藍曦臣が子どもになった。外見から察するに歳のころは九つか十。
「江澄」
 呼びかけてくる声はずいぶん高いが、どうやら記憶の方はしっかりしているらしい。幼くとも上品に整った微笑は沢蕪君のそれである。ちょこんと正座をした子どもは丁寧に手を揃えて、ぺこりと頭を下げた。
「しばらくご厄介になります」
 原因と回復方法の調査にあたる間、預かってくれと蓮花塢に文をよこしたのは藍忘機であった。兄と極めて親しくしているのだから必ず快く引き受けてくれようなどとのたまい、でかでかと仙督の印を捺し、さらには叔父の藍啓仁もこれが最善と判断している、とだめ押しにも抜かりない。江澄に効く要点を絶妙についた文面に、頭を抱えるしかなかった。
 江澄が断らないと分かっていて、返事を受けとるより前に姑蘇を出たに違いない。藍忘機に連れられて早々に藍曦臣が蓮花塢にやってきた。江澄は腕を組み、できる限りの渋面をこしらえて彼らを出迎えた。
「含光君御自らお出ましとは、恐れ入る」
「仙門百家の一大事であるから」
 藍忘機はさらりと言ってのける。昔はただの鉄面皮だった男が、近ごろそれの扱い方を学んでしまったらしい。尊大さと柔軟性が噛み合った姑蘇藍氏ほど面倒なものはなかった。
「家の者には最低限の範囲で知らせてある、問題はないだろう」
 藍忘機は無表情と無言をもって頷く。
「沢蕪君の子も…、いや、療養で留意すべきことは?」
 江澄の失言に対してはぴくりと眉を動かすところが憎たらしい。応急処置と時間稼ぎに施している術についての説明をごく簡潔に終えると、藍忘機は兄の方を向いた。縮んだ背に合わせてしゃがみこむとは、意外に思いやり深いところもある。
「兄上、ご不便も多かろうとは思いますが、どうか辛抱してください」
 含光君の思いやりは、残念ながら対象が限定されているらしい。
 子どもの姿の藍曦臣は蓮花塢で最も安全な宗主の居室に匿われた。小さい寝台が運びこまれ、書き物道具や何やかやと暇つぶしになりそうなものが物置きから引っぱり出されてきた。ひととおりそれらしく整えてから江澄は藍曦臣に向かいあって座す。
「沢蕪君、不自由も多かろうが、どうかくつろいでいてくれ」
「ふふっ」
 子どもながらに口元を隠して笑う仕草は実に品がよい。しかも、たいへん愛らしい。江澄は笑われた理由が分からず問いたい気持ちもあったが、ふくふくと柔らかそうな身体が小さくゆれているのが可愛くて、気づけば口元をゆるめて藍曦臣の頭を撫でていた。
「……江澄」
「あっ、ああ…すまない」
「このなりでは、仕方がないね」
 困ったように目を細める藍曦臣の笑みは大人びていて、見慣れたものに少し似ていた。
「私は仕事に出なければならない」
「ああ、忙しいのにすまないね」
「いや、その間あなたを閉じこめるようなことになって、こちらこそすまない」
「気にせず、いつもどおり勤めを」
 たくさん本も用意してもらったからね、と笑って言う藍曦臣の表情は明るい。いますぐどうこうできるわけでもない、と江澄も考えすぎないよう努めることにした。藍曦臣に平たい木箱を差し出す。
「何か困ったことがあったらこの符で呼んでくれ」
 中身は十余枚の簡単な霊符。燃やせば江澄に伝わるようになっていた。念のためと用意したが、きっと藍曦臣はこれを使ってはくれないのだろうなと分かっている。迷惑をかけまいとする姿勢は理解するし、沢蕪君にこのような子ども騙しの助けなど必要ないだろうとも思う。それでも、あどけない少年を目の前にしてしまうと、際限なく心配が募ってしまうのだった。江澄は念入りに結界を施し、藍曦臣を残して仕事に向かった。
 江澄の不安をよそに、何事もなくいく日も過ぎた。藍曦臣の生活は規則正しく、行儀も申し分ないとなればまったく手がかからない。朝は江澄がせわしないから、夕食後の短い時間にふたりで少し話をする。日中は何をしているのかと問えば、書庫から興味深い書籍を見つけたから読みふけっているのだという。
「蔵書閣では見ない類のもので、とても楽しい」
「まさか魏無羨が仕舞いこんでいたものではないだろうな」
「どうだろう」
「あなたに悪い影響を与えないといいが…」
 江澄は眉を寄せて、藍曦臣用の寝台の横に積まれた書物を睨む。あまりきれいとは言いがたい古びた装丁、一番上のものには似合わない白い栞が挟まっている。
「藍曦臣、もう寝る時間だ」
「はい、江澄」
 十歳ともなればいくら子どもとはいえ寝かしつけは必要ない。夜中に腹が出ないように帯の結び目を確かめてやって、寝台に入るのを見届けた。
「曦臣」
「なに?」
「寝床の中で本を読んではいけないぞ」
 藍曦臣は驚いたようにぱちりと瞬いて、それから可愛らしくにこりと笑った。
「はい、江澄」
「いい子だ曦臣、おやすみ」
「おやすみ、江澄」
 白いまぶたが下りたのを見て、江澄は灯りを消す。慣れた居室で夜目に自分の寝台を探しあててもぐりこんだ。子どもが寝入ってから晩酌や残った仕事をやろうかと思ったこともあったが、すうすうとやわらかな寝息が聞こえていてはどうにも長く続かなかった。藍曦臣を預かってから、すっかり早寝と安眠が定着してしまった。そのおかげか、近ごろはずいぶんと仕事が捗る。しばらく大きな事件の報せもなく、久方ぶりの休日がとれそうだった。あすのために体力を備えなければと江澄は眠りについた。
「お出かけ?」
 こてんと首をかしげて藍曦臣が江澄を見あげる。
「ああ、ずっとこもりきりで飽きただろう」
「そんなことは…」
「きょうは一日休みだから、どこへでも連れていってやる」
 藍曦臣の表情がぱあっと明るくなる。いくら中身が沢蕪君とはいえ、何日も窮屈な生活をさせていることが気になっていた。いい子で過ごしてくれているが、少しずつ塞いでいっているような兆候があった。
「ほんとうに?仕事は…」
「問題ない、たまには私も休みたいんだ」
 笑って返すと藍曦臣はうれしそうにはにかんだ。けれど、すぐに何かに気づいたように顔をくもらせる。
「それならば部屋にいて身体を休めた方がよいのでは?」
「いや、体調は悪くないんだ、それより気分転換がしたいな」
 遠慮がちに上目遣いを向けてくる藍曦臣の髪をわしわしと撫でてやる。絹糸よりも柔らかい。江澄はよいことを思いついた。
「なあ、曦臣、髪を結ってやろう」
「え?」
「ほら、こちらへおいで」
 藍曦臣を鏡の前に座らせて、江澄はやさしい手つきで黒髪を梳いた。他人の髪をいじるのは嫌いではない。金凌にもよくしてやった。もとを辿れば姉に教わったのがはじまりだったと思う。魏無羨を練習台にして引っぱったり絡まったり遊んでいた。なんでも競い合っていたのに、髪結いに関しては魏無羨は興味を示さなかったな、と余計な記憶までよみがえる。苦笑いを噛み殺して、藍曦臣の髪を丁寧に整えた。せっかくだからと編んだり巻いたりして飾りたててやる。
「江澄…」
「ん?どうした」
「とても、すごいね」
「そうでもない、慣れればできるものだ」
「私はできない」
 きらきらとした羨望のまなざしが鏡越しに見える。もとの藍曦臣は華美な装いはしなかったものの、それなりに器用に髪を扱っていたと思うが、忘れてしまったのだろうか。
「あなたの髪が素直ないい子だから結いやすいんだ、今度教えてやる」
 仕上げに後ろ髪を手櫛で揃えながら言えば、子どもの頬が真っ赤に染まった。ありがとう、と口の中で呟くように言った声はひどく小さかったが江澄の耳にはきちんと届いた。
 どこに行きたいか尋ねたとき、藍曦臣は心底困ったような顔をした。おろおろとするのを宥めすかして聞けば、行きたいところが分からないけれど、どこでもよいと言えば失礼にあたるからと答えに窮したらしい。江澄はそんな内心を言わせてしまったことを反省した。健気も度を過ぎれば憐れである。藍氏の教育はどうなっているのだと少々腹立ちもした。
 それならばと江澄は藍曦臣をあちこちへ連れまわした。といっても、かつて金凌にせがまれたところや自分が子ども時代に遊んだような場所で、特に趣深いものがあるわけでもない。一日限りだからそう遠くにも行けない。だが、藍曦臣の笑顔はとても明るくて、子どもには子どもの感性を、との読みはおおむね正解だったようだ。
 藍曦臣がひときわ気に入ったのは蓮花湖の西にある小さな内湖であった。正式な名前もなくただ西湖とだけ呼ばれるその小さな水辺には、実は蓮花湖の表に負けず劣らず美しい花が咲く。しかし、このときは残念ながら季節ではなかった。冬の暦のわりには暖かい日だったから江澄自ら舟を出したが、見られる景色はどうにも物寂しい。
「曦臣は枯れた水草に風情を感じるのか?」
「いいえ」
「だったら何がそんなに楽しいんだ?教えてくれ」
「花がね、咲くところを考えているの」
 櫂を操る手を止めた江澄に寄ってきて、くるりと背中を向けた藍曦臣が脚の間に座る。江澄はもたれてくる子どもの身体をゆるく抱きかかえてやって、話の続きを促した。
「見えているところは枯れているけれど、根は元気なのでしょう?」
「ああ、そうだな」
「だから、もう少ししたら新芽が出て、それで、夏にきれいに咲くだろうなあと思って」
 振り仰いでにこにこと笑う藍曦臣に、ぎゅっと江澄の腕の力が強まる。なめらかな額に口づけたくなるのをどうにかこらえて、それでも募る愛おしさは頬ずりで我慢した。
「ふふ、くすぐったいよ江澄」
 もじもじと暴れる藍曦臣を大人の腕力で抱きしめてやる。きゃはきゃはと藍曦臣が高い声で笑う。じゃれあいに小舟がひどく揺れた。
「ねぇ、ねぇ江澄」
「ん、なんだ?」
「舟の漕ぎ方を教えて」
「ああ、いいぞ」
 膝の間に座らせたまま江澄は櫂をとる。握らせてみれば藍曦臣の手はまだ小さく、無骨な櫂にはまるで指が回りきらなかった。心許ない白い手に手を重ねて、軽くひと掻きしてみせる。すいと滑った舟に、藍曦臣からわずかに感嘆の声が上がった。後ろからでは見えないが、きっと目を輝かせているに違いない。手を実際に動かしながら要点を説明すると、さすがというべきか藍曦臣はすぐにこつを掴んだ。櫂を水に入れる角度も深さも申し分ない。江澄は少しの力を貸してやるだけでよく、舟は藍曦臣の行きたい方へ進んだ。こうして剣や楽器も身に着けてきたのだろうか、と定かでないことを江澄は思った。
「うまいな、曦臣」
「ほんとう?」
「ああ、私がみた子どもの中で一番じょうずだ」
 今度のありがとうも小声だったが、俯いた藍曦臣の耳がほんのりと赤くなっていた。
「そろそろ戻るか」
「もう?」
 慌てて顔を上げた藍曦臣はずいぶん寂しそうである。
「まだ明るいのに」
「暗くなったと思ってから舟を繰っても遅いんだ、帰れなくなるぞ」
「そう…、分かった」
「それに蓮根も採らなくてはならんしな」
 目も口も丸くして驚いている藍曦臣はとても可愛い。力の抜けた手から櫂を取り戻し、江澄は舟を大きく旋回させた。
 邸に帰ると江澄は藍曦臣を湯に放りこんでから、採ってきた蓮根を炊くために厨に顔を出した。風呂に入るときに髪を解くのはいやだと駄々をこねた藍曦臣に、あすもやってやると約束させられた。江澄は鍋をかき混ぜながら、きょう一日で見たいくつもの藍曦臣の表情を思い出していた。夕餉の仕上げは番の者に託して、藍曦臣と入れ替わりで風呂に入る。湯桶の中でも藍曦臣のことを考えた。
 部屋に戻るとちょうど食事の用意が済んだところで、藍曦臣は行儀よく座っていた。
「待たせてすまない」
「いいえ、江澄」
 藍曦臣はしおらしくそう言うが、目は蓋椀にちらちらと奪われている。蓮根を掘るのをこの子も手伝ってくれた。きっとこういう経験ははじめてなのだろう。
「曦臣、開けていいぞ」
 こくんとうなずいて細い指が蓋をとる。ほわりと上がった湯気に藍曦臣の表情がとろけた。
「いい匂い」
「ああ、味はもっといい」
 ひと匙すくった藍曦臣は、どこか緊張した面持ちで蓮根を食べた。ぱちりぱちりときれいな目が瞬く。言葉がないのは規則に従っているのではなく、大きなひと欠けで口がいっぱいになってしまったからだろうか。もぐもぐと懸命に咀嚼しているのが動物みたいで可愛らしい。藍曦臣は日中のはしゃぎぶりに相応しくよく食べた。それを眺めながら、江澄も気分よく少しだけ酒を飲んだ。
 膳が下げられるころにはすっかり夜も更け、就寝時刻が迫っていた。
「曦臣、寝る支度をしなさい」
 藍曦臣がぱたぱたと寄ってくる。いつものように江澄が夜着を整えてやっていると、藍曦臣が突然抱きついてきた。
「曦臣?」
 ぎゅっと首にしがみついて離れない。身体が小さく震えているのが分かった。江澄はすがりつかれたまま膝の上に抱えなおして、落ち着くまで待った。ひくひくとかすかに喉をならしていたのが、ゆっくりとおさまってくる。
「大丈夫か、曦臣」
「うん…、ごめんなさい」
 ようやく腕をゆるめて顔を見せた。目も頬も鼻も真っ赤で美貌は形無しである。
「どうした?」
 親指で涙の跡をぬぐいながら尋ねると、ぐすりとひとつ鼻をすすってから藍曦臣は答えた。
「あ、…ありがとう、と言いたかった」
「ん?」
「きょう、とても、楽しかったから」
 つっかえながら、少しずつ話す。
「江澄がやさしくて、うれしかったなあ、と思って…、思い返していたら、胸が、いっぱいになってしまって」
 話しているうちにまた涙が浮かんできて、ぽろりとこぼれる。江澄はひとつひとつ指先で受けとめてやった。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
「…ちがう」
「うん」
「ありがとう、江澄」
「ああ、曦臣、ほかには?」
「ん、うん、…大好き」
 そう言って藍曦臣はまたほろほろと涙を流した。肩口にしがみついてくるのをそっと抱きとめて背中をさすってやった。寂しかったのだろう。江澄や、当の本人が思っていた以上に幼い心は耐えていた。
 このいたいけな子どもをふわふわと限りなく甘やかしてやりたい。十にもなる子にここまで思うのは度が過ぎているのかもしれない。けれど、ほかでもない藍曦臣である。愛おしいという気持ちを抑えられるはずもなかった。姿こそ小さくなってしまっていても内から輝くような美しさは変わらず、そしてまっすぐで思慮深く、豊かな感情を持ち合わせているこのひとは江澄が愛する藍曦臣そのものであった。本来知りえないはずの大切な人の幼少期に触れてしまって、愛を注ぎたくならない方がおかしい。
 藍曦臣が泣いている間、江澄はずっと背中を撫でつづけた。あたたかい子どもの身体を抱きしめて、その呼吸を感じていた。少しずつ静かになっていき、やがてふうと力が抜けた。泣きつかれて眠ってしまったのだ。そっと腕をほどいて顔を見ると、ほんのり目元は腫れていたが穏やかな寝顔をしていた。
「曦臣、いい子だな…」
 起こさないように抱えあげて、寝台へ運ぼうとした足をふと止める。江澄は踵を返し、自分の寝床に藍曦臣を連れこんだ。他意はない。ただ、夜中に目を覚ましたときにひとりでない方がよいと思ったのだ。寄り添って夜具に入り、もう一度寝顔を確かめてから江澄もまぶたをおろした。
 腕の中で藍曦臣が動いた。起きるにはまだ早い。そう感じたのは空気の匂いか冷たさのせいかは知らないが、ともかく江澄は目を開けることを拒んだ。身体の感覚だけは少し起きていて、藍曦臣がもぞもぞと何かしようとしているのが分かった。
「…江澄……」
 ごく小さな声は呼びかけるものではなくて、思わずこぼれたといったようすだ。目を閉じていてもじっと見つめてくる藍曦臣の視線がよく分かった。再び江澄と呟かれた声はとても近くから聞こえた。冷えた頬に手のひらの体温を感じた。いつもよりもずいぶん小さくてあたたかい、子どもの手だ。
 この子に口づけをされるのだろうか。藍曦臣が子どもになってから恋人の触れ合いは一度もしていない。それが当然だと思ったからだ。藍曦臣の手が熱い。
「あぁ…」
 ため息が聞こえる。ふいに手が離れて、それから指で唇の真ん中をむにと押さえられた。さいしょは控えめだったものがだんだんと強くなってくる。ぐにぐにと押さえつけられて勝手に声がもれた。
「ん…」
 びくっと驚いたように指が逃げるが、またおそるおそる触れてくる。唇のふくらみに触れふちをなぞり、指はそろりそろりと動いていった。江澄は身体の力を抜いてしばらく好きにさせる。不快ではなかったが、さすがに覚醒が忍びよってきた。藍曦臣の手が目元を触ってきたあたりで観念した。
「曦臣…、なにしてる」
 うっすら目を開けると、ぱちりと瞬きをして瞳をまるくしている藍曦臣がいた。
「おはよう」
「…はよ、ぅ…」
 藍曦臣が気まずそうに目を逸らす。いたずらが見つかって決まりが悪いのだと思ったが、少し違うようだ。形のよい眉を寄せた表情はどこか不満そうに見えた。
「曦臣?」
 寝乱れて顔にかかった柔らかい髪をよけてやりながら尋ねてみても、唇を引き結んで何も言わない。そのまま頬をつついて撫でて、江澄はすべすべの感触を楽しんだ。子どものすることに理由などないというのはよくあることだ。答えがなくても構わなかった。まだ夜明けとも呼べない時刻、待っているうちに再び眠気が誘う。
「……江澄、私たち……、…てしまったの」
 うとうととまどろみかけた耳が幼い声をとらえる。ぼんやりしていてよく聞きとれなかった。
「うん?どうし…」
「江澄!」
 急に強い声を発した藍曦臣が勢いよく起きあがったと思ったら、力任せに江澄を仰向けに転がして馬乗りになってきた。
「っ…おい!こら、何をする」
「あなたはっ、…江澄、どうして」
 上からぐっと両肩を押さえつけられている。その気になればもちろん抵抗はできたが、藍曦臣の必死なようすに身体が動かなかった。
「藍、曦臣……」
「ああ、江澄」
 藍曦臣は美しい顔をつらそうに歪めている。開きかけた唇をまたぎゅっと噛んで、手を伸ばしてきた。触れた手は、少し熱いくらいだった。
「手が……ちいさい…」
「なに?」
 嘆くようにこぼれた言葉は、聞きとることはできても意味が分からない。
「こんなに小さくなってしまった」
「曦臣…」
「子どもの私は、愛せない?」
 江澄は目を見開く。泣き笑いのような表情は痛々しくて、あまりにも藍曦臣に不似合いだった。
「あなたを愛してはいけないの?」
「あ……」
「十の幼子はだれかと口づけしてはいけないのだろうか」
 少年の身体がのしかかってきて顔が近づく。
「何も知らない本当の童子ならともかく、私は姿形が子どもになっただけ」
「…曦臣……っ」
「あなたへの感情は極めて鮮明に、寸分変わらず胸の内にあるというのに」
 やわらかな指先に唇をなぞられる。江澄は身体を震わせるかわりに奥歯をきつく噛んだ。
「心から愛し合った記憶もあるのだよ」
 しっとりと熱っぽい瞳と見つめあう。江澄は、止めていた息をふっと吐いて笑った。
「かまわないぞ」
「え…」
「したければするといい」
 ん、と唇を突きだせば藍曦臣は目元をぴくりと震わせた。ぎゅっと眉を寄せて睨みつけてくる表情はほとんど怒っているようだった。力いっぱい押さえられた肩が痛い。
「江澄…」
「曦臣」
 勢いに任せた口づけが降ってきた。
「んっ」
 ああ、奪われてしまったな。合わさった唇はどちらも動くことはなくて、ただ押しつけられているだけだった。ものの数瞬、藍曦臣はすぐに上体を起こした。
「曦臣…」
 江澄がひとつ溜め息をついて藍曦臣を見あげた瞬間、彼からぶしゅうと音をたてて湯気が吹き出たようだった。耳まで真っ赤になって唇を嚙みしめて、少し震えていた。そして藍曦臣は江澄の上にくたりと倒れこんだ。
「いけない子だな」
 両耳をぎゅっとつまんで引っぱってやる。藍曦臣はふぎゅ、と妙な声を出して情けない表情をした。恥ずかしいのだろう、もぞもぞと江澄の胸に顔を埋めてしまった。
「子どもがませたことをするんじゃない」
 できると思った、と小さな声が聞こえる。記憶がしっかりしているのならそう思っても仕方ないかもしれない。けれど、身体の感覚は十歳なのである。そして、それに引きずられて心の持ちようも幼くなってきていた。毎日相手をしていれば明らかだったが、本人に自覚しろというのは難しいだろう。
「気が済んだか」
 ずるりと身体の上から藍曦臣を落として寝相を整えてやる。おとなしく仰向けになった藍曦臣を掛布でしっかり覆って、そのまま胸をぽんぽんと軽くゆっくりと叩いた。
「江澄が甘やかすから、ほんとうの子どもになってしまいそう」
「なんだ、私のせいか」
「うん」
「…それは、困るな」
「うん…」
 藍曦臣は閉じていた目をますますぎゅうっとつぶって眉を寄せた。不安だろう。そう思って甘やかせば、よけいに子どもから抜け出せなくなる。難しいところだったが、いまはただ穏やかに眠ってくれればと思う。
「曦臣、もう寝なさい」
 静かに言って、しわの寄った藍曦臣の眉間に口づけた。いらいらしがちな自分にいつも藍曦臣がしてくれることだった。藍曦臣の表情からふわりと力が抜ける。その夜は抱きしめる腕をほどくことなく眠った。
「いってらっしゃい、江澄」
 翌朝、江澄を送り出す藍曦臣の姿は、変わらず子どものままである。約束どおり髪を結ってもらった藍曦臣は機嫌よく笑っている。江澄は気がかりではあったが、かといってできることもなく、子どもを置いて仕事に勤しむしかなかった。
 前日に休んだ分だとでもいうように、この日は立て続けに面倒ごとが舞いこんだ。ばたばたと奔走しているうちに、気づけば午もとうに過ぎていた。食事の折にでも藍曦臣の様子を見にいこうかと思っていたのに。この時間なら昼寝をしているころだろうか、それともおもしろいと言っていた本の続きに没頭しているかもしれない。残りの仕事を早く片付けるためにも自分も一度休憩しなければと茶の道具に手を伸ばしかけたとき、江澄のうなじをぞわりといやな感覚が走り抜けた。これは、霊符の呼び出しだ。
「藍曦臣!!」
 叩き壊す勢いで扉を開いた江澄は、部屋の中に子どもの姿を探した。いない、どこだ、何があった。
「おい、どこにいる、藍曦臣!?」
「江澄」
 うるさい、邪魔だ。江澄は視界を塞いでいる大きな身体を押しのけた。炉に符の燃えかすがあるが、藍曦臣はどこにもいない。江澄が施した結界から出られないはずなのに。
「江澄、」
「どけっ、邪魔をするな!」
「江澄!よく見て」
 白い着物の男が腕を掴んでくる。力が強くて痛い。江澄はめいっぱいの怒りを込めて睨みつけた。
「なっ………、っ……ぁ」
 江澄の瞳が見開かれる。両腕をがっしりと掴まれていなければ、そのまま崩れ落ちていたかもしれない。
「藍、…曦臣……」
「ああ」
 向けられる微笑みはよく見知ったものだった。江澄が何よりも愛しているものだ。
「藍曦臣、藍曦臣っ!」
「江澄、すまなかったね」
 藍曦臣の首にしがみついた江澄は、そのまま姑蘇からの伝令が届くまで離れなかった。発端の陣を発見して壊したから藍曦臣の術は解けているだろうとの報せに、ようやく江澄は安心して腕をほどいた。
 それから江澄は、藍曦臣の身体に異変が残っていないか隅々まで調べあげ、仙督に礼を言いつつ詳細報告を催促する返書を飛ばし、放り出してきた宗主の仕事を始末した。嵐のように動き回った江澄は、居室に戻るなり藍曦臣の胸に倒れこんだ。待ちかまえていた藍曦臣は余裕をもって受けとめる。
「江澄、湯は?」
「ん…あとで」
「食事も?」
「うん」
 藍曦臣の膝の上に抱えられて、江澄はいまにも力尽きそうであった。大きな手のひらが背中をゆっくりと撫でてくれる。
「江澄、きょうはもうこのまま寝てしまおうか」
 とても甘い誘いだった。江澄がこくりと頷くのと同時に藍曦臣はもう歩きはじめていた。夜衣に着替えるのも面倒で、適当に上着を脱いで肌衣のままふたりで寝台にもぐりこむ。藍曦臣が灯りを消したところで、江澄はもぞもぞと身じろぎした。身体の位置をずらして藍曦臣の頭を胸に抱えるようにする。藍曦臣がくすくすと笑う。
「ゆうべのようだね」
「ん、これが落ち着く」
 ふふ、と胸の前で笑われてくすぐったい。おとなしく早く寝ろ、と思った。
「子どもの私が恋しい?」
 少し意地悪に問うてくる藍曦臣に無性に腹が立った。
「そんなわけないだろう!」
 怒鳴った勢いで江澄は藍曦臣の腹に馬乗りになった。上から押さえて、じとりと睨みつける。藍曦臣は楽しげに笑っているようで、どこか泣きそうにも見えた。
「江澄…」
 下から手が伸びてきて、そっと頬を包まれた。
「私は、あなたに甘やかされたのが少し恋しい」
 藍曦臣の親指が唇のふちをつつっとなぞる。
「あのように愛されて、導かれる子どもはどれだけ幸せだろうかと思う」
 切なげな声でいう藍曦臣を、江澄は鼻で笑った。
「ふん、私に育てられると金凌みたいになるぞ」
「おや」
「あれが二人も三人もいたら、四大どころか仙門百家は崩壊だろうな」
 冗談めかして言えば藍曦臣もつられて笑いだした。
「想像を絶するね」
「ああ、胃の腑がちりぢりになってしまう」
 江澄は笑いながら顔を近づけて、そしてちゅうと軽く口づけた。いつもの唇の感触だった。
「…江澄……」
「あなたは私の癒しなのだから、世話を焼かせるようなことはしないでくれ」
 そう言ってまた顔を寄せれば、次は藍曦臣から触れてきた。
「ん、っん」
 唇はやわらかく開いて、自然に舌が絡まる。熱い感触が心地よくて、頭の奥がとろりととけていくようだった。
「ぅ…ふ、あっ…、んん」
「ん、江澄……」
「ぁ、…は、っくあ」
 息継ぎをした拍子にあくびが出た。慌てて顔を背けて大きく開いた口を塞ぐが、おそらく手遅れだろう。横目で藍曦臣を窺えば、にこにこと笑っていた。
「眠い?」
「……うん」
「実はね、私も」
 姿形も何もかも元に戻ったのに、まさか早寝の習慣が残るとは。忘れていた疲労感が押しよせてきた。
「ああ、もう、疲れた」
 ごろりと藍曦臣の腹の上から落ちると、向かいあって抱きしめなおした。あたたかくてすぐにでも眠れそうだ。
「ねえ、阿澄」
「なんだ」
「ひとつ、わがままをいってもいいかい?」
 その言葉に江澄は閉じていたまぶたを開く。目の前に、藍曦臣のきらきらした瞳があった。
「あすの朝、もう一度だけ髪を結ってほしい」
 なんだ、そんなことか。
「ああ、いいぞ」
「うれしいよ、ありがとう」
「あなたの髪はいい子だからな、とびきり豪奢に結いあげてやる」
 江澄は藍曦臣の黒髪に指を通し、そのしなやかさを感じながら穏やかな眠りに落ちていった。
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「交玉章」
初公開日: 2020年10月13日
最終更新日: 2021年03月14日
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中華ドラマCQLの二次作文
曦澄
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mee
BLEACH鬼滅二次創作 44話【連載】
BLEACH鬼滅の二次創作を書きます。44話です。 モンハンライズと熱い夜を過ごしすぎていたような気…
菊の花の様に