコニコと近づいてきた。
「お帰りですか?」
「あぁ。いつも長居してすまない」
 気にしないでと笑った禰豆子は、ふといたずらっ子のような目で義勇を見上げてきた。
「あのね、お兄ちゃんが義勇さんに逢えないってへこんでるの。でね、今週の土曜日はお兄ちゃんを義勇さんに貸し出そうって、家族会議で決まりましたぁ!」
 パチパチと小さく手をたたいて笑う禰豆子に、義勇は、は? と目を見開いた。貸し出すとは? 問うより早く、お兄ちゃんとデートしてあげてと、こともなげに禰豆子は言う。
 待て。いろいろと、待ってくれ。
 おそらく表情はろくに変わっちゃいないだろうが、義勇の胸中はパニックだ。デートってどういうことだ。確かに炭治郎とは恋人同士ではあるが、炭治郎が家族に自分との関係を伝えたという話など、義勇は一切聞いていない。
 半年近くも前のことだが、炭治郎から義勇に恋していると伝えられたと、禰豆子が言っていたのは覚えている。熱に浮かされた状態でのことではあるが、忘れようのない記憶だ。
 恋しい人の役に立ちたい、この席を好きな人のために使いたいのだと、炭治郎は葵枝に頼み込んだらしい。自分の好きな人は男で、恋が実ることはないだろうけれども、きっと一生その人が好きだから。そう炭治郎は言ったのだと、禰豆子は静かに笑っていた。
 それを聞いたときの、泣きたいような、それでいて怒鳴り散らしたくなるような、複雑で忸怩たる胸の痛みを、義勇は苦く思い出した。
 その日は、最低な男との最悪なセックスで、体調も気分もどん底だった。それも元をたどれば炭治郎に恋する少女への嫉妬からだ。自分のことはあきらめろと、炭治郎につれなくしてきたのは自分のくせに。自業自得としか言いようがない。
 けれども、浮かぶ苦さは現状への戸惑いにすぐ失せた。今はそれよりも、禰豆子たちが自分と炭治郎の仲を知っているかもしれないことのほうが重要だ。
 いずれはカミングアウトすることになるかもしれないと、思ってはいた。長くつきあっていくのなら、いつかは真摯に考えねばならない日もくるだろう。だが、今じゃない。まだ早い。
 義勇の戸惑いに気づいているのかいないのか、禰豆子はニコニコと笑ったまま、
「たまにはお兄ちゃんにも、家のこと忘れて楽しんでほしいんです。お兄ちゃんは、義勇さんと一緒にいられるのが一番うれしいだろうから、デートしてあげてください」
 お願いと手を合わせてくる。茶目っ気のある仕草は愛らしいし、話の内容は実に兄想いのいい妹だと思うが、それで義勇の当惑が消えるわけでもない。
「デート……」
「あ、普通にお出かけするだけでいいの。お兄ちゃん、義勇さんのお家に行くだけでもすっごく大はしゃぎだから、一緒にお買い物したり映画観たりできたら、委員会での疲れも吹っ飛んじゃうと思って。……あの、ご迷惑ですか?」
 わずかに顔をくもらせる禰豆子に、義勇は小さく首を振った。
 いきなりのことにうろたえたが、どうやら禰豆子の言うデートに深い意味はないらしい。まだ義勇と炭治郎が恋人同士だとは知らないのだろう。馬鹿正直な炭治郎のことだから、楽観はできないが。
「迷惑なんてことはない。だが……いいのか? 店の手伝いができないのを気に病んでいるようだし、炭治郎は、休みの日ぐらい店に出たいんじゃ……」
「それは大丈夫です! 竹雄がお兄ちゃんの代わりにってすっごく張り切ってるの。やる気をそぐようなこと言っちゃ駄目って、お兄ちゃんには言っておくから」
 いたずらっ子のように言った禰豆子の瞳が、不意にどこか大人びる。
「高校受験のときだって、お兄ちゃんったら私たちがどんなに店のことはいいよって言っても、大丈夫ってお手伝い休んでくれなくて……。それで夜中に勉強して寝不足になってたんだよ? 馬鹿でしょ。長男だからなんて……お兄ちゃんだけ大変な思いすることないのに。忙しいときぐらい、家のことはほっぽって少しは休めばいいんだよ。でなきゃ、お兄ちゃんまでお父さんみたいに倒れちゃうかもしれないのに……」
 あぁ、目に浮かぶようだ。義勇は内心で独り言ちた。
 炭治郎は頑張り屋で生真面目だ。誰もが認める長所ではあるけれども、裏を返せば、融通が利かず思い込みが激しいということでもある。長男として、父の代役として、家族を守るのは自分ひとりと思い込んでしまっているのは、想像にかたくない。
 話に聞く父親の死因は病気であり過労ではないらしいが、それでも、多忙を理由に受診を怠ったことが寿命を早めたのは間違いがないだろう。禰豆子たちの心配はもっともだ。
 だからね、と、禰豆子は笑う。
「お兄ちゃんが我儘言って、義勇さんのことではしゃいでるのが、私たちみんな、すっごくうれしいんです。本当はとっても義勇さんに逢いたいのに、無理してるの見てられないんで、お願いします!」
 ぺこりと頭を下げた禰豆子は、明るく笑ってはいるが、瞳に宿る恐れは消えようがない。父のことがどうしても頭をよぎるのだろう。万が一炭治郎もと考えるだけで、不安と恐怖に怯えてしまうのかもしれない。
 きっとそれは、家族全員が抱く恐れで、願いなのだ。義勇だって、炭治郎が無理をすることなど望まない。
 ならば、義勇に否やはなかった。
「……今度の土曜でいいのか?」
「はいっ!」
 うれしそうに笑う禰豆子の顔は、咲きほころぶ花のようだった。
 ◇◇◇
 大学生である以上、いかに締め切りが近づこうとも、授業には出席しなければならない。サボりまくっている学生も少なくはないが、生真面目な義勇にそんな選択肢はなかった。とはいえ、寝不足でフラフラした状態では、到底講義の内容など頭に入ってくるわけもなく、来るだけ無駄だったかもしれないと少しばかり後悔してしまう。
 今日は午後にもう一コマ。来てしまったからには今更帰るのもどうかと思うし、やはりサボりというのは気が進まない。
 ざわめく学生食堂の片隅で、義勇は、ちらりと周囲を見まわした。ファッションなんて興味がないので、着るものといえば普段はとにかく着心地が楽なもの一択だ。だが、デートとなるとそうもいかない気がする。
 食堂にいる学生たちは、おおむね義勇と大差のない服装のように見えるが、オシャレな学生というのはどんな感じなのだろう。その時点からしてわからないものだから、参考にしようがない。
 職業柄、デートシーンなど散々書いている。だが実際は、デートの経験など皆無だ。義勇が書いてきたデートなんて、所詮は錆兎を相手の妄想を書き連ねただけなのだ。だから登場人物の服装は、錆兎が好むものや、錆兎に似合いそうだと思ったものばかりである。
 錆兎もファッション感覚については義勇と似たり寄ったりなので、あまり奇をてらった描写は必要なかった。プロであるからには、一応資料として性別問わずファッション誌などにも目を通しはするけれど、正直言って、ファッション用語のカタカナの羅列はさっぱり理解できず、無難な服を着せがちだ。なんなら服装などの描写は避けてしまったりもする。
 個性を伝えるのに必要なこともあるので、担当編集者である胡蝶などには、もうちょっとなんとかなりません? と指摘されたりもするが、苦手なものは苦手なのだ。姉と同居していたころは、姉が買ってきてくれる服を素直に着ていただけだし、今は量販店で適当に無難なものを買うばかりで、デートのための勝負服なんて、これまでの人生で一度として買ったことがない。
 いくら周囲を観察しても、最適な答えなどはなからわからないのだから、なんの実りもありゃしない。注文したもののさっぱり箸が進まずにいる蕎麦が、刻一刻とのびていくばかりである。
 服もだけれど、高校生とデートするなら、どこに行くのが一番喜んでもらえるんだろう。
 禰豆子から義勇とのデートが決まったと聞かされた炭治郎が、単語ばかりの焦りまくったラインを送ってきたのは、月曜の夜のこと。
『デート』『いいんですか?』『無理しないで』『禰豆子が』『ドーナツ』『じゃなくて』『どうすれば』
 真っ赤な顔で必死にスマホをフリップする様が、まざまざと浮かぶラインのメッセージに、面映ゆく笑ったまでは、多分少しは余裕があった。
『落ち着け』
『だって』
『委員会はないんだろう?』
『はい』
『昼ごろからでいいか?』
『はい』
『迎えに行く』
『はい』
『楽しみにしてる』
『はい』
 はい以外の答えがそろそろほしいなと苦笑するほど、炭治郎の舞い上がりっぷりがうれしくて。ちょっとしたいたずら心が不意に浮かび、日頃は滅多に伝えられない一言を送ってみた。
『好きだ』
 間髪入れずにきていた返信は、少し間が開いた。
『俺も好きです』
 ポンと出てきたメッセージに、胸をギュッと鷲掴みにされたような気がして、思わずスマホを胸に抱え込んだ。
 両想いというのは、なんてすごいんだろう。見返しても炭治郎のメッセージは消えない。繋がりあっている心が、文字の形でそこにある。
 ついぼんやりと幸せを噛みしめてしまった義勇が、はたと気づいて『おやすみ』と返したのは五分後。きっと炭治郎はやきもきしながら返信を待っていただろう。今度は間を置かずに『おやすみなさい』と返ってきた。手を振る兎のスタンプ付きで。
 久方ぶりに幸せなひとときだった。逢えたわけではないけれど、想いあっていることを実感できた心安らぐ夜だったのだ、そのときまでは。
 寝不足のぼんやりする頭を軽く振って、義勇は、持ち上げた麺をけれどすすることなく、また箸をおろした。食欲などさっぱりわかない。ついでに土曜のプランも、これっぽっちたりと浮かんでこない。
 今日はもう木曜日。だというのに、なにを着たらいいのかすらわからずにいるとは、恋愛小説家の肩書が泣くなと、自己嫌悪のため息ばかりが落ちる。
「義勇!」
 聞き慣れた声に振り返ると、錆兎と真菰が近づいてきていた。
 年末に学生結婚したふたりは、新婚真っただ中だ。正式につきあいだしたのは高校を卒業したときからとはいえ、幼いころからそばにいたからか、いかにも新婚な浮ついた様子はない。それでも結婚前にくらべると寄り添う距離はさらに狭まった気がする。
 錆兎の祖父であり、義勇の剣道の師匠でもある鱗滝の容態は、今は安定しているらしい。春は越せないと言われていたが、ふたりが結婚したことでひ孫の顔もと張り合いが出たのか、先日見舞いに行ったおりには、車いすではあるが病院の庭を散歩できたぐらいだ。
 予断を許さないとはいえ、ふたりにとっては今が一番楽しい時期だろう。だというのに、義勇を目にしたとたん、錆兎と真菰の顔からスッと笑みが消えた。
 なにかあったのだろうかと、小さく首をかしげた義勇の元に歩み寄った錆兎は、ポンと義勇の肩をたたき、真顔でのたまった。
「……義勇、今日はうちで飯食ってけよ」
「いや……あまり食欲が……」
「だからこそだろ?」
 じっと見すえる目が、少しばかりあきれの色をたたえた。
 ほとんど手つかずの蕎麦を一瞥し、自分の顔色の悪さ自覚あるか? と、言い聞かせる声は強い。
 横で真菰も真顔でうなずいているあたり、自分で思う以上に、悲愴感ただよう顔をしているのだろう。
 反論を許さないふたりの視線に、義勇が否を唱えられるはずもなく。取り上げられた蕎麦のどんぶりの代わりに、そっと差し出された真菰のプリンが、義勇の昼食となった。
 のびた蕎麦は、もったいないと錆兎が食べた。まったくもって面目次第もない。
 錆兎の家にそのまま真菰が引っ越してきた形の新婚生活だから、見慣れた部屋に変わりはない。義勇にとっても勝手知ったる他人の家だ。幼いころから何度となく来た錆兎の家は、義勇の家よりはこじんまりしているが、古い日本家屋で、いつきても居心地のいい場所だった。
 けれども今日ばかりは、少々落ち着かない。誘われた理由が理由なだけに、どうしたものかと途方に暮れそうになる。
 夕飯には少しばかり早い時間だが、義勇の昼食がプリンひとつきりなのを気にしてか、家に入るなり真菰は台所に直行した。
「すぐに支度するから、くつろいでてね」
 笑ってエプロンをつける真菰は、すっかり若奥さんの顔をしている。見慣れた幼馴染みの顔はそのままに、雰囲気が以前よりも落ち着いて見えた。
 あぁ、錆兎と真菰は結婚したんだなぁと、こういうとき義勇は、いまだに同じ言葉を思い浮かべる。
 もう錆兎への恋心は義勇の心のなかにはない。好きだという想いはそのままに、恋のときめきや切なさも、狂おしい嫉妬も、痛いほど胸に満ちることはなくなった。
 真菰と一緒に暮らす錆兎を見たところで、今はもう苦しくなったりなどしない。嫉妬もない。それは確かなのだけれど、それでもなんとなく寂しいような気がするのは、少しだけ自分が異分子に思えるからだろうか。
 三人だった関係がふたりとひとりになったのは、もうずいぶんと前のことなのに、いまだに子どものころのいつでも三人一緒だった記憶にとらわれているのかもしれない。
「で? なんか悩んでるのか?」
 台所で手際よく動く真菰の背を、ぼうっと眺めていた義勇の意識が、錆兎の声に引き戻された。
 竹を割ったような性格の錆兎らしい単刀直入っぷりだ。まっすぐ見つめられて、義勇は気まずく視線をそらせた。台所にいる真菰も聞き耳を立てているのがわかる。
 こういうとき、古い家の造りがちょっと恨めしい。開けられたままのガラス戸一枚隔てた茶の間での会話は、台所にも余裕で届く。一言も聞き漏らさないと、調理中の真菰の背が伝えているようで、義勇の心情はいたたまれないの一言だ。
 錆兎には、高校生とつきあうことになったとすでに白状させられている。男だとは、さすがに言っていないが。
 長年の片想いは告白したけれど、性的指向そのものが男性にしか向かないのだとは、どうにも言いづらい。いずれ知られるのは確かだろうが、まだ早いとも思う。
 炭治郎とつきあい出してから、まだ半年も経ってはいない。キスだって告白したときの一度きりだ。デートだって週末に初めてする。義勇の家に遊びにくることは度々あったから、まぁ、お家デートというやつはしていることになるのだろうけれど。
 それでも、これからどうなるのかなんて、まるでわかりはしないのだ。
 もちろん、炭治郎への気持ちが簡単に揺らぐことはないだろうと、確信してはいる。炭治郎だって、幼いころからずっと義勇ただひとりを想ってきたというのだから、そうそう心変わりすることはないだろう、と、思っている。
 けれど、それは今後の義勇次第だとも思うのだ。幻滅され、こんなはずじゃなかったとフラれる可能性だって、ゼロじゃない。
 要は自信がないのだ。臆病風に吹かれている。錆兎に告げるのなら、炭治郎との仲が深まり、絆は決して途切れないとの自信がついてから。そんな見栄に似た気持ちが心の奥にあることに、義勇は不意に気づいた。
 台所でまめまめしく動く真菰の背を、なんとなし見つめる。
 愛情を育んで、ともに生きると誓いあった、錆兎と真菰。まだ学生だというのに結婚に踏み切った理由が、恋愛感情ばかりではないのは理解している。容態は安定しているとはいえ、鱗滝はまだ病院から帰れない。おそらく人生の終焉を迎えるのは病室でだろう。
 錆兎にとってたった一人の肉親である鱗滝を、安心させてやりたい。ふたりが結婚を決意した一番の理由はきっとそれだ。
 打算と呼ぶのはひねくれすぎているだろうが、今後の問題をスムーズに進めていくための解決策としてという側面が、ひとかけらもないとは言えまい。
 就職すらしていない学生の身分では、ふたりもかなり悩んだことだろう。鱗滝のことがあったからにせよ、それでも、結婚という互いに責任を負う選択肢を選んだふたりを、義勇は少なからず尊敬している。
 一方、自分はどうだ。義勇は胸のうちで自省する。
 ゲイである義勇の恋愛は、ふたりよりもハードルが高い。問題は山積みで、世間的にはいばらの道となるのだろう。フワフワと浮かれてばかりもいられないというのに、問題をすべて先送りして、まだ早いと目をそらして過ごしている。
 炭治郎との絆が深まって、決して離れることはないと信じ切れるまで、誰にも言わずにいたい。いつかはと思いながら、まだこのままでいいじゃないかと二の足を踏んでいる自分の情けなさに、小さなため息が義勇の口からこぼれた。
 恋の喜びだけを今は感じていたいというのは、紛うかたなき本心だ。だからといって、ゲイであることから目をそむけられるはずもないのに。
 心配げな錆兎の視線を、義勇はようやく真っ向から受けとめた。
 自分がゲイだと告げる勇気は、まだない。けれども、炭治郎との恋を恥じるようなことはしたくない。少なくとも錆兎に対しては、してはいけないと思った。
「デートすることに、なった」
 正直言えば、こんな悩み事を口にするのはゲイ云々を別にしても、恥ずかしい。なにせ自分の職業が職業だ。恋愛小説を書いているくせに、初めてのデートにとまどってどうしたらいいのかわからないなどと、切り出すのはやはりためらいがある。
「義勇がデートッ!?」
 驚く声は台所から聞こえた。ギョッとする間もなく即座に近寄ってきた真菰の顔は、なんだか目が爛々として見える。うずうずと好奇心をたたえた様は、いたずらな猫のようだ。
「どこ行くの? 服は? なに着るつもり? ね、ね、お泊り?」
「お、おい、真菰。義勇がつきあってるのは高校生だぞ? 泊まりはまずいだろ」
 面食らったのは錆兎も同様だろう。けれどもここは夫らしく、どうにか真菰をいさめようとしてくれたらしい。
 あまり役には立っていないようではあるが。
「えー? 今どきの高校生ならお泊りデートくらいしそうだけどなぁ。でも、義勇も真面目だもんね。それはないか」
 真菰の無邪気な信頼が胸に痛い。真面目さは誰も疑わぬ義勇の資質だろうけれども、本人からすれば、真面目な男は誰彼となく男漁りなんてしないと思うと、罪悪感を刺激される。
 当然のことながら、今は一切そんなことはない。だが、淫らな過去が消えるわけでもないのだ。
「んー、お泊りじゃないにしても、高校生ならちょっと大人っぽいデートに憧れそうだよねぇ。同級生とかならともかく、年上の男の人とのデートだもん」
「……そうなのか?」
 気圧されつつ言えば、真菰の笑みが深まる。
「あ、やっぱりノープラン?」
「ん、まぁ……」
 ニンマリと笑う目が輝いたのは気のせいだろうか。なんなら大好物を前にした犬のように、ブンブンと尻尾を振っているようにすら見える。
 真菰の笑みに義勇もたじろいだが、夫である錆兎も、ぽかんとしつつ及び腰なのはどういうことだ。
「だと思ったぁ。私がプロデュースしてあげるっ!」
「は? え、プロデュース?」
「お、おい、真菰。あんまり出しゃばるのは……」
 展開についていけず義勇がドギマギとしていると、助け船を出さねばと思ったのか、腰が引けつつも錆兎が口をはさんだ。さすがは錆兎と、一瞬浮かんだ安堵は、長続きはしなかったけれども。
「だって義勇のセンスじゃ、バラの花束持ってスーツで行きかねないよ? せっかく恋人ができたのに、初デートでフラれたら目も当てられないじゃない?」
 おい、なんで口をつぐむんだ、錆兎。
 少々ショックを感じつつも、義勇は憮然と眉根を寄せた。
「……それは、ない」
 というか、駄目なのか、やっぱり。さすがに高校生とのデートにスーツや花束はどうかと思ったので却下したのだが、正解だったようだ。
「じゃ、どうするつもりだったの?」
 ん? と首をかしげて問い詰めてくる真菰に、答えられるものなら、悩んでない。
 沈黙した義勇は、再度の助け船を求めて錆兎を見やった。共同戦線ならば、あるいはこの強力極まりない相手にも、少しは太刀打ちできるんじゃないだろうか。
 そんな淡い期待ですがった視線は、錆兎の瞳をとらえることはできなかった。
 無言でそっと顔をそらす錆兎に、義勇の目が見開かれる。なんなら漫画ばりの縦線が、顔には書かれていただろう。
 あきらめろ、と? いや、確かにこういうときの真菰が無敵なのは、重々わかっちゃいるが、あんまりじゃないか?
 思わず嘆息するが、悩んでいるのは確かだし、ほかに頼れる者もいない。
「はいっ、決まり~。えー、どこかいいかなぁ。相手の子はインドア派? アウトドア派?」
 ルンルンと弾んだ声で聞いてくる真菰に、がっくりと肩を落とし脱力しきった義勇は、「たぶん、アウトドア」と答えた。
「たぶんって、義勇ったらそれぐらいもリサーチしてないのぉ?」
「……面目ない」
 言われてみれば、互いの趣味などに関してもろくに話したことがない。炭治郎の趣味は掃除だと、ほかの客との会話で聞き知ってはいるが、さすがにそればかりということはないだろう。
 真滝勇兎の著書をすべて読んでいるのはとうに知っているけれども、ほかの作家の話題は聞いたことがない。とくに読書家というわけではないのだろう。映画なども、話題に上る確率は低い。精々、地上波放送する作品を観るつもりだと漏らすぐらいか。
 かといって、どこかへ遊びに行ったという話も聞かない。炭治郎のお喋りは、大概が家族のことや学校での友達の話だ。
 あぁ、そうか。自分の時間を持つことなど、炭治郎はきっと今まで考えたこともないのだ。
 気づいた事実に、義勇は少し愕然とした。胸がキュッと締めつけられる。
 あの子は、友達と遊びに行ったなんていう思い出を、ほとんど持っていないのだろう。
 炭治郎の父親が亡くなったのは、炭治郎が小学校を卒業する少し前だと聞いた。それからずっと、店を支え家族を支え、子どもらしいと世間一般的に思われる楽しさなど、二の次にしてきたのに違いない。
 なんだか切なくはあるが、けれども、かわいそうだとは思わなかった。
 きっと炭治郎は、そんな生活を心底慈しみ、幸せだと笑って過ごしてきたはずだ。あの子はそういう子だと、義勇はもう知っている。胸をよぎる痛みは憐みではなく、自分自身の不甲斐なさゆえだ。
 義勇の食事の支度をするのを、とても楽しそうにしていたから、ついつい家で逢うぐらいしかしてこなかった。俺だって店があるんだし、義勇さんは忙しいんだから気にしないでなんて言葉を鵜呑みにして甘えずに、いろんなところに連れ出してやればよかったのだ。炭治郎には知らない世界が山ほどあるに違いない。それを見せてやるのも、大人の務めじゃないか。
 ましてや義勇は炭治郎の恋人だ。恋人を楽しませてやるのに心砕くぐらい、当たり前のことだというのに、それすらおざなりにしてきたとは。
 経験値の低さを理由にしていては駄目だ。せめてデートぐらいは、これからは自分から誘うべきだろう。多少の恥や気まずさなど、炭治郎の笑顔のためなら耐え忍ぶべきではないのか。
 よし。と、義勇は小さくうなずき、決意を込めて真菰を見据えた。
「プロデュース頼む」
 堂々と頭を下げた義勇に、錆兎の目が驚きにまばたいた。一方真菰はと言えば、至極満足げに微笑み、こちらも強くうなずいた。
「任せて。絶対に相手の子に惚れ直したって言わせてみせるよ」
 なんとも心強い言葉に、かすかな安堵の笑みを浮かべた義勇は、そこからつづく三十分あまりものデート指南に眩暈を覚えることなど、そのときはまるで気づいてはいなかった。
 楽しげにはしゃぐ真菰の演説を、神妙に拝聴した三十分。漂い出した焦げ臭さによって唐突にデート講座は終り、その日の夕食の肉じゃがは、ちょっぴり苦かった。
「デートうまくいくといいね」
「……頑張る」
 玄関先まで見送ってくれた真菰の笑みに、義勇は少し疲れた声ながらも、感謝を込めてうなずいた。義勇に向けられた真菰の目は、やさしい。けれど、ほんのちょっとだけ、物言いたげな気配があった。そう言えば、一緒に来ようとした錆兎に風呂の支度を頼んだのは、少し不自然だった気もする。
 もしかしたら、錆兎には内緒でなにか話があるのだろうか。めずらしいことだが、ありえない話でもない。見返した視線で、義勇の問いかけに気づいたのだろう。真菰はわずかに眉を寄せて、どこか泣きそうな顔で小さく笑った。
「……ごめんね」
 ささやくような小さな声だった。見つめる浅葱色の瞳がほのかに揺れている。
 その瞳と声だけで、悟れてしまう。知っていたのだと。義勇の恋に、真菰は、気がついていた。
 いつからなのかは、わからない。けれども錆兎を見る義勇のまなざしに、隠しきっていたつもりの恋心を真菰は見たのだろう。
 グッと、喉の奥になにか大きな塊でも詰め込まれたようで、息苦しさに義勇は刹那動揺した。
 だが、それでも、責める気持ちはどこにもなかった。
 大切なのは錆兎だけじゃない。真菰のことだって、大事な人であるのに違いはないのだ。明るく元気で、フワフワとした雰囲気に反してしっかり者な真菰は、義勇や錆兎の妹分であると同時に、義勇にとっては姉のように頼れる相手でもある。
 幼いころから、ずっと一緒だった幼馴染。
 だから気がついてしまう。真菰は義勇に対して、拭い去りようのない罪悪感をいだいていたのだということにも。
「……理由がない」
 本心から義勇は微笑み言った。まだこの心に錆兎への恋が息づいていたのなら、こんなふうに笑ってやることはできなかったかもしれない。けれどもう、錆兎への恋は愛へと変わり、ときめきや切なさの代わりに、幸せだけを願い祈る心だけがある。だから笑える。心の底から。
 義勇の微笑みに、真菰の目はいよいよ泣きだしそうに揺れて、うん、と苦笑された。
 今日の真菰の熱心さは、きっと罪滅ぼしではない。義勇を裏切ったと感じていたのだとしても、だから代わりになどという打算は、真菰にはなかったはずだ。真菰にとっても、義勇は大事な友人であり、兄貴分で、愛すべき弟分でもあると、義勇は知っている。
 きっと心の底から義勇の恋の成功を願って、一所懸命考えてくれていた。それがわかるほどには、真菰とのつきあいは長い。まぁ、少しばかり面白がる気持ちもあっただろうけれども。
 ともあれ、恋が自分と真菰の親愛を引き裂くなど、ありえないと言いきれる。
 だってどちらも悪くなんてなかった。謝られる理由などない。互いに恋をしただけだ。同じ人に。義勇も、真菰も、錆兎に恋をした。そして錆兎は、真菰に恋をした。よくあることだ。世界中にいくらでも転がっている、ありふれた恋の話。ただそれだけのこと。
「あのね、私の初恋って、義勇だったんだよ」
 パチリとまばたき驚きを隠せなかった義勇に、真菰は、今度は明るい笑みを見せた。
「だって義勇って王子様みたいだったもん。だからね、すぐに気がついたの。義勇が錆兎のこと好きだって」
「そう、なのか」
 うんと軽くうなずく真菰には、もう憂いはなかった。義勇も、一瞬の狼狽はすぐに消えた。
「おかしいよね。なんで錆兎がいいの? って、義勇のこと知りたくて錆兎を見てたら、気がついたら錆兎のこと本気で好きになってた」
「……なら、真菰の恋のキューピッドは、俺か」
 あまり気の利いた言葉でもなかったが、真菰は楽しげに笑ってくれた。
「そうだね。だから余計に、ちょっと苦しかった」
「そうか……」
 義勇が錆兎と真菰の恋に苦しんだように、真菰もまた、義勇への愛情と錆兎への恋慕のあいだで苦しんだのだろう。
「痛み分け、だな」
「うん。だからもう、謝らない」
 それでいいんでしょうと、まだ少し潤んだ浅葱色の瞳が、やさしく笑む。うん、とうなずき返せば、その笑みはますますやわらかく深まるから、義勇もやさしい気持ちで笑えた。
「ね、義勇。今、幸せ?」
 問う声に、真菰の目をじっと見つめ返し、義勇は、力強くうなずいた。炭治郎の笑みがまぶたに浮かぶ。
 誰よりも愛おしく恋しい、大切な恋人。自分の手で、幸せにしたい相手。
 朗らかで温かい笑みに、胸の奥がほのかな明かりに満たされる気がする。だから、義勇は晴れやかに笑った。
「幸せだよ」
 うなずき笑った真菰の背後から、風呂の支度すんだぞと錆兎の声がする。
 ふと目を見あわせ、クスリと笑いあった義勇と真菰に、姿を見せた錆兎はキョトンとしていた。
◇◇◇
 睡眠不足の重い頭にため息をつきつつカーテンを開けば、眩しい朝の陽射しが義勇の目を刺した。デート日和、と言っていいのだろうか。見上げる空には雲ひとつない。
 約束の時間は午前九時。アラームは七時にセットしていたが、一時間も早く目が覚めてしまった。
 結局昨夜もろくに眠れなかった。デートのプランや服装は、真菰の助言でどうにか決まりはしたものの、昨日は準備に追われ、小説はやっぱりまったく進んでいない。
 いや、それは正しくないだろう。買い物やらなんやらに時間を取られたのは事実だが、パソコンに向かう余裕は十分にあった。
 寝起きということを抜きにしても、あまり食欲はない。だが、デート中に腹の虫が鳴くのはまずいだろう。それぐらいは、真菰先生の指導がなくともわかる。
 とりあえず食卓に向かった義勇は、居間の卓袱台に置かれたままのパソコンを目にするなり、憮然と顔をしかめた。
 電源を入れなくても、昨夜パソコンに向かっているあいだにズラリと増えた検索履歴は、義勇の目に焼き付いている。
 勿論、今日の行き先の予備知識を得ようともしたのだ。だが、気がつけば履歴には『キス ムード』だの『キス テクニック』だのが並んでいた。なんならいくつかはブックマークもした。
 ワードを開くより先に、人に見られたら軽く死ねそうな検索ばかりしていた自分が、情けないやら不甲斐ないやら。我に返ったときには、死ねるどころか、一瞬本気で死にたくなったものだ。
 朝っぱらから深いため息をついて、モソモソとトーストを食べつつ義勇が思うのは、今日のデートで炭治郎はどこまで関係が進むと考えているのかだ。
 初デートとは言え、恋人になってからそろそろ四カ月にもなる。告白の際にキスだってしているのだ。デートという雰囲気ではなかったが、この家にも炭治郎は何度も訪れているし、そろそろ進展してもいい頃合いだろう。むしろ、遅すぎるくらいだと思われているかもしれない。
 覚悟を決めたつもりでも、やっぱり義勇には自信がない。恋愛偏差値なんてものがあるとしたら、自分はきっとかなりの劣等生だろう。セックスの経験が多くても、恋愛なんて、切ない片想い以外は絵空事でしかなかったのだ。初心者同士、初々しく健全なおつきあいをするのも悪くはないだろうけれど、年上であり職も得ている義勇がそんな提案をすれば、炭治郎は子ども扱いとしょげ返りそうだ。
 子ども扱いどころか……。今どきの高校生のほうが、自分よりよっぽど恋愛の経験値は高いだろうなと、遠い目すらしてしまう。
 だが、鬱々と悩んでばかりもいられない。折角、禰豆子たちがお膳立てしてくれたのだ――それも不甲斐ないことに違いはないが――炭治郎を楽しませてやらなければならないのに、暗い顔などしていられないではないか。
 それに、義勇にしても楽しみなことに違いはないのだ。
 不安要素は多くあるけれど、真菰の提案してくれたプランなら、気負わず楽しめる気もする。
 炭治郎には、行先はまだ告げていない。決まったのが木曜と遅かったこともあるけれど、そこはちょっとなんて言われたら、臨機応変に対応できるかわからなかったので。
 デートひとつとっても選択肢の幅の少なさはいかんともしがたい。なんとも情けないかぎりだと、自嘲にげんなりしつつ、義勇はカップを空にすると立ち上がった。
 まだ約束の時間には早い。支度するのは八時になってからでも大丈夫だろう。少しでも気がかりを減らすべく、ちょっとは小説も進めなければ。
 食器を洗って歯を磨いたら、せめて、書きだしてから数行で止まっている喧嘩のシーンをなんとかしよう。誤解からすれ違いが起きるだけのありふれた展開だというのに、どうにも進まずにいるのだ。
 理由はわかっている。書いているうちに、そんな予定じゃないのに濡れ場に突入するからだ。ハッと気づくと、登場人物の名前すら変わっていることさえある。
 欲求不満の童貞じゃあるまいし……。
 まったくもって、こんなこと誰にも言えやしない。担当のしのぶが、頻繁に進捗状況を確認するタイプでなくて幸いだ。万が一にもこの状況を知られたら、またぞろどんな毒舌にさらされるか。想像しただけで気が滅入る。
 ともあれ仕事はこなさなければと、義勇は、どうにか気持ちを奮い立たせてパソコンに向かった。書きかけの小説のファイルを開く。義勇はあまりドロドロとした恋愛は書かない。不倫だの三角関係だの、自分の心の奥に沈めた欲望をさらけ出すようなストーリーは、頑なに敬遠している。義勇が得意としているのは、爽やかで初々しい初恋をテーマにした青春物だったり、困難を乗り越えて結ばれるような純愛物だ。
 以前は主人公やその相手は、常にどこかしら錆兎をモデルにしていた。今回の小説は、今まで義勇が書いたことのないタイプの少女を、主人公に据えている。炭治郎とつきあうようになって以来、交流下手でどちらかというと人見知りな義勇にも、多少なりと知己が増えた。おかげで人物像系にも少しは幅が出たようではある。太鼓判とは到底言えないが、しのぶからそこそこお褒めの言葉らしきものがもらえたぐらいだから、進歩は見られるということだろう。
 店にいると頻繁に声をかけてくるようになった禰豆子やら、その妹の花子。店主であり炭治郎の母の葵枝。炭治郎の家族はみな、義勇に対して親しみを持って接してくれる。
 とはいえ、生来の口下手や不愛想がそうそう改善されるわけでもないので、義勇自身は話しかけられても、せいぜい相槌を打つ程度なのだけれど。
 今度の主人公は、高校生が主人公ということで、大まかな性格は禰豆子をモデルにした。だからこそ余計に、あらぬ方向に進みかけるたび半端ない罪悪感に襲われる羽目になっている。
 いっそ自分と炭治郎をモデルにしてしまおうか。
 何度か考えてはみたけれど、そんなことをしたが最後、初々しい青春恋愛小説というより官能小説の体を成しそうで、到底踏み切れるものではなかった。
 必死にキーボードを叩いているうちに、どうにかプロット通りに動きだしてくれて、このところ感じることのなかった物語に入り込む感覚がよみがえってくる。パソコンの画面と二重写しのように見える幻の映像を、文字に起こしていく。集中しているときはいつもそうだ。動きだし、語りだす人物たちを、すぐそばで見つめているような気がしてくる。
 この分ならいけそうだ。どうにか次の場面転換まで進められるかもしれない。思った瞬間に、ふと画面の隅の時刻表示が目に入った。
 パソコンに示された時刻は、約束の三十分前。
「まずいっ!」
 思わず叫んで義勇は立ちあがった。炭治郎の家までは十五分ほどで着くとはいえ、身支度だってろくにしていない。初めてのデートに遅刻などもってのほかだ。
 部屋を飛び出しかけて、あわててパソコンの前に戻りファイルを保存し電源を落とす。
「なんでアラームぐらいセットしとかなかったんだ、畜生!」
 滅多につかぬ悪態が、つい口をついた。出だしからこのザマかと、不安ばかりがふくらんいく。だが、落ち込む暇も反省する間もない。焦る気持ちのまま廊下を走り自室に戻ると、義勇は、真菰の指示通りに買い求めた服を慌ただしく着込んだ。
 ネイビーと白の組み合わせは鉄板との力説に、金曜に急いで買ってきた服は、白いVネックの薄手のニットに、ネイビーのジャケット。スタイルいいから絶対似合うとの真菰の断言に背を押されて買ったスキニーとやらは、履き慣れなくて窮屈に感じる。
 店員はやたらと褒めちぎってくれたが、正直、似合っているかどうかなど義勇自身にはさっぱりわからない。客商売ゆえのお愛想はともかく、真菰の言葉を信じるしかないだろう。
『ハイネックでもいいけど、季節的に重いし、義勇は鎖骨がきれいだからVネックお薦めだよ。色は絶対に白だからねっ。爽やかだけどちょっとセクシーにも見えて、絶対にいいと思うなぁ。あ、あとね、ブラックデニムのスキニーなら、足元は黒のキャンバススニーカーでもいいけど、義勇はきれいめコーデのほうがいいと思うんだよねぇ。大人っぽさも出るし革靴かなっ。いい? あんまり光沢が強すぎるのは駄目だからね? まぁ、白いニットと合わせるから足元だけ目立っちゃうってことはないだろうけど』
  
 義勇は顔がいいから、なに着ても服に負けるってことはないと思うけど、一応ね。そう笑った真菰は、実にイキイキとしていたなと、義勇は思わず遠くを見るような目になった。
 滔々と語られた真菰の言葉がよみがえる。思い出しただけで情報量が多すぎて眩暈がしそうだ。
『折角の初デートなんだから、髪もいつもみたいにひっつめただけとか駄目だよ? ハーフアップのポニーテールなんかどうかな。普段とちょっと違う印象でドキッとしてもらうの。ん~、鱗滝さんぐらい鼻が利くんなら、コロンはやめといたほうがいいかなぁ。でも義勇のことだから、どうせ服は全部明日買うんでしょ? 柔軟剤の香りってわけにもいかないしなぁ。匂いって結構ポイント高いんだよね。義勇は体臭薄いから、余計に特別感あっていいと思うんだけど』
 もうそこら辺で勘弁してくれと、話を聞いているだけでパニックに陥りそうになったのは、義勇だけではなく。傍観者に徹していたはずの錆兎までもが、キャパオーバーな顔をしていたのは、ちょっとだけスッキリした。俺を見捨てた罰だ、とは、言わないでおくが。
 ともあれ、真菰の言葉に従い、髪だけはどうにかこんなものだろうとまとめたところで、タイムアップだ。果たしてこれで本当に炭治郎が気に入ってくれるものやら、心許ないこと甚だしいが、もうどうしようもない。
 とにかく遅刻だけは避けなければと、義勇はバタバタと家を出た。我ながら落ち着きがないこと甚だしいなと、何度目かわからない自嘲に襲われる。
 錆兎に恋しているころも、ふたりで出かける日にはかなり浮かれて、落ち着かなくなっていた。けれどもここまで緊張したことはない気がする。つきあいの長さの差といえばそれまでかもしれない。けれどもそれはしかたのないことだ。義勇にしてみれば自業自得としか言いようがない。
 炭治郎と出逢ってから一年ほど。その大半は、炭治郎に対して我関せずを通してきた月日だ。
 俺はまだ、炭治郎の好きな映画も、好きな場所も、なにも知らない。
 車を走らせながら、ほんのかすかに胸を刺した痛みに、義勇は小さく眉を寄せた。
 店に通っているあいだに、耳に入る炭治郎と客の会話から知ったことはそれなりにある。炭治郎が家にやってくるようになってからも、おしゃべりな炭治郎の話に耳を傾けているだけで、家族やら友達やらの話には少しは詳しくなった。
 あくまでも周囲の者の話だ。
 炭治郎は不思議と自分のことについてはあまり語らない。家に来るときは義勇の食事を作りにという建前があるためか、炭治郎はほとんど台所にいて、義勇はその物音を聞きながら仕事しているのが常だ。会話はあまりない。
 もともと会話するのが苦手な義勇にしてみれば、炭治郎から話を振ってくれないかぎり、会話のきっかけひとつ探すのも難しい。
 錆兎や真菰にならここまで気負うことはないのに。よく知らないという事実は、意外と根深いのかもしれなかった。
 けれど――。
 義勇は、フワフワと浮かんでは消える炭治郎のいくつもの笑顔に、口元を緩ませた。
 店を訪れたときに、義勇の姿を目にしたとたんに花開くようにはにかむ顔。作ってくれた食事にうまいと言えば、パッと輝くうれしげな顔。全部が鮮やかに目に焼きついている。
 人影のない階段の踊り場で、好きだと告げてくれたときの、緊張をにじませた顔も、初めて家にきたときの心配げな顔も。告白した日の真っ赤に染まった顔だって、全部、全部、覚えている。
 知らないことはいくらでもある。共に過ごした時間は錆兎たちとは比べものにならぬほど短い。それでもまだこれからだ。
 つきあいだして四カ月ほど。世間の恋人たちにくらべたら歩みは遅いかもしれないが、一歩ずつ、少しずつ、ふたりの距離は近づいているのだと思う。
 不甲斐ない自分でも、炭治郎が好きだと笑ってくれるなら、奮起もするし努力しよう。
 頭をよぎる炭治郎の笑顔に、気分が向上してくるのを感じながら、義勇は、こんな悩みすら幸せだと胸の奥で面映ゆさを噛みしめた。
 竈門ベーカリーが見えてきた。
 住宅街にある店は、もとはレストランだったのを脱サラした父が居抜きで買ったのだと知ったのは、いつだったろう。たぶん、炭治郎との会話で知ったのではない。おそらくは客の会話から察した話だ。
 職住隣接の竈門ベーカリーは、店の二階が住居部分になっている。店の奥にドアがあり、居住スペースへ向かう階段と繋がっているそうだ。そのため、店にもたまに幼い子どもが顔を出すことがある。
 言い含められているのか、まだ小さい三男や末っ子が店にくるのは少ないが、義勇も一、二度は顔をあわせていた。
 物怖じしない三男や、人見知りがちらしい末っ子とはまだ話したことはないが、ときどき店の手伝いをしている中学生の次男や次女は、もう顔見知りだ。禰豆子にいたっては言うまでもない。店主である母親の葵枝だって、よく声をかけてくれる。
 だが、これはどういう事態なんだ? 見えてきた光景に、義勇は思わず緊張に体をこわばらせた。
 店の前の駐車場に見える人影はひとつじゃない。
 減速したのは停車するためばかりでもなく、なんとなく近づきたくない気が少々する。なぜ家族勢ぞろい? と、内心は冷や汗ものだ。
 炭治郎は困り顔ながらも笑っている。禰豆子にひっくり返ったパーカーを直されて、照れ笑いする様は楽しそうだ。足に抱きついている末っ子の六太の頭をなでてやる顔は、長男らしい慈愛に満ちていた。
 明るくやさしい家族の光景に、喉の奥に苦いなにかを詰めこまれたような苦しさを、わずかに感じる。義勇の車が近づいたのに気づいたのか、竹雄が炭治郎の肩を叩くのが見えた。振り返った炭治郎の笑顔が目に入り、息苦しさもその理由も、明確に言語化される前に消えた。
 店の前に車を止めたときにはもう、胸を騒がせるのは度し難い緊張と戸惑いばかりだ。
 ともかく葵枝に挨拶しなければ。落ち着けと胸中で言い聞かせつつ義勇は車を降りた。
「おはようございます」
 軽く頭を下げながら言った声は、上ずってはいなかっただろうか。挙動不審になっていないといいのだが。
 義勇が生きた心地がしないでいることなど、まるで気づいていないのだろう。すでに仕事着に着替えている葵枝は、にこやかに微笑んでくれた。
「おはようございます、冨岡さん。今日は炭治郎をよろしくお願いします」
 眉をひそめられないのには安堵したが、それでも当惑や緊張が消え失せたわけではない。
 葵枝は純粋に挨拶をと思っただけに見えるけれど、母親にまで見送られるデートは、初心者にはハードルが高い気がする。心臓はかなりアップテンポで鼓動を刻んでいるが、それでもたぶん顔には出ていないはずだ。義勇は自分の滅多に働かない表情筋に感謝した。
 少々心配なのは炭治郎の鼻だが……。からかうなよと牽制するつもりで炭治郎をうかがい見る。その目を義勇は怪訝にまばたかせた。
 真っ赤な顔で炭治郎はカチンと固まり、ポカンと口を開いたまま義勇を凝視していた。どうしたんだろうとわずかに不安をおぼえつつ、義勇もまじまじと炭治郎を見つめる。
 ネイビーのパーカーに、白と緑のボーダーのTシャツ。ベージュのチノパン。ハイカットのスニーカー。肩にはトートバッグ。なるほど、真菰の言葉に虚偽はなかった。ネイビーに白は確かに鉄板の組み合わせなのだろう。爽やかで高校生らしい格好で、好感が持てる。けれども気負った感じはせず、普段見ている服装と大差なくも感じられた。
 かわいいけれど、俺ばかり張り切ってるみたいな気がするな。
 若干の気恥ずかしさは、硬直したまま身じろぎすらしない炭治郎によって、焦心に取って代わった。
 もしかしたら、自分の服装や髪があまりにも似合っていなくて、絶句してるんだろうか。真菰の太鼓判を貰ったコーディネートとはいえ、実際に見てもらったわけじゃないのだ。一般的には合格ラインのファッションでも、自分がそれに当てはまっているとは限らないじゃないか。
 写真を真菰に送ってチェックしてもらえばよかった。店員の褒め言葉なんてあてにならないと思ってたくせに、詰めが甘かった。いや、そもそも慣れないことなどしなければよかったのかもしれない。
カット
Latest / 04:57
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
午後7時のルイスリンプ 1
初公開日: 2021年01月17日
最終更新日: 2021年01月17日
ブックマーク
スキ!
コメント
現パロ義炭。サイト&支部に掲載している『午後4時のパンオショコラ』の続編です。恋愛小説家兼大学生×ファン兼高校生な義炭になっております。間違えて削除してしまったので再アップしました。加筆修正した結果、こちらのエディタの字数の関係上、ちょっと中途半端です(汗)
流れ星2
原作軸煉義『竜胆』の続編。告白からお初、そして……というお話です。この後の展開はR18になりますので…
オバ
流れ星
以前書いた『竜胆』という話の続編で、原作軸の煉義です。告白からお初までのお話になる予定。お初部分はロ…
オバ
神のまにまに弥栄、一陽来復春くりゃ笑え 後編
kwsk様の『龍のぎゆうさん』イラストから書かせていただいている最中の義炭。長くなったので後編です�…
オバ
塚口サンサン劇場「フリー・ガイ」「ベイビーわるきゅーれ」見てきました!
今日塚口サンサン劇場にて見てきた「フリー・ガイ」「ベイビーわるきゅーれ」の2作品の感想を書いていきま…
人形使い