独歩が営業職で良かったと思うところは外回り中に多少自由になる時間が取れることだ。それに会社に缶詰めにならなくていいところ。適度に一人になれるのでその時に仕事でのストレスを爆発さられせる。社用車での移動の際に音楽を流し、音量を上げて車内をカラオケに仕立てて思い切り歌うのだ。腹の底に溜まったものを音楽に乗せてぶち撒けてしまえば、一日に何度か起こるストレスメーターの急上昇を抑えることができた。
 一二三から話を聞いた日の夕方、独歩は今日の外回りが終わったその足で会社に戻る前に話に出てきたマンションを訪れた。
 一二三が地図で教えてくれた場所を思い出しながら、最寄りの駅前に車を止める。細かいとこまでは思い出せなかったので自分のスマートフォンで地図を開いて探し出すと、道順は単純で駅から直進と右折が一度だけだった。
 夕方の駅前は学生やホワイトな会社員の帰宅で賑わっていた。それを羨ましいと思ったのはだいぶ前の話で、今はもうなんと思わない。……というのは少し嘘だ。やっぱり小さじ一杯分くらいは羨ましい。でも、コーヒーに小さじ一杯ぽっちの砂糖を入れたって甘くはならないのだからそういうことだ。社会に自分の気持ちを反映させようとするなら人目を奪うくらい主張しなければならない。ティースプーンに五杯分くらいの主張を。独歩が呪詛のような愚痴を流しつつもそうしないのはブラックな職場環境だけの問題ではなかった。
 医療機器に精通している営業職は、その性能を知る者として時には医師に頼りにされる事もあって、医療の一端を担っている。時間を選ばない医療現場では当然急な呼び出しもあるわけで、それで休日返上で現場へ出勤するのはよくある事だ。けれど、弊社取り扱いの機器で回復した患者さん、手術が成功した患者さんを目の当たりにすると、こんな自分でも役に立てているという実感が独歩を奮い立たせていた。
 仕事の采配下手なハゲ課長は許さないが、独歩はこの仕事を気に入っている。同様に一二三にも自分が望む仕事をしてほしいと思うのだ。
 一二三はホストになる事を望んでいたわけではないが、決して不幸だったとも思わない。元々、学生時代は天真爛漫な性格の一二三は女の子たちとも仲が良かったのだ。だけど、あの事件があってからは、仲良くしていた女の子たちに顔も合わせられなくて苦しんでいた。ホストモードを手に入れてからはそんな女の子たちへの申し訳なさも緩和できて少しずつ少しずつ慣れが出てきた。数年前と今では外を歩く時の表情も全然違う。そういう点では、新人時代に過剰なストレスがあったとはいえホストを選んだのは間違いではなかった。
 ただ、時々思う。もしも一二三に女性恐怖症がなかったらどんな仕事に就いていただろうかと。器用だし明るいし、本当だったら自分が望んだ仕事に就けたはずなのに。
 それが今目の前に差し出されているのだ。やらなきゃいけない仕事、ではなく、やりたい仕事、が。
 独歩は分かりやすい道のりをずんずん行くと、目的場所に着くまでに少し時間がかかったように感じた。時間は計っていなかったので正確には分からないが、今住んでいるマンションの駅から徒歩七分よりはもっと遠い。だけど苦には感じなかった。道が真っ直ぐで向こうまで見えるからだろう。
 今朝話を聞いたばかりなのだから別にすぐに件のマンションを見に来る必要なんてなかったのだけど、気になってしまった。一二三があんなに楽しそうに話しているのを見て、一体どんなものなのだろうかと。
 目的地にたどり着くと、一二三の話を聞いて通りだった。一階には喫茶店、見上げればビルに見えるマンション。通りからはマンションの側面しか見えないので余計にただのビルだった。
 もしも決まったら一二三が管理するという例の喫茶店はどうなっているのか見てみたくて、独歩は窓ガラスから覗き込んだ。中は暗い上に、窓ガラスはスモークのシートが貼られているようで目を細めてじっくりと見ないとよく分からない。
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食堂のおにいさんは元ホスト
初公開日: 2020年04月21日
最終更新日: 2020年04月21日
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