幻滅されただろうか。一緒に歩くのすら恥ずかしいと思われていたらどうしようと、内心ひどくうろたえていた義勇の耳に、「わぁ!」という華やいだ女の子の声が飛び込んできた。あわてて視線を向ければ、花子が目を輝かせている。
「義勇さん、カッコイイ! モデルみたい!」
「おい、冨岡さんだろ?」
「あ、そっか。お兄ちゃんがいつも義勇さんって呼ぶから、移っちゃった」
 竹雄に小さく小突かれて、ペロッと舌を出して肩をすくめるやりとりが、微笑ましい。禰豆子ほど馴染んではいないが、中学生のふたりは店の手伝いにもくるので、義勇もそれなりに接している。
「義勇でかまわない」
 花子の言葉に、あきれられるほどひどくはなかったかと安堵しつつ、できるだけやさしく聞こえるよう言ってやれば、ふたりの顔がパッと明るくなった。
「やった。お客さんだけど、義勇さんは特別だもんね。他人行儀にしたくなかったんだぁ」
 しっかり者だと評判らしいが、やっぱり中学生だ。うれしそうに笑う花子はあどけない。 
「ぎゆさん?」
 炭治郎の足に半ば隠れて、ソロッと顔を出し言う六太に、小さくうなずいてみせる。威圧的にでも見えるのか、子どもに好かれることが少ない義勇は、少し緊張しつつ六太の反応を待った。
 今後を考えれば、家族に好かれることは重要課題だ。ただでさえハードルの高い恋愛である。家族の理解は必須だ。
 義勇の不安を払しょくするかのように、六太の稚い顔がはにかみをあらわに笑んだ。どうやら嫌われはしなかったらしい。
「ほらっ、お兄ちゃん。見惚れてないでっ」
 パンッと禰豆子に背中を叩かれ、炭治郎が前のめりによろけた。転ぶっ、と、つい手を伸ばし抱き留めれば、胸におさまった炭治郎が赤い顔のまま見上げてくる。ぼんやりとして見えたのは数秒、すぐに我に返ったか「ごごごごめんなさい!」と叫ぶなり飛びのいてしまった。
 かまわないのに。むしろ、離れられて残念だ。
 そんな義勇の心境を見透かしたわけでもないだろうが、茂が「ラブラブだぁ!」とはしゃいだ声をあげ、思わず義勇は硬直した。
「こ、こらっ! 茂!」
「朝からさわがしくてごめんなさいね、冨岡さん。この子たち、大好きなお兄ちゃんにつられて浮足立っちゃってるみたいで」
 苦笑する葵枝に、胸の奥がまた小さく痛んだ。
「いえ……気にしません。みんないい子ばかりですから」
 いたたまれなさに声はいくぶん早口になった。義勇がチリリとした胸の痛みの理由を探るより早く、弟妹に急かされた炭治郎が近づいてきて、よろしくお願いしますと頭を下げる。いつまでもここで家族の笑顔に囲まれているのは、なんだか息苦しい。そんなふうに感じる自分に罪悪感を覚えつつ、逃げるように義勇は助手席のドアを開けた。
 視線で促せば、どこかぎこちない動きで炭治郎が車に乗り込む。
「それでは、炭治郎くんをお借りします。遅くならないうちに帰りますので」
「遅くてもいいですよ~」
「兄ちゃん、ドジんなよ」
「お兄ちゃん、頑張ってねっ」
「炭治郎、冨岡さんにご迷惑おかけしないようにね」
 にぎやかな声で見送られながら、義勇は静かに車を発進させた。
 バックミラーに映る一同が消えても、車内は会話がなかった。気詰まりというほどではないが、なにを話せばいいのかわからない。
 いつもなら、炭治郎が率先しておしゃべりしてくるので、義勇が話題を探す必要もなかった。だが、ちらりと横目でうかがい見る助手席で、炭治郎はしゃちほこ張って座ったままうつむき黙りこくっている。
 とはいえ、不機嫌な感じは見受けられない。真っ赤に染まった顔は照れているように見えるが、緊張しているんだろうか。
「……仲がいいな」
「えっ? あ、はい! って、あ、ご、ごめんなさい! 俺、まだ挨拶もしてなかったですよねっ。おはようございます!」
 どうにか会話をと思って話しかければ、かわいそうなほどにうろたえる。恋人として初めて家に来たときもずいぶん緊張していたけれど、これほどではなかった。
 
 まだデートは早かっただろうか。
 
 少し不安をおぼえつつも、炭治郎の反応は義勇から見れば微笑ましくもある。
「いや、俺も言ってなかったな。おはよう」
「義勇さんはちゃんとあいさつしてくれてましたっ」
「あれはお母さんにだろう。今のはおまえに」
「そ、そうですか……。あ、あのっ、あんな全員勢ぞろいで、義勇さん迷惑じゃなかったですか? ごめんなさい。恥ずかしいからいいよって言ったんですけど、母さんはともかく禰豆子たちまで、義勇さんにご挨拶しなきゃって聞かなくって。昨夜からずっと、初めてのデ、デート、なんだからって、お祝いとか言い出すし義勇さんによろしくお願いしますって言わなきゃとか、俺より盛り上がっちゃって、茂や六太までわけわかんないくせに……ほんとにごめんなさいっ!」
 話しだせば今度はいつも以上にまくしたてる。顔も赤く染まったままで、笑みはない。いっそ泣きだしそうなほどに瞳が潤んで揺れている。心底申しわけなさがる様に、なんだか義勇のほうがいたたまれなくなった。
「気にするな。みんなおまえのことが大好きでたまらないんだろう」
 落ち着かせてやりたくて左手を伸ばし頭を撫でてやれば、たちまち口をつぐむ。逆効果だったかもしれないと、義勇は炭治郎の頭に置いた手をどうすべきかためらった。落ち着くどころか、ますます炭治郎の頬は赤味を増した気がする。このまま撫でていたいと思いはするが、炭治郎が困るのならば接触は避けたほうがいいのかもしれない。
「あの、片手運転、危ないですよ」
 恥ずかしそうにうつむいて、消え入りそうな声で言う炭治郎は、緊張しているというよりも今は照れまくっているようだ。罪悪感は薄れたのだろうか。まだ笑みを浮かべる余裕はないようだが、どこかうれしげにも見えた。
 肩をすくませ、モジモジと落ち着かなげに指をすり合わせる仕草がかわいい。ちろりと上目遣いに向けられた瞳からも、泣きだしそうな気配が消えた。
 緊張しても恥らっていても、危ないからと生真面目に言わずにいられない。そんな炭治郎に愛しさが、こみ上げ胸の奥がこそばゆくなった。
 やわらかな髪の手触りや、ほんのり伝わる体温は心地好く、手を離しがたい。だが、撫でつづけていれば炭治郎はますますうろたえてしまうだろう。ポンッとひとつ軽く頭をたたいて、義勇はどうにか手をハンドルに戻した。
 炭治郎は、一瞬だけ残念そうにも見えたけれど、横目でうかがうだけではよくわからない。けれど、少しだけリラックスしたようにも見えた。
 もっと道が空いていたら、よかったのに。さもなければ車でなく電車なら。もっと炭治郎を長く見つめることもできただろうに。
 義勇がそんなことを考えているとは思いもしていないだろう炭治郎は、チラチラと恥ずかしそうに義勇を見ては、口を開きかけまた閉じるのを繰り返している。だが、だんまりは炭治郎も気詰まりだったらしい。ようやく意を決したか、義勇に顔を向けてくれた。
「えっと……義勇さん、いつもとちょっと、雰囲気が違います、ね」
「そうか?」
 あぁ、やっとまともに話しかけてくれた。安堵する間もなく、またぞろ小さな不安が頭をもたげる。花子は褒めてくれたようだが、炭治郎の目には今の自分はどう映っているのだろう。
 炭治郎の格好はいつもと変わらぬように見える。もちろん、とてもかわいいけれど、自分だけが髪型まで変えているのだ。気合が入りすぎだとあきれられてないだろうか。それとも、炭治郎の好みとはかけ離れていたりとか?
 炭治郎は、いい年した大人の、しかも恋愛小説なんて書いている俺が、デートするのも初めてだなんて、きっと思ってもみないだろうな。
 幻滅されたらどうしたらいいのか。なんだか今度は義勇のほうが泣きたくなってくる。
 けれど心配は杞憂に過ぎなかったようだ。
「かっこよすぎて……その、俺、もっと大人っぽい格好すればよかったですよね。あのっ、禰豆子と花子に聞いて、こ、好感度あげる格好ってのは意識したんですけどっ。でも、全然義勇さんとつりあってない……」
 勢い込んで話しかけてきた炭治郎の早口な言葉は、尻すぼみに小さくなった。しゅんと肩を落とした姿に、義勇の緊張がゆるみ、代わりに胸を満たしたのは愛おしさと再びの安堵だ。
「……そんなことはない」
「でも」
「似合ってる。かわいい」
 横目で見やり、炭治郎の少し不安げな顔に微笑みかければ、またまろい頬が染まる。
 オーバーサイズのパーカーの袖から、ちょこんとのぞく指先が、キュッと握りしめられたのを見たら、思わずまた手が伸びた。
「……片手運転は駄目ですってば」
「もう赤になる」
 ちょうど交差点だ。信号が変わるまではいいだろうと、車に乗り込んでから初めて炭治郎に顔を向けた。
「かわいい」
 そっと撫でながら言った言葉に、嘘やお世辞はまったくない。炭治郎らしく元気で清潔なコーディネートは、義勇の好感度を確かに上げている。あえていつもと違うところを探すなら、パーカーのサイズぐらいだろうけれど、禰豆子たちのお薦めだろうか。よくよく見れば、服も靴も初めて見るものな気がする。
 禰豆子や花子に連れまわされて、目を白黒させながら言われるままに買い物する炭治郎を、義勇は思い浮かべた。ただの想像だけれど、きっと間違ってない。
 同じだ。初めてのデートに舞い上がって、緊張して、なにを着ていいのかもわからず慌てて。アドバイスにすがり、気に入ってくれるだろうかとドキドキと袖を通した、新品の服。炭治郎も、自分となにも変わらない。それがなんだか途轍もなく幸せだ。まるで中学生の恋みたいだと思わなくはないけれど、それも自分たちには似合っているのかもしれない。
 恋人初心者なふたりなのだ。少しずつでいい。ゆっくり進んでいくのが、自分たちには似合っているんだろう。
 信号が青に変わる。手をハンドルに戻した義勇は、不思議な心持でアクセルを踏んだ。
 小さな子どものようにはしゃいでしまいそうな、浮き立ち舞い上がる楽しさや、九死に一生を得たごときの安堵。わずかに緊張も残っているし、叫んで逃げ出しそうに恥ずかしくもある。そのどれもが本心で、とりとめがない。
 けれど、どれも恋しく幸せだからこその感情だ。
 両想い。恋人なのだ、炭治郎と俺は。同じ想いを向け合っている。噛みしめるように思って、面映ゆさに知らず義勇の顔に微笑みが浮かんだ。
 もしかしたら、炭治郎も同じことを考えたのだろうか。はにかむ笑顔を浮かべ、よかったと呟いている。緊張や不安はだいぶ抜けたらしい。
「今日はどこに行くんですか?」
 聞いてくる声もいつもの朗らかさを取り戻しつつある。
 教えてやるほうがいいのか、サプライズ感を大事にすべきか。少し迷って、結局義勇は素直に口にした。
「水族館」
 サプライズを成功させられるほど、慣れちゃいないのだ。無理をすればきっと自分は失敗する。
「水族館? 俺、遠足以外で行ったことないです」
「動物園やフラワーパークだと、匂いが気になるだろう?」
『鱗滝さんと同じ体質? 珍しいねぇ。それなら動物園やフラワーパークは却下だね。匂いで気持ち悪くなっちゃったら可哀相でしょ?』
「なんでわかるんですか!? そうなんです、俺、動物は大好きなんですけど、前に遠足で動物園に行ったときは、匂いが多すぎて途中で気持ち悪くなっちゃって……」
 真菰のアドバイスを受けておいてよかった。内心で盛大な安堵のため息をついた義勇に、炭治郎はうれしそうに笑った。
「俺の体質のことまで考えてくれたんですね」
 幸せそうにたわめられた目に、尊敬や感謝の色を見つけてしまえば、なんだかいたたまれなくなる。もちろん、炭治郎が喜ぶことを最優先に考えたとはいえ、真菰のアドバイスあっての選択だ。さすがは恋愛小説家ですねなどと、弾んだ声で言われると罪悪感すら覚えてしまう。
 黙り込んだ義勇を少し不思議そうに見た炭治郎が、不意に小さく鼻をうごめかせた。匂いで悟られるのは勘弁願いたい。
「水族館のあと、もしほかにしたいことがあれば今のうちに言え。映画とか、遊園地とか……」
「え? でも、そんなにいっぱい回るの大変じゃないですか?」
 きょとりと目をまばたかせる仕草はどこか幼い。物慣れない様は愛らしさと同時に、気遣いの気配がにじんでいて、かわいいと思いつつも少しだけ苦笑してしまう。炭治郎は家族や友達にわがままを言ったことなど、ほとんどないのだろう。義勇に対してもまだ同様なのか、迷惑じゃないか、困らせてはいないかとまず心配してしまうようだ。
 それは少しだけ寂しい気もするが、自分の努力が足りないからでもある。これもおいおいだ。もっとわがままを言えなどと言ったところで、炭治郎は困るだけだろう。
「水族館と同じ場所に映画館も併設してる。三十分もかからないところに屋内型だが遊園地もある。あぁ、観覧車ぐらいなら乗れるか」
「そんなにいっぱい!? え、あの、どこ行くんですか?」
 想像もつかないのだろう。炭治郎は呆然としてすら見えた。平静を装ってはいるが、その気持ちは義勇にもよくわかる。真菰に提案されたときの義勇の反応は、炭治郎と大差なかったのだから。
「品川プリンスホテル」
「へぇ、ホテルに水族館なんてあるんです、ね……って、ホッ、ホテル!?」
 すっとんきょうな声で叫んだ炭治郎の顔が、再び火がついたように真っ赤に染まった。あわあわと視線をさまよわせる様子に、思わず義勇もうろたえてしまう。
 ホテルという言葉だけでこの反応とは。思春期らしいと言えなくもないが、こんな態度をとられるとまた不埒な想像が浮かんできて、困る。
 意味なく空咳なぞして、義勇は胸のうちで落ち着けと自分に言い聞かせる。
 赤面しにくい質だからよかったものの、そうでなければ自分の顔もみっともないほど赤くなっていたに違いない。自分の体質にちょっとだけ感謝しつつ、炭治郎に気づかれぬよう小さく深呼吸なんかしてみる。
「おい、変な想像するな。ホテルのなかに水族館や映画館もあるんだ」
「へ? あ、そう、なんです、か……」
「おまえが高校を卒業するまでは健全なつきあいと言っただろう」
「そう、ですね」
 焦りが声に出ぬよう気をつけたら、自分で思う以上に冷たいひびきになったようだ。炭治郎はまたしょんぼりとしてしまった。
 どうにもうまくいかない。デートするにも才能がいるのだとしたら、自分はきっと才能ゼロな気がする。慣れぬ委員会の疲れを労わって、楽しい一日を過ごさせてやりたいのに、このザマだ。
「そうじゃなくても、葵枝さんたちの顔を見たあとでベッドに連れ込めるほど図太くない」
 自嘲と言い訳がないまじって、つい口をついた言葉は、我ながら情けない。だが、それが功を奏したようだ。
「それもそうですね。俺も、もし経験あっても無理かも」
 ようやく少し笑ってくれたのにホッとする。もしかしたら気を遣わせたのかもしれないが。
「でも、本当にすごいですね。ホテルに水族館や映画館があるなんて。義勇さん、小説家だから色々よく知ってるんですか?」
 ずいぶんと買いかぶってくれるものだ。思わず苦笑しそうになる。いたたまれなさも少々。なにしろ、義勇がそれを知ったのは真菰のレクチャーによってだし、下調べに昨日慌てて行ってみただけでそれまではまったく興味すらなかったのだから。
「……まぁ。取材で調べに行くこともある」
 わざわざ恥をさらすこともあるまいと、当たり障りのない答えでお茶を濁せば、炭治郎は感心しきった顔でほわりと笑った。
「そっかぁ。そうやっていっぱい頑張ってるから、あんなに素敵なお話が書けるんですねっ」
 素直な称賛はなんだかこそばゆい。頑張ればいい話が書けるというものでもないが、炭治郎にそんなことを言う必要もないだろう。仕事の愚痴を恋人に聞かせるなど、男らしくない。
 どうせなら、頑張ってる分、素敵なデートだったと思ってほしいものだ。
 義勇が胸中で割と本気で願っていることなど露知らず、炭治郎は楽しそうに真滝勇兎の小説のここが素敵だった、あそこが好きだと、話しだしている。やっといつものペースを取り戻してくれたとみえる。
 気恥ずかしくはあるが炭治郎が笑ってくれるのなら、それでいい。今のところ自分たちに共通の話題は『真滝勇兎』ぐらいしかないのだ。炭治郎の言葉に甘え恋人らしい努力を怠ってきたツケだと、甘んじて羞恥に耐えるしかない。
 どれだけ照れくさかろうと、炭治郎の楽しげな笑みには代えられないのだから。
 ◇◇◇
 高速を降りてしばらく行くと、品川プリンスホテルのタワー群が見えてきた。その合間に今日の目的地であるマクセルアクアパークがある。品川駅から徒歩二分という立地だから、電車で来るほうが楽だったかもしれないが、車中の会話を思えば車でよかったとも思う。ドラマや映画にもなるベストセラーには程遠いから、真滝勇兎という作家を知っている人などそれほど多くもないだろうが、義勇が作家であることは炭治郎の話ですぐにわかってしまうだろう。変な注目を浴びてはかなわない。
 炭治郎は、あれがプリンスホテルだと教えてやってから、ようやくデートだと思い出したらしい。ファンの顔から、初めてのデートにとまどいつつもワクワクとする、恋人の顔へと変わったような気がする。
 入館しいよいよ入場ゲートを通り抜ければ、パアッと瞳が輝いた。
 エントランスで出迎えてくれる水槽の魚たちは、投射される映像を反射させ、キラキラと色とりどりに光っている。館内で迷わぬようにと昨日下見に来たときには、ろくに見ることもなくひたすら場所を頭に叩き込むのに必死になっていたが、確かにこれは真菰が推すだけはある。
「きれいですねっ」
「そうだな」
 キラキラと目を輝かせて魅入る炭治郎の横顔が、青く染まっている。いつまでも見ていたい気もするが、まだウェルカムスペースだ。ここで時間を取られては全部回りきれなくなりそうだ。
「行こう。なかには遊園地みたいな乗り物も少しあるし、楽しめると思う」
「水族館のなかに!? 俺、遊園地も遠足でしか行ったことないです」
 ますます明るさを増した笑みも束の間、ふと、炭治郎の顔にかすかな陰りが落ちた。
 どうしたんだろう。わずかに不安が頭をもたげたが、すぐに、あぁそうかと合点がいった。
「……今度は禰豆子たちも誘おう」
「え? あ、いえっ、そんな、気にしないでください」
「俺も禰豆子たちがかわいい。親戚のおじさんに甘えるようなもんだと思っておけ」
 それならかまわないだろう? と言えば、ポカンとした炭治郎は、すぐに破顔しおかしそうにククッと笑い声を立てた。
「こんなきれいで若いのに、義勇さんをおじさんなんて思えませんよ」
「なら、お兄さんで」
 それならあながち間違ってはいないはずだ。何年か先にも炭治郎の隣にいるのが自分なら、義勇は立場的には義兄と変わらない。炭治郎もそれに思い至ったのだろう。青い光のなかではわかりにくいが、恥ずかしそうに小さな声ではいと答えてうつむいた顔は、きっと赤く染まっている。
 デートなのだと、炭治郎の恥じらいに改めて義勇は意識した。なんだか自分まで照れくさくなってくる。
「行くぞ」
 照れ隠しにぶっきらぼうな声で言い、先に立って進めば、炭治郎もはにかみながらついてきた。
 恋人らしく手を繋ぐことはできない。男同士だ。自分はともかく、炭治郎を下世話な好奇心や偏見の目に晒すことなど、できるはずがない。それでも、これはデートで、自分たちは恋人なのだと、胸の奥が温かく甘い感慨に満たされた。
 そのずっと奥に、小さな棘が刺さったようなチリッとした痛みがあることには気づかぬふりで、義勇は足を進めた。
 今はただ炭治郎に笑っていてもらうことだけ考えよう。それだけを強く心に刻む。
 緩やかなスロープを下ると、点在する水槽以上に存在感のある巨大な船型の遊具が目に飛び込んできた。昨日きたときにも思ったが、水族館に遊園地のような乗り物を設置する意味が、義勇にはさっぱりわからない。だが楽しげな歓声を聞くかぎり、喜んでいる人のほうが大多数なのだろう。
「わ、すごい! でもなんで水族館にパイレーツ?」
 炭治郎の感想もまずそこだったことに、なんだか安心すると同時に笑いたくなってくる。炭治郎とは年も違えば共通する趣味もたぶんない。だからだろうか、こんな些細なことでも同じだと思うとなんともうれしい。我ながらこれくらいで幸せになれるのだから安上がりな男だと、義勇は、面映ゆさをにじませた苦笑を浮かべた。
「乗るか? 苦手ならメリーゴーラウンドもあったはずだ」
「そんなもんまであるんですか!?」
「回ってるのは木馬じゃなくてイルカだのタツノオトシゴだけどな」
「あぁ! 水族館だから海の生き物なんですねっ。でもやっぱり意味がわかんないですね。あ、あのっ、文句があるわけじゃなくてっ」
 不平をもらしたと思われたくないのだろう。あわてて弁明する炭治郎は、身振り手振りまで交えて必死だ。文句を言われたなんてちっとも思っちゃいないのに。
 こらえきれず小さく吹き出した義勇に、炭治郎がピタリと止まった。
「気にするな。俺もまったく同じことを思った」
「そ、そうなんですか?」
 笑いながらうなずいてやれば、どこか落ち着かない様子でキョロキョロと視線をさまよわせる。
「どうした?」
「や、あの……そんなふうに笑うの、あんまり見ないから……」
 モジモジと指先をこすり合わせながら言う。袖から覗くのは指先だけというのは、思ったよりも視覚的にクルなと、なんとなく義勇も目をそらせたくなった。愛らしすぎて抱き寄せてしまいそうだ。
「なら、笑わないほうがいいか?」
「えっ!! や、ちがっ」
「冗談だ。本気にしなくていい」
 いじめるつもりはなかったが、炭治郎があんまりショックだと言わんばかりの顔をするものだから、義勇もつい慌ててしまう。本音を言えば炭治郎が困るのなら笑わないほうがいいのだろうと、本気で思ったのだけれども、それは言わぬが花だろう。
 よかったと心底ほっとした様子で笑う炭治郎に、それはこっちの台詞だとちらりと思う。
「じゃあ、あの、行きましょうか」
 誤魔化すように言う炭治郎の頭をこつりと軽くたたいて、義勇は薄く笑んでみせた。
「う、ず、ズルくないですか、義勇さん」
「なにが?」
「だって、そんないっぱい笑われたら心臓持たな……やっ、うれしいんですけど! めちゃくちゃきれいで格好良くて眩しいぐらいなんですけどっ!」
 笑顔を封印されてはたまらないとばかりに早口でまくし立てるのに、スンッと義勇の顔から笑みが消える。なんなら少し頬は引きつっていたかもしれない。
「え、なんで!? 笑ったら嫌だなんて言ってないじゃないですかぁ!」
 公衆の面前でいきなり褒め倒されて、それならと笑顔の大盤振る舞いができるメンタルなら、デートひとつにこれほど振り回されたりしてない。とは、さすがに言えず。
「声が大きい」
 ぼそっと呟いた瞬間、条件反射か炭治郎は両手で口を覆った。
 恐る恐る見上げてくる顔は、下半分隠れていても百面相してるのがよくわかる。
「ほら、水槽見るんだろう? 早くしないとイルカのショーに間に合わなくなるぞ」
「ショー!? 建物のなかでイルカがショーするんですか!?」
「見たいか?」
「はいっ! 俺、テレビでしか見たことないです!」
「匂いが大丈夫そうだったら、カピバラなんかにも逢えるらしい。イルカほど本格的じゃないが、カワウソとかオットセイのショーもあると聞いてる」
 喜ぶ顔がうれしくていつになく饒舌になった義勇に、炭治郎が何気ない声で聞いてきた。
「取材のときって実際に見たりはしないんですか?」
 言われて自分の言葉を反芻すれば、確かに伝聞ばかりで義勇が見たわけじゃないのが丸分かりだ。
「時間がなかったから……」
 嘘じゃない。半分は。取材のために来たわけじゃなく、炭治郎の前で格好つけたくて下見に来ただけなので、ショーを見るような時間はてんでなかった。入館するときだって、チケット売り場のスタッフに二日続けてきていることに気づかれたら気まずいな、などとちょっと不安だったりしたのだ。一々客の顔なんて覚えちゃいないだろうとは思うけれども。
「作家さんって大変なんですね。お家でも義勇さんすごく真剣にお仕事してるし、だからあんなに素敵な小説を読ませてもらえるんだなぁ」
 またぞろうっとりと目を細める炭治郎は、どこか夢見がちな表情だ。真滝勇兎は義勇自身ではあるけれども、これほどまでに真滝のことばかり褒められると、なんとなく面白くない。炭治郎に褒められるのはうれしいけれど、恋人というよりもファンの顔をされると、デートじゃなくてまるでサイン会かなんかのようではないか。
 だからといって、先ほどのようにきれいだの格好いいだのとまくし立てられても、それはそれで困るのだけれども。
「立ち止まってたら邪魔になる」
「あ、そうですね。へへ、イルカもカワウソもすっごく楽しみです! カピバラも見に行きましょうね!」
 笑う炭治郎の顔にはもう、家族への罪悪感も、デートに対する緊張感も見えない。幸せそうにたわんだ目がうれしくて、手を繋ぎたいとまた思う。グッと拳を握ってこらえ、義勇は炭治郎の隣に並んだ。
「全部見て回るか」
「はい!」
 こんなふうに笑っていてほしいから、義勇は拳を握る。胸の奥の小さな棘が、また少し痛んだ。
 子どものころ行ったことのある水族館と違って、今の水族館というのは本当にデートスポットとしても人気なのだなと、感心する。家族連れや友人グループらしい者も多いが、明らかにカップルだとわかるふたり連れがやたらといる。
『たかが水族館なんて思ってるでしょ? 今の水族館はね、すっごくオシャレなんだよぉ。魚を見るだけの場所じゃないの。映像とかライティングに凝ってるとこなんかは、とってもロマンティックなんだから』
 プロフェッサー真菰のおっしゃる通り。まさしくロマンティックを売りにしてるとしか思えないような、凝りに凝った光と映像だけでも見ごたえがあるのに加え、気ままに泳ぐ魚やクラゲと相まって、実に幻想的な水槽が多い。見ているだけでもムードが高まるのだろう。きれいとはしゃぎながら寄り添うカップルの多いのなんの。
 義勇はもちろん、炭治郎も美しい演出には感嘆のため息を漏らしていたが、それでも、ロマンティックよりも少年らしい男のロマンのほうに惹かれるのは間違いないようだ。大きなエイたちが泳ぐトンネル状の水槽での歓声が一番大きかった。
「ここで結婚式を挙げることもできるらしい」
「ここで? マンタたちに誓うのかな?」
 目をぱちくりとさせるその顔を見るかぎり、まだまだ炭治郎はロマンティックとは縁遠いようだ。その幼さが愛おしくもありもどかしくもある。
「誓われてもエイたちも迷惑だろうな」
「絶対に困っちゃいますよねっ」
 声は控えたとはいえ、思わず笑いあったのは周りには少し迷惑だったのかもしれない。視線を感じて横目でうかがうと、カップルの男のほうが憮然とした顔をしてにらんでいた。
 女性のほうは男を宥めつつチラチラと視線をよこしてくるが、義勇たちを見る目には、不快感よりも好奇心のほうが強く表れている気がする。
 炭治郎も気づいたのだろう。困ったように笑みを消し、まなざしだけで義勇を仰ぎ見ていた。
「そろそろイルカのショーの時間だ」
 行こうと促せば、赫い瞳にわずかな安堵がにじむ。そこまでうるさくした気はしないが、もしかしたらここで結婚式を挙げる予定でもあったんだろうか。馬鹿にされたとでも思ったのかもしれない。悪いことをしたなと思いながらも、気に病むほどのことではないだろうと義勇は結論づけた。
 炭治郎も気を取り直したようだ。円形のスタジアムに入った途端に、興奮が抑えきれなくなったのか体をピョンピョンとゆすり、ここでイルカが跳ぶんだ、すごいなぁと目をキラキラさせていた。
 うれしそうな炭治郎を見ているだけで、義勇も忘れかけていた童心がよみがえってくる。ショーが始まればなおさらだ。あいにくと後ろのほうの座席になったが、前方の席はけっこう水をかぶっていたようだから、案外いい席だったかもしれない。
 曲に合わせて豪快にジャンプするイルカたちに、すごい、賢いと、大興奮で手を叩いて喜ぶ炭治郎は、実に愛らしくなんともいえずかわいい。水槽を見て回っているときもそうだったが、気がつくと義勇の視線は、魚たちよりも炭治郎へと向いてしまう。
 幻想的な光に照らされた横顔は、子どものようにあどけないくせにどこか艶やかで、思わず見惚れた。イルカたちの演技に顔いっぱいに笑みを浮かべている今は、瑞々しい若葉のきらめきにも似て、愛おしさがこみ上げる。
 ただ。思い返した先ほどまでの時間のなかで、ときどきふと不安そうに瞳を曇らせていたのが気になった。そんなときは決まってほかの客の視線がこちらを向いていたように思う。
 義勇とつきあう以上、ジロジロと好奇や差別の目で見られることは少なからずあるだろう。炭治郎はきっと、一度たりとそんな視線にさらされたことなどないはずだ。
 炭治郎の想いを受けとめ、自分の恋心を伝えたことを後悔などしていない。炭治郎にも後悔してほしくはなかった。それでも幸せなだけではいられなくなるときはくるのだろう。
「うわぁ! 義勇さん、見ましたっ? 今のジャンプすっごく高かったですね!」
 沈みかけた義勇の意識が、明るい炭治郎の声で引き戻された。
「……あぁ」
「水族館ってこんなに楽しかったんですね。義勇さん、連れてきてくれてありがとうございます!」
 裏のない笑みで言い、炭治郎は、禰豆子たちも来たら喜ぶだろうなぁとどこか遠い目をする。こういうとき、赫くまあるい瞳には、義勇は映っていない。家族を想い責任を負う長男の顔を炭治郎はする。
 寂しい、なんて。決して言ってはいけないことだとわかっているから、義勇はわずかなやるせなさを飲みこんだ。腹に溜まって澱んでいく切なさを浚う術はもうない。飼いならすしかないのだろうなと、責任ある男の顔といじらしい子どもの顔を併せ持つ炭治郎の横顔を見つめながら、義勇はぼんやりと思った。
 一通り館内を見て回りイルカのショーが終われば、時刻はもう昼を過ぎている。このまま館内で食べてもいいし、ホテルのレストランに行ってもいいのだが、なにしろ炭治郎は高校生だ。ランチタイムということで、ホテル内だろうと厳しいドレスコードはないよせよ、慣れない場所では緊張するだろう。
「今度はどこに行くんですか?」
 水族館を出て車に乗り込むと、炭治郎が目に見えてワクワクと聞いてくる。朝の緊張感はすっかり消えて、期待のハードルばかりが上がっているようだ。
「あそこでは乗らなかったが、遊園地もあまり行ったことないんだろう?」
「あぁ、はい。あ、もしかしてお台場?」
 おや、と義勇の眉がかすかに上がる。
「行ったことあるのか?」
「いえ、前に竹雄が友達に誘われて行ったことがあって。そのときは遊園地よりもテレビ局に興奮してましたけど」
 タレントに逢えたわけでもないのに、非日常的な場所だと思うとすごくワクワクしたらしいと、炭治郎は苦笑する。
「おまえは?」
 別にどうしても遊園地でなければいけないというわけじゃない。炭治郎が喜ぶのなら義勇はどこでもいいのだ。
『お台場だったら品川からも近いし、遊園地でもショッピングでも楽しめるでしょ? なんなら海浜公園で散歩っていうのも楽しいと思うよぉ。ウィンドウショッピングして、服の好みとかを探るって手もあるよねっ。駐車場も多いし、お昼ご飯はファーストフードでもいいんじゃないかな。義勇の話を聞くかぎりじゃ、全部奢りはかえって委縮しちゃいそうな感じの子だしね』
 まったくもって至れり尽くせりで、しばらく真菰には頭が上がらないなと、義勇は胸のうちだけで苦笑した。
「んー、義勇さんと一緒なら俺はどこでも楽しいですけど、禰豆子たちにお土産買えるとこがいいです」
 水族館のショップでは、禰豆子や花子が大喜びしそうと興奮しながらも、縫いぐるみを買うのはあきらめていたから、もう少し手頃な値段の土産が欲しいのだろう。
「義勇さんが買ってくれたイルカのクッキーだけでもいいんですけど、やっぱり俺もなんかあげたいなって」
 俺の土産は下心込みだとは、さすがに言えない。家族の好感度を上げておきたいという打算が見える貢ぎ物だ。本当なら全員にそろいのグッズを買ってもよかったけれど、クッキー一箱でさえ恐縮しまくり、散々ごねられた。縫いぐるみを買おうとしていたのなら、雰囲気は最悪になっていたかもしれない。あらかじめ真菰から厳命されていてよかった。
 というか、義勇の話だけでそこまで読む真菰が、ちょっと空恐ろしくなる。きっと錆兎は一生尻に敷かれるんだろうなと、ちょっぴり遠い目にもなった。
「それならウィンドウショッピングでもするか」
「義勇さんは見て回るだけでもいいんですか?」
「おまえが楽しければなんでも楽しい」
 掛け値なしの本音は、気負いなくするりと口をついた。真菰と錆兎のことを考えていて、少し気が逸れていたからというのもあるだろうが、炭治郎との会話に集中していたとしても答えは同じだ。
 うっ、と言葉に詰まって赤面した炭治郎は、それでも幸せそうに笑い、同じですねとはにかんだ。
 一緒ならどこでも楽しい。確かに同じだなと、義勇も唇に笑みを刻む。
「そうだな」
 最初は不安と戸惑いばかりだったが、やっぱりデートしてよかった。禰豆子たちにも真菰にも感謝しなければ。気持ち的にはクッキー一箱ぐらいじゃ申しわけないぐらいだ。
「そのまえに昼にしよう。ハンバーガーでいいか?」
「はい! あ、あの、今度はちゃんと自分の分払いますから!」
 いっそ鼻息荒くと評していいほどキッパリ言いきった炭治郎に、義勇の笑みが苦笑に変わる。
「わかった」
 うなずいてやれば満足げに微笑む。真菰への土産は張り込んだほうがいいかもしれない。
 パーキングに車を止めて外に出れば、潮風が吹きつけてくる。目の前に広がる海に炭治郎のテンションが一気に上がったのがわかった。
「海だぁ! 気持ちいいですねっ!」
 水族館でも思ったが、やはり炭治郎はどちらかというとアウトドア派なのだろう。生き物と接したり自然に触れるのが好きらしい。ファーストフード店で昼を食べたら一休みして、少し散歩するのもいいかもしれない。海浜公園から目的のパレットタウンまでは十分ほどで着く。夕飯前に送り届けようと思っていたけれど、買い物はきっと土産探しぐらいだろうから散歩に時間を取って、食事をしてから帰るのでもいいか。
 これからの予定を考えるのに気を取られていたら、つん、と袖を引かれた。
「義勇さん? どうしました?」
「あ、あぁ、いや、散歩するのに気持ちいい陽気だなと……」
 少々バツ悪く答えたら、なんだと炭治郎は安心したように笑った。義勇のジャケットの袖を掴んだ手はまだそのままだ。大きめのパーカーの袖から覗く指先が、チョコンと自分のジャケットの袖を掴んでいる光景は、なんだかもう胸が詰まる。
 なんなんだ、このかわいい生き物。
 愛らしすぎてどうしたらいいのかわからなくなるだろうが。思わず唸りそうになって、つい空咳すれば、炭治郎の手は離れていってしまった。
 咎めたように感じられたのだろうか。失敗したと内心焦ったが、そういうわけではなかったらしい。またモジモジと指をすり合わせ、チラチラと周囲に目をやっている。
 つられて義勇も辺りをさりげなく見まわせば、観光客だろうか、女性のグループがこちらを見てひそひそと話しているのが見えた。
 よくよく注意してみると、そういうグループや二人連れはそこここにいて、義勇たちは注目を浴びているのに気がついた。
 舌打ちをしなかっただけでも自分を褒めたい。炭治郎に下世話な目など向けさせたくなかったのに、なにが悪かったのだろうか。炭治郎が袖を引いたのは、特別なことではないはずだ。義勇の目にはとんでもなくかわいらしく映りはしたが、仕草自体はどうということもない普通の接触だろう。
 ならば、原因は自分か。グッと喉の奥が詰まる。
 見るからにゲイテイストなファッションなどしたことがないし、する気もない。これまでだって、同じ性的指向のいわゆるお仲間ならばともかく、見ただけでゲイだと思われたことなどなかったのに。
 炭治郎といると、やはり自分は『普通』でいられないのだろう。怪しまれて炭治郎まで奇異の目を向けられるぐらいに、炭治郎への愛おしさが駄々洩れになっているに違いない。
 水族館では気がつかなかったが、考えてみれば家族連れやカップルのほうが多かった。他人のことなど目を向けることがない人らだ。だがお台場は観光に来ているグループもかなりいる。
 もっと注意しなければ。炭治郎には楽しい思い出だけを作ってやらないと。
 適正な距離をとって、友人の、いや、年齢を考えれば親戚辺りが妥当か。くしくも自分が言ったとおりだ。炭治郎と自分は親戚の子とおじさん。いや、お兄さん。自嘲の笑みを抑えこみ、義勇はため息を飲みこんだ。
 わかっていたはずだ。人目のある場所で、恋人らしくあることなどできやしないことぐらい。
 それでも笑っていてくれるなら。恋人らしい振る舞いはなにひとつできなくても、炭治郎が楽しい、幸せだと、笑ってくれるならそれでいい。
「行こう。腹が減っただろう」
「あ、はい」
 歩き出した義勇の少し後ろを炭治郎がついてくる。先ほどよりも少し距離が近い気がした。隣を歩きたいのだろうということはすぐにわかった。だが、それではまた炭治郎が変な目で見られる。
 わずかに顔を向ければ、物言いたげな赫い瞳と目があった。けれど義勇はそ知らぬふりで視線をそらせた。親戚の適正な距離なんてわからない。どうすれば炭治郎を傷つけることなく、笑顔のままでいさせてやれるのか。わからないまま義勇は足を速める。
 心地好いと思った風は、べたりと肌に貼りつくようで不快感ばかり伝えてきていた。
 炭治郎もよく行っているのだろう全国的なファーストフードチェーン店で食事する間も、炭治郎の表情は浮き沈みを繰り返していた。原因ははっきりしている。やたらとこちらを注視し、ひそひそと内緒話してはキャアキャアと甲高い声で笑う女子高生らしいグループがいた。不躾すぎるあからさまな視線は、義勇も不快感に眉をひそめてしまったくらいだ。そんな目で見られることなどまるで想定してしていなかっただろう炭治郎なら、なおさら針の筵のように感じられたことだろう。
 散歩中はまだよかった。いたたまれなさを増長させる騒がしい店内から外に出たとたんに、炭治郎は、ホゥッと安堵のため息をついてた。土曜のファーストフード店なんて、穏やかな空気からかけ離れている。竈門ベーカリーのような居心地の良さなど望むべくもない。無遠慮な視線もいたたまれなかっただろうが、人の多さもきっと落ち着かなかったのだろう。
 潮風に吹かれながら海を眺めて散歩すして、炭治郎の気分も持ち直したように見えた。なんで日本に自由の女神と、水族館と同じようなことを言いあい笑ったときには、スッキリと気持ちを切り替えたのだろうと思えたのだけれど。
 人のまばらな公園から、観光客であふれる複合施設ではもう駄目だった。義勇も神経が過敏になっているからか、人の視線がやたらと気になる。炭治郎も同様だろう。ときおり周囲を見回しては、不安からなのかピタリと義勇にくっつこうとする。余計に見られるからと教えてやるのは、なぜだかためらわれて、義勇はそのたび炭治郎から少し距離を取った。炭治郎の目が泣きそうに揺れるのも、そっと唇を噛みしめるのも気づいていたが、頭を撫でてなぐさめてやることすらできなかった。
 土産を探してキャラクターグッズなどを見て回るあいだは、家族のことで思考のほとんどが占められていたんだろう。散歩していたときと同じく穏やかに笑っていたけれど、店を出てしまえばもう駄目だ。夕食なんて食べるどころじゃない。
「観覧車、乗るか?」
 このままデートを終わらせるのは忍びなく、心苦しさを隠して誘いをかけてみると、意外なほど食いつきよく炭治郎は了承した。ようやく見られた翳りのない笑顔に、義勇も胸のつかえが下りる。
 夕暮れの観覧車はそろそろイルミネーションが灯る。乗客も家族連れからデート中のカップルに切り替わりだす時間だ。
 すっかり日が暮れてしまう前でよかった。カップルばかりではまた炭治郎を委縮させてしまうかもしれない。乗り込んだゴンドラは、十六分かけて一周するらしい。雄大な海を見るには薄暗く、夜景にはまだ少し早い時間。展望を楽しむには中途半端ではあるが、炭治郎はうれしそうだった。
 向かい合って座ったゴンドラで、外を眺めるよりも義勇を見つめる時間のほうが長かった気がするほど、炭治郎はしゃべりつづけた。もしかしたらそれは、不安を掻き消すためだったのかもしれないと、義勇が思いついたのは家に帰り着いてからのことだ。
 頂上が近づくにつれ、なんとなし、炭治郎が緊張を漂わせてきたのに気づいてしまったから。
『五作目の本で、観覧車のてっぺんでキスするとこがあったじゃないですか。あれ、すっごくドキドキしました。本当にきれいで切なくて、俺、ちょっと泣いちゃいましたもん』
 朝、炭治郎は確かにそう言っていた。知り合う前に貰ったファンレターでも、そんなことを書いていたのを覚えている。
 すっかり頭から消えていたかねてからの悩みが、現実感をともなって義勇に迫っていた。
 デートなのだ、キスぐらいするのは当然なのかもしれない。ほかのゴンドラに乗っている客のなかにも、同じ緊張に包まれているカップルだっているだろう。けれど、そんな人たちと自分らは違う。微笑ましさも、きれいで切ないと思われることもない、男同士だ。
 てっぺんならほかのゴンドラからも見られない。告白したときのように、そっと唇をあわせるだけでいい。思いはする。だが、止められるのか? 炭治郎に触れて、自分はそれだけで我慢できるんだろうか。
 今日一日、ずっと触れるのを自分に制してきた。炭治郎を慰め、安心させてやりたかった。抱きしめたいという衝動にすり替わるのは、きっとたやすい。
 てっぺんが近づいてくる。一瞬だけ。自制すれば。頭のなかで誘惑する声が聞こえる。止められるのか? しかも失敗なんかしてみろ、目も当てられないぞ? 幻滅されてフラれること請け合いだ。せせら笑う声が頭を冷やす。そのせめぎ合い。
「あの……義勇さん、そっち行っても、いいですか?」
 炭治郎の声は少し上ずり、掠れている。膝の上でキュッと握られた手も、小刻みに震えていた。
 おいで、と。呼んでしまいたい。ひどく喉が渇いていた。ドクドクと鼓動が早い。
 触れたい。キスしたい。抱きしめて、頭を撫でて、それから……それから?
 その先が、俺たちにあるのか?
 炭治郎を抱きたい。欲はある。けれど、その先を自分は本当に考えていたか?
 身じろいだ拍子に、膝が傍らに置いていた紙袋に当たった。炭治郎が家族へ土産をえらんでいたときに、炭治郎に内緒で買った禰豆子たちへの土産だ。炭治郎がむくれたら、これはデートさせてもらった礼の分とうそぶいて、止められる前に葵枝に渡してしまおうと思っていた。
 あぁ、そうだ。胸の奥底に刺さった小さな棘の正体を、やっと義勇は理解した。気づかぬふりをしてきたことを自覚したとも言える。
 あの温かい家族を壊してしまうことが、いや、壊せないと炭治郎に泣かれることが、怖かった。
 無関係の第三者たちがぶつけてくる、遠慮のない注視。ひそひそと声を潜めて、自分たちをチラチラと見ながら、話す少女たち。耳障りな笑い声。炭治郎の笑顔を陰らせたそれらから、逃げたいと告げられても義勇には引き留める術なんてない。
「……動くと、危ないから」
 馬鹿馬鹿しい言い訳に、炭治郎はヒュッと小さく息を飲んだ。
 なんで、どうしてと、問い詰めてはこない。炭治郎は、わがままを言わない。義勇に対しても。
「そう、ですね……」
 ゴンドラの窓の外はどんどん暗くなっていく。灯り始めた明かりは美しい夜景のパノラマを描き出しているのに、うつむいた二人の瞳に映ることはなかった。
 てっぺんは、無言のまま過ぎていった。
 帰りの車中で、炭治郎は痛々しいぐらいに平静を装い、ぎこちなくしゃべりつづけていた。このまま終わりたくないのは義勇だって同様だ。どうにかこの空気を壊したい、幸せに笑って「それじゃあまた」と言い合いたい。口にはしないそんな言葉が、炭治郎の上滑りな言葉たちの影から聞こえてくる。
「……疲れただろう、寝てていい」
 別れる気なんてない。離れたくない。だけど気づいてしまった未来への不安に、義勇は逆らえなかった。会話するのすら怖い。怯えは義勇の声をいつも以上に平坦なものにさせて、自身の耳にすらどこか冷たくひびいた。
「……はい、すみませんけど、そうします」
 わがままを言ってくれ。身勝手な言葉があふれそうになって、義勇はきつく奥歯を噛みしめた。口を開けば専横な言葉で責めてしまいそうで、息をするのすら怖い。
 シートを倒して横になった炭治郎から、寝息は聞えてこない。
 嘘だけでなく、狸寝入りすら下手なんだな。
 苦笑よりも涙がこぼれそうだった。
 恋しさは、愛おしさは、こんなにも胸にあふれてひと欠けらも減りそうにないのに、手を伸ばすことができない。
 結局自分は、まだ覚悟なんてできちゃいないのだ。臆病で、卑屈な、卑怯者。炭治郎を守り抜く自信なんて、欠けらも持っちゃいない。
 夜の高速を、車は静かに走る。ヘッドライトの先にあるのは、一体なんだろう。今となっては今朝までの悩みなど、能天気すぎてあきれるよりほかない。
 恋の楽しさや喜びだけ、ふたり抱きしめていられたらいいのに。
 ごめん、禰豆子。炭治郎のためだろうと、せっかくデートの機会をくれたのに。ごめん、真菰。デートが成功するようにって、あんなにいっぱい考えてくれたのに。
 ごめん。
 ごめん、炭治郎。
 こんなにも不甲斐なくて、情けなくて。それでも、まだ放してやれそうになくて……手を取ってしまって、ごめん。好きになって、本当に、ごめん。
 車は走る。夜の街を。重苦しい空気を乗せて。朝とは逆の道を。
 竈門ベーカリーの明かりはまだ着いていた。だがそろそろイートインもラストオーダーだ。
 駐車場に車を止めたのにあわせて、炭治郎がゆっくりと起き上がった。目が覚めたというにはタイミングが早い。眠ったふりをつづけるのも苦しかっただろうに、炭治郎はシートベルトを外すと義勇に小さく笑いかけてきた。
「今日はありがとうございました。禰豆子たちへのお土産まで貰っちゃってすみません」
「いや……」
 なにを言えばいい。それじゃあまた? 楽しかった、おやすみ? 当たり前の言葉が空々しく頭に反響する。
 どんな言葉でなら、胸をざわつかせる不安や苦しさを伝えることなく、愛しいこの子を安心させてやれる? 百万語費やしてもまだ足りそうにない愛おしい気持ちを、どうすれば過たずこの子に伝えてやれるんだろう。
 作家だなんて肩書も、自分の恋の前にはあまりにも無力だ。
 言葉をつづけられない義勇になにを思うのか、車を降りた炭治郎は、それでもドアを閉めず佇んでいる。少し腰をかがめて、義勇の目を見つめたままだまりんでいる炭治郎に、義勇の喉が緊張にゴクリと鳴った。
 そこはかとなく思い詰めた風情で、クッと唇を噛んだ炭治郎の赫い瞳に、決意の火が見えた気がした。
 手にした紙袋がぶつかり合って、ガサリと音を立てた。炭治郎の上半身がまた車内に戻ってくる。運転席の義勇に向かって身をのりだす炭治郎から、目が逸らせない。薄く開かれた炭治郎の唇は、怯えているかのように震えていた。
 店内からは、義勇の車が止められたのは見えていないだろう。それが証拠に出迎えに出てきそうな禰豆子たちが、ドアを開くことはない。
 もしも。もしもこのまま唇を重ねて、こらえきれず抱きしめ奪うように連れ去っても、きっとまだ時間の余裕はある。炭治郎も望んでいる。せめてキスしてやれば、きっとこの子は不安を一先ず先送りにするのだろう。
 そして、ふたりそろって不安に蓋をして、綱渡りのように上滑りな笑みを浮かべ合うのか。いつか落ちると怯えながら? この子に、そんな思いをさせるのか、俺が。
 炭治郎の動きが止まった。義勇の手が、頭に触れた瞬間に。
「また、連絡する」
 これ以上近づいては駄目だと示すかの如くに、赤みがかったやわらかな髪に触れた義勇の手も、情けないぐらい震えていた。固くこわばる体は左手ひとつうまく動かせず、ぎこちなく撫でてやることすらできずにいる。
 ポンと頭に乗せただけの、緊張に冷えた手を、炭治郎はどう思っただろう。
 思い詰めた瞳から、スッと火が消えたのを義勇は見た。
 形ばかり唇が、目元が、笑みを作る。作り笑いなんて、炭治郎には似合わないのに、馴染まぬ上っ面だけの笑みを浮かばせたのは、ほかでもない自分なのだ。
 ギリッと心臓が引き絞られて、千切りとられるかと思った。それぐらい、炭治郎の上辺だけの笑みは胸に痛い。
「はい……あ、あのっ、夏休みに入るまで忙しいのつづくらしくて……返信も遅くなっちゃうかもしれないんですけど」
「あぁ……気にするな」
 ゆっくりと炭治郎の体が引いていく。頭に乗せていた義勇の手を残して。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
 バタンと音を立ててドアが閉まった。拒絶された、なんて。そんなふうに考えること自体が思いあがりだ。愛想をつかされたなんて、炭治郎はそんなこじゃないと知っているのに。自分の苦しさにや痛みに酔って、悲劇のヒロインでも気取ってるつもりかと自分を心のうちで嘲笑う。
 嘆く資格すら、今日の自分にはまるでない。全部自業自得だ。
 静かに発車させた車のバックミラーに、炭治郎が映っている。それも時を置かずくるりと背が向けられた。店のドアに向かう炭治郎の背中も、すぐに小さく遠ざかり見えなくなる。
 ガサッと後部座席で音がした。
「……禰豆子たちへの礼を、渡しそびれたな」
 ポツリと呟いた声を、倒れた紙袋だけが聞いていた。
 ◇◇◇
 気が重い。口を開けばため息ばかりが落ちる。けれどもそれは、先週までの幸せだからこその悩みゆえじゃない。
 絶対にデートの結果を報告にくること。真菰に厳命されている以上、義勇には誤魔化せるとも思えず、ましてや逆らいようなど微塵もなく。しかたなし、ふたりに買った土産に加えて禰豆子たちへの礼のために買った土産も携えて、義勇は、先日半ば連行された道を傷心で辿る。
 車に乗る気にはなれなかった。昨夜はほとんど眠っていない。眠れなかった。これで事故でも起こした日には目も当てられない。
 二日続けての寝不足で、少し頭痛がする。昨日と同じく空は青く澄み、気持ちのいい日和だというのに、義勇の心境はと言えばどん底の一語だ。
 昨夜は、おやすみのメッセージすらこなかった。メッセージのやり取りひとつとっても、いつもならきっかけは炭治郎からだ。義勇のほうから自発的に送ったことなど一度もなかったのだと、否応なしに気づいてしまった。
 いったいどれだけ炭治郎に甘えていたんだか。しかも昨日のデートは最悪ときたもんだ。気がつけば勝手に落ちるため息は、深く重い。
 ポカポカ陽気の穏やかな休日だというのに、住宅街の道をうなだれて歩く義勇の姿は悄然としている。
 身だしなみに気を遣う余裕もなく、食欲もない。ほとんど眠っていないまま迎えた朝日は眩しすぎて、いっそ土砂降りになれと空まで呪いたくなったものだ。
 顔だけは洗ったものの、ひげも剃ってないし髪もとかさずひっつめただけ。部屋着としか言いようのないスウェットを着て、ノロノロ歩く様は昨日とは雲泥の差だ。
 炭治郎に見られたらだらしがないと幻滅されるだろうか。思い浮かんだそばから、しばらくは逢うこともできないのだと、また落ち込む。
 デートは完全に失敗だ。もしかしたらこのままおつきあい終了もあり得る。考えただけで引き裂かれそうに胸が痛むけれども、頭の片隅では、それが最良だと自嘲する自分の声も聞こえた。悲観的な言葉しか浮かんできやしない。
 なにが悪かったのか。考えだせば後悔はとめどなく湧き出る。気がつけば鬱々と昨日の炭治郎の顔を思い出す。足取りはますます重くなった。
 健全極まりない初デートひとつとっても、あれだけ不快な視線にさらされて、恋人らしいやりとりなどなにもない。キスしてほしいと炭治郎が望んでいたのに気づいていたくせに、怖気づいて人目のない車の中ですらしてやることができなかった。フラれて当然じゃないか。
 なにが悪かったかなんて、何度考えても答えはひとつだ。炭治郎の想いに答えた自分が悪い。
 始めなければよかったのだ。自覚した恋心を実らせようとなんてしなければよかった。
 おねェタレントが引っ張りだこになっていたり、男性同士の恋愛をテーマにしたドラマや映画が流行ったり。世間は同性愛に寛容になりつつある。けれどそれは他人事だからだ。自分と関係ないからこそ、純愛だのなんだのともてはやせる。
 もしも自分の息子が、兄が、男の恋人を連れてきたらと考えてみるといい。それまで口にしていた「愛に性別なんて関係ない」などという言葉は、おいそれと口にできなくなるはずだ。
 ゲイであるこちらだって同じこと。恋する気持ちは異性愛者と変わらないのだと声高に言える者がどれだけいる。ほとんどの者は、自分は差別なんてしないとは言えても、自分はゲイだと告白することができないだろう。少なくとも、自分の家族や大切な友達には、怖くて言えない。
 カミングアウトする勇気も持っていないくせに、炭治郎を同じ目に遭わせる道をえらんでしまった自分は、なんて傲慢なんだろう。義勇はグッと唇を噛みしめる。
 炭治郎が義勇に恋していることを、竈門家の面々は知っている。昨日までの様子を見れば、微笑ましく見守り、応援しているのは疑いようがない。義勇に対しても好意をいだいてくれているのは明白だ。
 だが、実際につきあっていること知れば、どうなるだろう。恋に夢見がちな年頃である禰豆子や花子は、祝福してくれるかもしれない。けれど同じ男であり思春期真っただ中の竹雄は? 母である葵枝は? 幼い茂や六太にどう説明する?
 テレビや紙面で見るからこそ見苦しくもなく、いっそキラキラと美しくすら見えているだろうゲイのアレコレなど、実際には、不自然極まりなく醜悪としか言いようがない。性行為ひとつとっても、異性間と違って面倒でみっともない下準備を必要とするのだ。ロマンティックなムードなんて望むべくもない。抱きたい、抱かれたいと思ったら即ベッドインというわけにはいかないのが、男性同士のセックスだ。
 炭治郎はきっと、事前に洗浄が必要だなんてことも、まるで知らないだろうな。
 思いながら義勇は、自身を嘲笑うように唇をゆがめた。 日曜の昼日中。静かな住宅街を歩きながら、頭に浮かぶのはヘッドを外したシャワー。尾篭な話でごめんなさいってなものだ。
 愛する人と結ばれる行為のはずが、男同士というだけで、自分でも顔をしかめたくなるほど汚らしい話になり下がる。馬鹿だ。馬鹿すぎる。最悪だ。両想いという甘やかな言葉に酔って、現実に目をふさいだ結果がこれだ。義勇は胸中で自分を罵りつづけた。
 腹立たしさが気鬱を上回り、勢い歩みが早くなっていく。
 腹の底にたまる苦悩や後悔、昨日の不躾な視線たちへの怒り、全部吐き出して、わめいて、怒鳴り散らしてやりたい。できるわけもないのにそんなことを思う。それが可能なら、きっと自分はまだ童貞も処女も失っちゃいない。溜め込んで吐き出せず、澱んでいくばかりだからこそ溝浚いが必要だったのだ。けれども今ではもう溝浚いすらかなわない。
 炭治郎の想いに応えていなければ、こんなとき自分の姿はハッテン場にあっただろう。一夜限りの相手を求めて、食虫植物よろしくすましてグラスをかたむけていたに違いない。
 もう、そんな自分には戻れない。たとえこのまま炭治郎と別れる羽目になっても。
 性欲処理のためだけに触れあう相手のことを、以前の義勇は、使い捨てのディルドやオナホと大差がないのだと思い込んできた。相手が自分に求める役割も、どうせそんなものだろうと冷めた目で見ていた。けれどもう義勇は知っている。人なのだ。みんな自分と同じように、恋に泣いたり、仕事に悩んだり、懸命に生きている、同じ人間だ。
 気づいてしまえば、以前のように性欲処理の道具扱いなんてできるとは思えなかった。
 今、自分が触れたいのは炭治郎だけだ。義勇の足取りがまた少し速まる。体の奥底から湧き上がってくる衝動は、抑えようとしても抑えきれない。混とんとした負の感情の渦が、出口を求めて体の中で暴れ回っている。
 義勇の足は、衝動のままに速まり続け、いまや全力疾走だ。
 走って、走って、闇雲に走りつづけて、動けなくなるまで。でなければ泣いてしまいそうだ。獣のように咆哮し、なにもかもを振り切ってしまいたくなる。
 けれど錆兎たちの家は、義勇の家からそう離れてはいない。いくらも走らないうちに見えてきた生垣に、義勇の足は止まった。息を切らして訪れれば、何事かと思われるだろう。先日につづき今日も錆兎たちに心配をかけるわけにもいかない。ふたりは義勇の初デートの成功を楽しみにしているに違いないのだから。
 引き返したくなる足を無理やり進める。トボトボと、傷心と怖気を露わに義勇は歩く。
 ガサガサと音を立てる紙袋を焼けに重く感じた。なんて言えばいいんだろう。成功したと嘘をついたところで、ふたりをごまかせるとは思えない。けれど本当のことも話せそうにない。ゲイカップルだと見抜かれたらしいだなんて、どう伝えたらいいのか。そんな勇気はまだ持てそうになかった。
 ごまかしも弁明も浮かばぬまま、義勇は、ノロノロとチャイムを鳴らした。すぐに「はーい」と真菰の声がしてドアが開く。
 なにを言おう。日曜の昼下がり。笑い声をあげながら通りを子どもたちが駆けていく。世界はこんなにも穏やかなのに、新婚家庭の玄関先に立つ自分の心中は、まるで判決を待つ容疑者だ。全力疾走の後の心臓は、鎮まることのないまま今度は不安に乱れた音を立てている。
 ドアが開いた瞬間の、真菰の表情の変化は、ちょっと見物だった。こんなに怖くて悲しくて、苦しくてたまらないのに、少し笑えたぐらいに。
「……駄目だった。ごめん、色々教えてくれたのに」
 笑えたせいか、思ったよりも軽い声で言えた。真菰も笑ってくれたらいい。だらしないなぁ、これだから義勇は目が離せないんだよと、姉貴ぶった顔で笑って、しっかりしなよと背中を叩いてほしい。
 義勇の願いは真菰にも通じているのだろう。笑おうとして失敗し、なんて声をかけるべきか考えあぐねている。そんな顔だ。
「真菰? 義勇がきたんだろ、さっさと上がって……」
 常と変わらぬ声とともに顔を見せた錆兎もまた、義勇の顔を見たとたん言葉を失った。
 学食での反応と同じだ。どうやら今日も、自分はとんでもなくひどい顔をしているらしい。
 黙って三和土に降りた錆兎が、無言のまま近づいてくるなり、義勇の首に腕をかけた。グイッと引かれてよろけた義勇を 有無を言わさず玄関に引っ張り込み、真菰に向かって「悪い、酒にしていいか?」と声をかける。
「錆兎?」
 ギョッとして真横にある錆兎の顔を見れば、錆兎はわずかに目をすがめゴツンと頭をぶつけてきた。
「痛っ」
「おまえのことだから、酒でも飲まなきゃ俺ら……っていうか、真菰に気を遣って謝るばかりになるだろうが」
 反論は認めない。錆兎の目がそう言っている。義勇が言葉の意味を理解するより早く、真菰はパタパタと台所へ向かってしまった。
「おい、マジで頭働いてないだろ」
 あきれた声には心配するひびきが交じっている。錆兎の言うとおりだ。思い悩むばかりで考えは堂々巡り。寝不足も相まって嫌なことばかりが頭を占めている。
 以前なら一語一句聞き漏らすまいとしていた錆兎の言葉すら、どこか遠くて、理解するまでに一拍要した。
「ごめん……」
「謝る必要なんてないから、飲もうって言ってるんだろ?」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられたら、泣きたくなった。苦しくても切なくても錆兎を想っている月日のなかで、こんな後悔はしたことがない。
 好きにならなきゃよかった、なんて。一瞬でも炭治郎のことをそんなふうに考えたくなかったのに、自分の未熟さを棚に上げて、一度だけ、そんなことを思った。
 
 
↓ここからあらすじ
さらに追及しようとする真菰を止めてくれた錆兎には感謝するが、飲み会に突入してしまったのはいただけない。いったいどれだけ飲んだのか。ひどい二日酔いで目覚めた義勇は、炭治郎との関係を考え直す決意をした。別れるなんてきっとできない。けれど、いつでも炭治郎がまっとうな恋愛に戻れるよう、自分を今まで以上に律する必要はあるだろう。幸い炭治郎と顔をあわせる機会は少ない。炭治郎が帰ってこない時間を狙って店に行く。休日の食事作りも体を休めろと断った。文字だけのやり取りは、以前なら幸せを噛みしめるものだったけれど、今では読み返すことも辛い。炭治郎の忙しさを言い訳に距離を置いても、狂おしいまでに恋しさは募るばかりだ。不安定な精神状態に追随するように、体調も少しずつ優れなくなっていった。無心で仕事に没頭したいのに、余計なことばかり考えて執筆もうまくいかない。そんなある日、真菰から泣き声の電話がきた。鱗滝の訃報を伝える電話にショックを受ける義勇。葬儀の日、喪主を務める錆兎の毅然とした姿と、それに寄り添う真菰の献身に、義勇は淋しさを募らせる。幸せな二人に自分の悩みを打ち明けることもできずに避けていたことへの後悔、鱗滝への見舞いすら疎かにしてしまっていた自分への自責の念。ひどい顔色を逆に心配してくれるふたりに甘えることなどできずに、衝動的に義勇はベーカリーをおとずれた。一目でいいから炭治郎に逢いたい。願うのと同時に今はまだ逢えないと、店の前でためらう義勇に炭治郎の声がかけられた。義勇の顔を見た瞬間に、炭治郎はテキパキとなにやら荷造りすると、義勇の車に乗り込んだ。「帰りましょう、義勇さん」
カット
16:41
オバ
寒いよぅ。手がかじかむ💦
413:24
オバ
さて、頑張りますかね
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向き
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午後7時のルイスリンプ 2
初公開日: 2020年12月23日
最終更新日: 2021年01月17日
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コメント
大学生で恋愛小説家の義勇さんと、高校生炭治郎の現パロ義炭。パンオショコラシリーズの続編です。1作目の『午後4時のパンオショコラ』はサイトからどうぞ(右義描写もあるのでご注意を)。
話が進むとR15になる可能性があります。ご了承ください。
流れ星2
原作軸煉義『竜胆』の続編。告白からお初、そして……というお話です。この後の展開はR18になりますので…
オバ
流れ星
以前書いた『竜胆』という話の続編で、原作軸の煉義です。告白からお初までのお話になる予定。お初部分はロ…
オバ
神のまにまに弥栄、一陽来復春くりゃ笑え 後編
kwsk様の『龍のぎゆうさん』イラストから書かせていただいている最中の義炭。長くなったので後編です�…
オバ
【運営配信】9月レポートといろいろと【2021/10/16】
2021/10/16 22:00 スタート 内容は ・9月のレポート ・現状とこれから ・ご要望・質…
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べつにまったくえろくはない(はず)
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