足を踏み出すたびに軋んで音を立てるさび付いた階段を上っていく。
左腕に巻き付いた時計はちょうど12時を指し示し、指に食い込んだビニール袋の中身を横目で確認してため息を一つ。今日も残業、明日も残業、そうしておそらく明後日も残業か。終電に乗って帰る生活に慣れたとはいえ、好ましいとは思えない。
男は電車で二駅いったところの、自然豊かな土地にぽつんと建てられた工場に勤務している。もともと人付き合いの得意なほうではなかった男は、人を相手にするよりも物を相手にする方を選んだ。
職場はお世辞にも良い環境とはいいがたい。納期が遅れたのならノルマを増やされるし、人員はいつも不足がちで、その分を埋めるために時間と労働力が消費される。
労働を終えて疲れて帰ってきたところで、迎えてくれるような相手もいない。心身ともに疲弊しがちな毎日を、男はひそやかに、それでも確実に過ごしていた。
ドアを開けて誰もいない空間へ「ただいま」を投げかける。
返事などないことをわかっているが、こればっかりは習慣というもので、どうしても声をかけてしまう。ため息は幸せの取立人だと思いはすれど、こみ上げてくる虚しさを吐き出さなければやっていられない。
「おかえりなさーい」
元気な声とスリッパでフローリングをたたく音。誰もいないはずの部屋に電気がついていたことを、男は今さらに思い出した。
「ご飯にしますか、お風呂にしますか。それとも両方ですか?」
目の前で向日葵のようなまぶしい笑顔を浮かべる少女を、男はただ茫然と眺めた。
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促されるままに食卓へと通されて口にした食事の、暖かかったことと言ったらなかった。
飢えた犬のように食事をかきこむ己の目の前に座った少女は、先ほどから一言も話さず、ただ黙って食べ終わるのを待っている。
ゆるい曲線を描いた瞼のふちが柔らかく合わさって、今のこの時間が幸福なものであるかのように彼女は微笑んでいるばかりだ。
目の前の皿を空にして深く大きな息を吐けば、華が咲くような笑い声が響いた。
「そんなに喜んで食べてもらえるなら、作った甲斐がありました」
冷たくなっていない食事などいつぶりだろうか。うまかったと礼を言おうとして、この異様な状況を理解し始める。
いったいこの娘は誰なのか。
人がいない間に勝手に部屋に上がり込んで、挙句の果てに料理を作り家主が返ってくるのを待っていた、この娘は。
食後に出された茶を一口すすって、口を開く。聞きたいことは山ほどあるが、それをまとめ切れるほどの思考力はなく、もっとも単純で明確な答えを欲する質問を投げかける。
「アンタは誰だ」
猫のように丸い目をさらに丸くした娘は、口の端を少しだけ持ち上げて
「前世の恋人ですよ」
とだけ言った。
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この不法侵入者曰く。
俺たちは前世で愛し合った恋人だったそうだ。
「それはもう熱烈に……死んだって離すものかと言われて、抱きすくめられたのを覚えていますよ。あの時の君は随分と思い詰めていたのでしょうね」
「前世の因縁など知ったことかよ、そういう話は他所でやってくれ。俺が聞きたいのは、アンタが不法侵入してることは明白なのに、なんでそれが認知されないのかってことだ」
先ほど110番で駆け付けた若い生真面目そうな警官は、部屋を一通り調べ終わった後、あいまいな表情で長期療養を勧めてきた。
「だって私、見えないんですもの。見えぬ存在が不法侵入したと騒ぎ立てたところで、本気にする方はなかなかいらっしゃいませんよ」
「アンタ、幽霊かなにかか。俺はさしずめ憑かれた男ってわけだ、ケッサクだな」
「似たようなものでしょうねえ。……でも」
素早く伸びてきた娘の白い手が己の無骨な手をからめとって、並んだ差異の大きさにわずかばかり反応が遅れる。話に聞く幽霊とは違って、娘の手は暖かかった。
「触れるから幽霊じゃない、とは思っていただけませんか」
「とんだ詭弁だ。誰からも見えぬ存在を、俺だけは人と思えと?」
「じゃあこうしましょう。貴方が私を人と思ってくれるから、私は幽霊ではなく生きた人になれるのだと」
「どっちでもいい。とにかく早くここから出ていけよ」
「ええっそんな! せめて一ヶ月は置いてください」
「アンタ大概厚かましいな」
いいから出て行けと立ち上がった服の裾を、迷い子のような手が掴む。
「一ヶ月だけ。望むのならなんだって、それこそ貴方が望むのならばなんだってしますから、一ヶ月だけ置いてくれませんか」
掴んだ手の主をはねのけることができなかった己を、笑い飛ばせるほどの余裕はなかった。
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「へえ、それで家に上げたの?」
「上げたというか上がっていたというか」
「そこにいることを許したのはミカゲでしょ。おんなじだよ」
おんなじ、という言い回しに顔をしかめる。目の前でカップ麺をすする友人は、箸を咥えたまま器用に水差しを傾けて二人分の水を汲んだ。
「路頭に迷った人間を家に上げるほど、とち狂ってないぞ」
「善意も下心も程遠いもんね。知ってる」
他人をあれこれしようとか考える以前に、自分のことで手いっぱいで他に気が回らないもんね、と五条が――友人だが下の名前は知らない――カップ麺の底に残った小さなくず肉をどうにか掬い取ろうと躍起になりながらも、呆れたように呟いた。
五条は同じ工場勤務の友人だ。子供っぽい口調と柔らかな面差しもあってどこかしら幼く見えるが、己より幾分か年嵩だというのだから驚きである。
引っかかって出てこなくなったペットボトル飲料に悪態をつきながら、自販機にローキックをかましていたのが奴で、それを偶然目にしてから付きまとわれるようになった。
「でもその子、他には見えないんでしょ。だったらいいじゃん、他からとやかくいわれることもないし。ミカゲが気にしなければいい話じゃない?」
「馬鹿いえアンタじゃないんだ、気安く同居人が増えてたまるか」
「俺だって気安く増やしてないよ、気が付いたら増えてるんだよ」
口をとがらせる目の前の人物は、どうにもこうにも、何かしらを引き寄せやすい性質であるそうだ。それが近所でも評判の訳あり物件に引っ越しを決めたものだから、ヤツの家は今や大所帯である。
以前遊びに行った際は、二階など無いのに子供の足音が頭上から響いたし、手洗い場の鏡に何かが立っていたりして恐ろしくなった。
「いいことだよ、一緒に暮らす人がいるって。夜でも寂しくないし」
そう言って笑う五条は肝が据わりすぎているのではないかと、俺は常々思っている。
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「おかえりなさい」
午前様になっても、娘は前日と変わらず料理を作って待っていた。変わったことと言えば、スリッパの柄がうさぎになっていたことか。
一人暮らしを始めた直後にそろえた、来客用のスリッパを引っ張り出してきたらしい。白いうさぎは少々黄色くなっていた。
「……よく見つけたな」
もう使わないからと物置代わりにしている部屋に突っ込んでそのままにしていたのに。
「日中は暇ですからねえ。宝さがし気分でいろいろ漁ってたら出てきました」
「人の家を勝手に荒らすんじゃない」
「何も減りはしませんよ、大丈夫です」
「そういう問題ではなく」
胸をそらした娘は誇らしげだ。そもそも見えない存在が家探ししていたとなると、傍目にはどう映るのだろうか。物が勝手に浮かび上がったり、投げ捨てられたりする様子を想像して、まるでお化け屋敷ではないかと疲れの残る頭を振る。
「お疲れでしょう、お風呂も沸かしてありますよ」
「いつから世話焼き女房になったんだ、アンタ」
「あらいやだ、前世からですよ」
「嘘つけ、恋人だったんだろうが」
「ええ、将来を誓い合いました。……その前に病死したんですけどね」
なので、こうして生活することは私の夢でもありましたと、続く言葉を聞かなかったふりをして、風呂場へと歩を進める。間延びした幸せそうな声が背中を追いかけてくる。
「今日は卵が安かったのでオムライスですよ~」
見えぬ存在がどうやって買い物をしたのだという疑問は、熱い湯に溶けて流れていった。
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「最近来ないなあと思ったら、料理にでも目覚めたンすか、御影さん」
燃えるようなオレンジが頭一つ上で傾げられた。いくつも開けられたピアス穴は、見るたびに痛くはないのだろうかと心配になるが、目の前の人物はシリコン製のリングを指先で弄んだ。
「何故」
「バイト前になんか食うものを買っていこうと思ってスーパーに寄ったら、食品売り場で見かけたんで……。御影さん、自炊とかまったくしなかったじゃないですか」
珍しいなと思って覚えてたンす、と商品をレジに通したコンビニ店員は「千六百五十円です」と見た目に似合わぬ気だるげな声を上げた。
「……それは気が付かなかったな、何日前だったか」
「つい昨日ですよ。寝ぼけてンすか? 前からじじむさいとは思ってましたけど、まさか」
「失礼にもほどがあるだろ」
会計を済ませながら、店員の言った言葉を反芻する。昨日も仕事だったし、帰ったのは例によって日付変更直前だ。つまり目の前の人物が見たという時間に俺がスーパーへ赴くことはありえない。ありえないのだが、心当たりは大いにある。
帰宅して早々心当たりを問い詰めてみれば、彼女はあっさりと首を縦に振った。
「ええ、いきましたよ買い物に」
「つまりなんだ、アンタが"見えない"ってのは……傍から見て透明になってるだとか、そういうわけじゃなく?」
「私の存在そのものが、他の方々には認識できません。私がどこで何を起こそうと、それらはすべて私以外の誰かの行動として皆の記憶に残るのです。……君を例外として、ですけど」
瞠目して項垂れる。ということはだ。
「アンタ、これから勝手にウロチョロするなよ……知らないところでトラブルに巻き込まれるのはごめんだ」
「あら。人の道を外れたことはしませんよ、大丈夫です」
「いやそうじゃなくてな……俺が同じ時間、別の場所に現れたらおかしいだろうが」
「そこらへんも不思議なんですけどねえ。ちゃーんとみんな、それぞれ都合のよいように覚えなおしてくれてるんですよ。昨日は非番だったとかって。だから大丈夫ですよう」
「確認したのか?」
「心配性ですこと。問題が起こればその時に考えましょうよ、これ以上は待ちきれません。お腹がぺこぺこなんです」
「ぺこぺことは驚きだ……さっき食べただろ」
「好物は別腹と言いませんか? 言いますよね?」
視線は俺がぶら下げたビニール袋の中身に釘付けになっている。コンビニで買ってきたアメリカンドッグを取り出せば、大きな目がますます輝いてじいっと見つめてきた。生えていれば尻尾だって振っていただろう。
勝手にそこらのものを手際よく調理して俺の帰りを辛抱強く待つこの娘は、案外ジャンクな食べ物を好むのだと十数分前に知った。普段食わせてもらっている礼とは言えないが、それぐらいならばと頷いたのがつい先ほどだ。
待てをされた犬のように動かない娘に、まだ暖かいそれを手渡す。大事そうに袋から取り出して、深夜だというのに揚げ物を食べるその強靭な胃袋を称えるべきかどうか俺は悩んだ。
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向日葵を抱く
初公開日: 2020年08月10日
最終更新日: 2020年09月09日
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使い方に慣れるためのライブ。
見切り発車の為、着地点は全くわかりません。
人好きのしない男と、前世の恋人を名乗る娘の話。