甘い恋に酔う若者のように身をとろりと絡めるわけではないが、お互いの存在を十分に感じられる距離。ふたりはゆったりと座し、落ち着いた時間を共有していた。ふと会話が途切れた隙、江澄が腕を伸ばしてようよう届く指先で藍曦臣の膝にちょんと触れた。
「あなたの演奏を、聴きたい」
 いいだろうか、と控えめに尋ねた江澄に藍曦臣はやわらかく微笑みを返した。
「もちろん、よろこんで」
 珍しい江澄の願いごとに少々浮かれながら藍曦臣は裂氷を取りだす。この美しく強力な宝具は、長らく戦いを離れてただ楽器としてのみ用いられている。
「何か曲の希望は?」
 江澄は穏やかな藍曦臣の目をどこか切なげにひたと見つめた。躊躇いながら唇が開く。
「………寂しい曲、を」
 膝元の絹をきゅっと握った江澄の指はわずかに震えていた。可愛らしいばかりのおねだりではないと知って藍曦臣は居住いを正す。声が上擦ったりしないよう気をつけて、短い言葉で尋ねた。
「なぜ?」
「……なぜだろうな」
 はぐらかすような物言いは江澄にはあまり似合わない。
「あなたは寂しいの?」
 私を目の前にしながら、という藍曦臣の言外の思いは不機嫌なような不安に駆られているような表情に滲みでていた。
「違う、そんなことはない」
 明確に否定する声に揺らぎはなく、江澄は理性的に話していることが分かる。
「逆なんだ」
「逆?」
「あなたがいるから私はとても幸せで、たまらなくて…」
 胸が詰まったように苦しげに言葉を紡ぐ江澄。藍曦臣は膝の上の手を撫でて宥めるものの、言葉を遮ってやることはない。すべて吐き出させたかった。彼のために、自分のために。藍曦臣の意図を汲み、絞り出すように江澄は話した。
「幸せすぎて、いつか、いつの間にか寂しさを忘れてしまうんじゃないかと」
「江澄…」
「怖いんだ、それが」
 そう言って、江澄は少しだけ笑った。なにより好ましいはずの江澄の顔を、いまは見ているのがつらかった。藍曦臣はいっそう強く手を握る。
「あのころ強く感じた怒りや恐怖はいまでもこびりついている。けれど、寂しさの記憶はえらく薄くて、頼りない」
 言葉と同調し、弱々しく頭を振りながら江澄は続ける。
「たくさん失って、つらくてたまらなかったはずなのにな。それを追おうとするともやがかかったような、やかましい何かにかき消されるような感覚になる」
 失くしてしまった大切なものを必死で辿るような眼。美しく透きとおった瞳は、どうしたって藍曦臣の手には入らない。少しだけ見惚れて、そして大きく溜め息をつく。その音に江澄の肩がわずかに揺れた。
「すまない、こんなことを請うてはいけなかった」
 硬い声で引きさがろうとする江澄を腕の力で阻んだ。乱暴に掴みよせた身体はつんのめって藍曦臣の膝に倒れこむ。
「ああ、あなたの所望には応えられない」
 常より低い藍曦臣の声に江澄は背中を小さく跳ねさせる。うなだれた頭は上がらない。藍曦臣は江澄の髪を撫でた。
「あなたは愚かだ」
 ああ、なんと不器用な男だろう。見失いたくないのは愛おしい記憶のはず。それを、その反対の感情からしか手繰れないなんて。
 藍曦臣がどれだけ江澄と愛を重ねても、一生勝ち目のない思い出たち。もしも、それを江澄が忘れてしまいそうだというなら、よろこんで手を貸してきれいさっぱり消し去ってやりたいとすら思う。けれど、そんなことは決してできない。例えば、彼が寂寞の情を手放したとしても、かつてのあたたかい日々は美しい形のまま胸のうちに居座り続けるだろう。江澄は大切な過去を守っていく力を身につけた。いまの平穏な世を自らの努力でようやく作りあげたのだから、落ち着いて思い出に浸ればいいものを。いっそ乱暴に奪いとってしまおうかと思うがきっとそれは無理だから、それならば早いところ折り合いをつけてもらわなくては困る。江澄の心が片づかねば、いつまでたっても藍曦臣の居場所が定まらない。
「ひどい男だ」
 呟いて江澄の髪を撫でつづける藍曦臣に、江澄が小さく身じろぎする。
「藍曦臣…」
 身体を起こした江澄は、思いのほかしっかりと藍曦臣を見つめた。その視線に少しだけ驚いて、そして小さく息をつく。藍曦臣は最後にひと撫でしてから、江澄の身体を抱え直して膝に乗せた。江澄が藍曦臣の首に両腕を回してすり寄ってきた。
「困った子だね」
 江澄は甘えているのだ。過去の傷に囚われているのかとまじめに心配をしたのに、そう深刻な話ではなかったのかもしれない。かすかな震えは偽りではないだろうけれど、藍曦臣が思うほど儚い男ではないらしい。盲目になるほど執着が強いのは自分の方だと藍曦臣は気づく。知らぬ間に両の腕で江澄の腰を強く抱きしめていた。
「江澄」
「ん」
「これでは裂氷は吹けないよ」
「うん」
 返事はするが、江澄は離れない。藍曦臣も腕をゆるめることはない。床に置かれた簫が、拗ねたようにことりと小さく転がる音がした。
 
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「寒並消」
初公開日: 2020年10月15日
最終更新日: 2020年12月05日
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