四
 隣の体温がもぞもぞと動く気配に藍曦臣は目を覚ました。ゆうべ愛し合ったまま、ふたりで一枚の敷布をまとってカウチで眠っていたのだ。半分寝ぼけながら、身じろぎする江澄が落ちてしまわないようにとゆるやかに腰を抱く。
「んんー…、し、ちぇ…」
藍曦臣の腕の中で江澄はうつぶせのままぐぐっと伸びをした。まるで猫のようだと思いながら、藍曦臣はしなやかな背中を撫でる。江澄はそのまま起き上がるらしい。ずるりと振り落とされた腕に不満を覚えて藍曦臣が唸る。
 江澄はすっかり目を覚まし、まだ寝そべる男を柔らかく見下ろす。江澄の背後には庭に続くガラス戸があり、朝の光が差し込んでいる。藍曦臣は幾度か目をしばたかせてから、のろのろと江澄を見上げる。明るさに慣れた藍曦臣の目に、花開く蓮の池を背負った江澄のはれやかな笑顔が飛び込んできた。
「おはよう、藍渙」
 ああ、なんて美しいひと。
「おはよう、江澄」
 愛してやまない男の頬に手を添え、心を込めて口づけをした。
 朝食は、江澄が米を食べたいというから粥を炊いた。鶏ささみと青梗菜、少しだけ生姜を入れる。温かいものを摂って血が巡ったのか、江澄の頬がほんのり染まる。ほぅと息を吐き、おいしかったと褒めてくれた。ゆうべ散らかしたままの分もあるから、けさの洗い物はふたりでする。
「きょうの予定は?」
「メールの確認だけさせて。それから暑くなる前に買い出しに行こうか」
「分かった、それまでに洗濯しておく」
 洗うものがあったら出しておいて、と言われて思わず藍曦臣は笑う。
「なに?」
「いや、同棲してるみたいだと思って」
「まぁ似たようなもんだろ」
 江澄はそっけなく返すがうなじが赤い。隙だらけのそこを吸って跡を付けてやろうかと思ったが、きょう一日の機嫌を考えて踏みとどまる。代わりに質問をひとつ。
「江澄、ほかにやることは?」
「…ん」
 追い詰めたいわけではないが、いま話しておかないと後で困るのは江澄だ。藍曦臣は努めて優しく見つめる。江澄の唇がかすかに震えて開く。
「動画を、撮るから…」
「うん」
「曦臣に手伝ってほしい」
「うん」
 泡を洗い流した江澄の手を布巾で拭いてやって、そのまま引き寄せる。ふわと近づいた表情はやはり少し硬い。眉間にひとつ、頬にひとつ、安心させるようにキスを落とす。江澄が詰めていた息を小さく吐き出したのを確認して、そっと唇を奪う。
「ん……」
 やわやわと表面を食んでからそろりと舌を差し入れる。温かい口の中、藍曦臣は丹念に歯列をなぞる。舌同士を擦り合わせ絡めて、柔らかい感触を味わう。ゆっくりと時間をかけて溶かし、解して、江澄の肩の力が抜けた頃、藍曦臣は唇を離した。
 最寄りの食料品店でいくつかの足りない調味料と果物を買う。あまり荷物になっても困ると江澄は西瓜を諦めようとしたが、藍曦臣は問題ないと言い、軽々とすべて持ってしまった。帰り道は山手の方を回り、ランニングコースの下見をした。程よい距離と高低差を江澄は気に入ったが、森を抜ける道程に藍曦臣は眉を顰め、明るい時間にしか走ってはいけないと釘を刺された。
 昼食は買って帰ったもので済ませ、藍曦臣が二度目のメールチェックを終えてから、ふたりはピアノ室に向かった。午後の光はあまり入らず、少し薄暗い部屋で、藍曦臣が鍵盤の蓋を開ける。
 今回頼まれた動画は、江澄が去年出演した作品の中の楽曲を演者たちがそれぞれ撮影し、後で重ねるというものだ。
「オケ音源と歌唱の譜面しかないんだ」
「大丈夫、一度再生してくれ」
 譜面を確認しながら藍曦臣が言う。江澄のタブレットから静かな前奏が流れた。テンポは速くなく、一歩ずつ踏みしめるような展開。徐々に音が厚く重なり、地から湧き上がるような力強さを表現する。民衆が互いを励まし合い、困難に立ち向かう場面の曲である。
 江澄はこの作品に敵役として出演していたから、実のところこの曲を歌うのは初めてだ。稽古場で耳には入れていたが、いざ歌うとなるとそう簡単にいくものではなかった。割り当てられたパートは多くなく、音が取れないということもない。ただ、どんな心情で歌ったらいいものか、ともに歌うはずのコーラスの音に頼ることもできず、ひとり悩んでしまったのだ。二日前の夜を思い出し、江澄の目元に影が差す。
 俯く江澄の手に楽譜が返され、ぽろんと軽やかな響きが耳を擽る。顔を上げれば、鍵盤を藍曦臣のすらりとした指がはじいていた。右手で主旋律をシンプルになぞり、左手で和音の進行を追う。柔らかく、かつ正確にひとつひとつの鍵盤を押さえていく指先から手の甲、手首の動きに見惚れる。そして腕を辿って、藍曦臣の完全に調和した横顔を見つめる。江澄のなかで、何かずっと掴みかねていたものがするすると形を成し、整然と姿を現していくような気がした。
 そうだ、これはまっすぐな情熱を表現した曲だった。人間が持つ純粋で根源的な願いを歌ったひたむきな音楽。中途半端な過去の記憶や頭で考えた事情に絡めとられていつの間にか見失っていた。藍曦臣が滑らかに曲を弾き終えるのに合わせて江澄が息を吐く。瞼を伏せ、残響が消えるのを待って、そして顔を上げた。藍曦臣が花のように微笑んで、江澄を見守っていた。
 数秒、視線を絡ませた後、藍曦臣はまたピアノに向き直り、江澄が歌う部分の数小節前から軽くなぞる。歌詞の最初の音に辿りついたところで強く叩くから、江澄は誘われるままに発声する。ブレスして、同じ音をもう一度、さっきより少し長く。響きを確認したら、伴奏が少し戻ったところから再開する。先ほど取った音から江澄の歌声が紡がれる。ひとつひとつの音を、言葉を確かめるように。低くつやのある江澄の声を楽しんでいるのか、藍曦臣の口元が緩んだ。
「もう一度」
 フレーズを終えたところで江澄から請われたから、藍曦臣は続けざまに同じ譜を辿る。わざと少し遅くしていたテンポは表記通りに戻した。一回目の生真面目な単調さから明らかに変化して、大人の男性らしい重みが加わる。渋みと色気、プライド、責任感、野心。それから、ああ、これは人生へのわずかな疲労か。
 ぞくっ、と藍曦臣の背筋を痺れが走る。久々に触れる江澄のほんものの演技に全身の神経が歓ぶ感じがする。逸る気持ちに指が滑ったのは、江澄に気づかれただろうか。窺って確かめたいが、いま彼を見てしまうと抑えが利かなくなりそうで我慢した。
 僅かずつ歌い方を変えながら、数回繰り返した。藍曦臣が特に好きだな、と感じた表現で歌い終えたとき、江澄はふぅ、と息をついた。ちらりと目を上げて藍曦臣と視線を交えると、満足そうにふわりと笑った。確かめるために尋ねる。
「どう?」
「いいと思う」
「ん」
 すっきりした表情で頷く江澄の頭を軽く撫でてやる。くすぐったそうに身を捩る江澄が可愛くてたまらないが、やるべきことが済んでいないので、うなじをするりとこするだけで藍曦臣は手を離した。
 採光がどうとか言いながら江澄が撮影機材を用意しているのを横目に、藍曦臣はピアノの蓋を閉めようとした。
「あ、待って」
 慌てて江澄が止める。
「本番も弾いてほしい」
 後で重ねるのなら同じ音源で歌った方がいいだろうと思っていたから、藍曦臣は驚く。ピアノの音が入ってしまってもいいのだろうか。
「マイクを使うから、伴奏はそんなに拾わないはず」
「ほんとうに?」
「うん、たぶん…」
 すっかり復活したかと思っていたが、まだ少し弱気は残っていたようだ。眉間のしわが頼りない。藍曦臣の袖をぎゅっと掴み上目遣いで見つめてくる。シャツを握りしめる手をよしよしと撫でてやり承諾を伝えた。あからさまにほっとするようすに、まだまだケアは必要だなと認識を改める。まずはうまくこの収録を終えさせてやらねばならない。
「江澄、キスをしてもいい?」
「………ぅ、だめ」
 それはまぁ、そうだろう。いま口づけたらさっきまでの短い稽古など吹き飛んで、ぐずぐずになってしまうに違いない。自分が蕩けさせた後の江澄を映像に収めて世の中に配信するなど、藍曦臣だってごめんだ。冗談だよ、と笑って言うと拗ねたような安堵したような顔をする。
「曦臣…」
「うん?」
「ちゃんと、動画が撮れた、ら、……する」
 目を逸らし真っ赤な顔で言うものだから、思わず抱きしめそうになったがどうにかこらえる。そうとなれば、とっとと終わらせるしかない。江澄の背を押して機材の方へ促すと、藍曦臣は一度閉じた鍵盤の蓋を上げた。少し離れたところのカメラの前に江澄が立つ。おかしなところに設置するものだと思っていたが、レンズの反対側の、江澄からよく見えるところにピアノと藍曦臣を配置したかったのだ。すぅ、と一呼吸すると、さっきまでの照れた赤みはきれいさっぱり消えていた。藍曦臣も恋に浮ついた感情は腹の底に一旦片付けて、落ち着いた面持ちでピアノに向かう。
 いくつかの段取りを確認してから、いま一度集中を高める。さぁ、まもなく本番だ。かちりと目と呼吸を合わせる。藍曦臣の指が最初の音を奏でるときには視線はほどけて、それぞれ鍵盤とレンズを見ている。ふたりの間の空気の中で音色だけが溶け合っていた。
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向き
「深々長泰 四 」 
初公開日: 2020年08月21日
最終更新日: 2020年08月22日
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